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2011年06月07日

 彰義隊・・・その三

彰義隊・・・その三
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

慶応四年(一八六八年)三月十四日、高輪薩摩屋敷における西郷と海舟の第二次会談で江戸城攻撃は回避された。
だが、十五日に上野輪王寺宮の公現法親王の陪僧・覚王院が駿府から戻り、一通の書状を提出したことから、海舟は肝をつぶすことになった。

その書状とは
「先ず将軍単騎にして軍門に到り降るにあらざれば、寛典の御処置に及ばず。然れども将軍これを為す能はざる時は、田安殿名代にてしかるべきか。これ大総督の御内命なり」
と書かれた有栖川宮大総督からの命令書であった。

この内容、普通に考えればおかしい。既に三月九日に行われた西郷と鉄舟会談で、和平条件が概ね決定し、十四日には江戸高輪薩摩屋敷で正式会談が執り行われている。

それなのに、この書状が提出されたことにより、和平交渉はうまくいかなかったという噂が江戸城内に広がりはじめ
「覚王院当帰後、其周旋之行届かざるを憤て、専ら一戦をすすめてやまず、漫(みだり)*に有司に会して、戦を主とす」
と海舟日記(三月十六日)にあるように、やはり江戸城は攻撃されるのか、というムードが広がり慌しくなってきた。

この気配に海舟は怒り狂った。再び同日の海舟日記を見ると
「我是を聞いて、かつ怒りかつ恨む。法親王は唯其のご寛典を懇願あられて足りなむ。何ぞ我主を辱(じょく)*するの挙を御内願あられしや。ここに二人あり。一物を買はんとするに、一は百金を出さんといひ、一は三百金を出さんといはば、その人三百金に与えて以て百金を以てする者に与えざるべし。法親王と総督の御内談、ここにいてでては、我輩の小臣切歯断腸すとも彼決して用いざるべし。今日のこと上下ともに力を用いる者なし。止(やむ)なんか、といって激論す。また参謀に書を送りて是を支(ささ)ふ」

と記されている。この最後の一行は、海舟が急いで西郷に書状を送り、第二次会談決定の再確認を求めたことを示しているが、このようなことは二元外交をした結果から生じた問題で、全く一瞬としても目が離せないと、溜息をついている海舟の顔が浮かぶ。

では、どうしてこのような二元外交交渉、誰の指示で輪王寺宮は駿府に向かったのか。それはいずれも慶喜の嘆願依頼であった。

これより以前、慶喜の同様嘆願で和宮及び天璋院から使者が、官軍に向かったが成功せず、輪王寺宮に出向くよう慶喜から再三の懇願があり、当初は固く固辞したが、重ねての願意によって、とうとう二月二十一日、慶喜の謝罪書と諸大名からの嘆願書を持ち、御輿にて上野寛永寺を出発した。

官軍が充満する東海道中、輪王寺宮の御輿と随従する覚王院や僧たちは、大変な困難・難儀を被りながら、ようやく三月七日に駿府城で有栖川宮大総督と会うことができた。

だが、謝罪書と嘆願書を一読した大総督は
「慶喜の朝廷に対する叛逆は明白であり、その大罪に対して追討の勅命が発せられたのである。それで兵を江戸に向けて進めている。今になって許しを請うても、どうにもならない」
と冷ややかな口調で述べ、しばらく駿府に留まるよう輪王寺宮に伝えた。

五日後の三月十二日、有栖川宮は駿府城で輪王寺宮に対し次のように申し述べた。
「ただ一通の謝罪書だけを提出して罪を許して欲しいというのは言語道断である」
「それでは、どのようなしたらよろしいのでしょうか」
「それについては、参謀がお伝えする」
と言い残し座敷を出て行った。

残された輪王寺宮と覚王院は、これは無礼な対応ではないかと内心憤りながら、うながされるままに別室に入ると、そこに参謀の宇和島藩士林玖十郎がいて、江戸に戻った覚王院が提出した先の書状内容が伝えられたのであった。

この結果を受けて輪王寺宮は、これは京に上って天皇に直訴するしかないと覚悟し、再び、有栖川宮と会い、その旨伝えた。すると有栖川宮は声を荒げ
「天子様から東征大総督に任じられ、錦の御旗を授けられた身である。すべては私がとりしきっている。宮は江戸にもどられよ。それも直ちに・・・」
と甲高い声で言い放った。目に険しい光があり、蔑みにみちた顔と声で命じられたことに、輪王寺宮は屈辱を受け、みじめな気持で、駿府城を去ったのであるが、宿所で待っていた覚王院以下の僧たちは、この経緯を聞き、激怒した。

特に、覚王院は
「宮様が、わざわざ江戸からひとかたならぬ苦難をお忍びになられて来られたのに、同じ皇族の身としてそれなりの御回答があると信じていたが・・・・」
と怒りは凄まじかった。この時の激昂憤激が、その後、彰義隊をバックアップするエネルギーとなって燃え上がることになっていくのである。

一方、輪王寺宮の交渉結果を聞いて、覚王院とは異なる次元で海舟は怒り狂った。
その怒りの意味は「素人が出て行って何をしでかしてきたのか。折角に政治専門家の俺が進めた鉄舟路線の成果を帳消しにしようとしているのか」という想い、それが三月十六日の海舟日記に如実に表現されている。

海舟が輪王寺宮の交渉を素人とけなす意味は明らかである。それは覚王院が怒った言葉に明らかである。「宮様がわざわざ江戸から、ひとかたならぬ苦難をお忍びになられて参ったのに・・・」という発言、この言葉には徳川方が陥っている立場への覚悟が薄い。

鳥羽伏見の戦いはどちらが先に仕掛けたかどうか、それは別として、今や慶喜は敗軍の将として白旗を掲げ、謹慎している身である。ならば、負け戦での交渉事には、それなりの環境条件を整えて、ある一点に的を絞って交渉に向かうのが、玄人の仕事だと海舟は思ったに違いない。

輪王寺宮と覚王院は、慶喜の嘆願書を持参し、皇族としての身分ある立場で、駿府まで出向き、同じ皇族の一員である有栖川宮に切々と訴えれば何とかなる、そのように思っていたのであろう。

しかし、ここで欠けているのは、相手陣営の分析である。征討軍の指揮官として、実質的に権限を持っているのは誰かという絵解きである。表向きは有栖川宮が大総督であるが、実際の指揮官は西郷であるという認識に欠けていた。

その一点に関して、海舟の判断は的確で、鉄舟に西郷への添書を持参させたのであるが、仏寺奥深く身を置く輪王寺宮と覚王院では、そのあたりの判断は難しく無理もなかったが、結果として和議交渉はうまくいかなかった。

さらに、輪王寺宮一行は、官軍で満ち溢れている東海道筋を、誰の先導もなく敵陣を突破したのであるから、道中大変な困難・難儀を被ったことが、交渉時にも影響したであろう。それは覚王院の「ひとかたならぬ苦難をお忍びになられて参ったのに」発言に表れている。それは当然であろう。敗者側は戦地で被害を受けるものであり、皇族でありながら、実に屈辱的な待遇の連続であったこと、それが覚王院の激昂憤激につながっている。

対する鉄舟は、海舟の下に置かれていた、薩摩藩士益満休之助を先導役に立たせるという手際よさであった。

もうひとつ、最も重要なことは、政治的交渉には参謀が必要だということである。ただ単に真っ正直にぶつかっていくという戦術もあるであろうが、ここは歴史を決める江戸無血開城という一大舞台である。そのためには、手練手管を知り尽くしたスペシャリストからの助言が必要不可欠であろう。
その点でも、鉄舟は事前に海舟という政治専門家と接し、それなりの助言を受け、和平交渉の妥結点を見出すことに成功している。

ところで、輪王寺宮が有栖川宮と会ったのは、三月七日の駿府城であり、その後再び会見したのが十二日の駿府城である。では、鉄舟が西郷と駿府で会談したのはいつか。それは三月九日である。

ということは、同じ時期に、同じ駿府にいて、同じ目的の交渉を行っていて、その結果は大きく異なっていたということになる。

交渉の仕方が問題だった。つまり、輪王寺宮は海舟がいう素人交渉だったという指摘、一方、鉄舟はその武士道精神による胆力ある優れた判断行動力で駿府会談を成功させた、というのが世に伝わっている通説であるが、ここでそれに対する反論異説を紹介したい。

それは「覚王院義観の生涯――幕末史の闇と謎 長嶋進著 さきたま出版」である。この中に次のように述べられている。

「薩摩藩邸焼きうち事件の時、逃げ遅れて逮捕された益満休之助は、なぜか勝海舟の家に居候をしていて、山岡鉄太郎が『駿府駆け』をした時、官軍の中を突破する案内役をするのである。益満が西郷吉之助の腹心であり、江戸市中撹乱、挑発作戦の中心人物であるということを、勝海舟は知らなかったのであろうか。

覚王院は、これらの全く理解することのできない『謎』を解くべく、間諜の世話になった。その間諜とは志方鞆之進という男で、この当時は、細川家(肥後藩)の家臣となっていた。幕府側と朝廷に通じている。

岩倉具視とは、まだ百五十石ぐらいの貧乏公卿時代からの知り合いであったので、岩倉の間諜の中にも通じ合う仲間がいる。志方は、単に金にさえなれば同志をも裏切るという男でなく、正義に血を燃やす慷慨の士であった。覚王院とも以前から懇意で、真如院によく出入りしていたという。・・・中略・・・
ひそかに京都方面に出かけていた志方鞆之進が、真如院の覚王院のもとに帰ってきたのは、二十日以上過ぎた頃であった。

志方の報告の概要である。
駿府城会談のすべてを背後で演出していたのは、貴僧のご推察のどおり京都にいる岩倉具視である。すべては、『神道復活、廃仏、輪王寺宮の格下げ』が狙いである。
大政奉還がなされ、武家政治である徳川幕府は倒れた。鎌倉幕府以前の天皇制を復活させるには、当然、神道の復活が必要であった。

徳川幕府は仏教をもって、統治してきた。特に徳川家康は、天台宗東叡山寛永寺を天海僧正に建立させ、代々、輪王寺宮を法親王としてお迎えし、特殊な格式をもたせ、宗教界に君臨させてきた。岩倉具視にとって、輪王寺宮は目の上のタンコブである。そこで、慶喜の助命嘆願のため京都に上る輪王寺宮の使命を邪魔しようと、西郷吉之助と勝海舟に間諜を送った。輪王寺宮と有栖川宮大総督が駿府城会談を行う前後に、急遽打った手が、山岡鉄太郎の『駿府駆け』であった。

勝海舟が薩摩藩邸焼きうち事件で捕えられた西郷の腹心・益満休之助を自宅にかくまっていたのも、その時に備えていたのである。輪王寺宮が京都へ行くことを強く拒絶したのもこのためである。輪王寺宮が京都に行き、幼い明治天皇と謁見すれば、輪王寺宮が大きな功績をあげることがわかっていたので、これを許すことはできなかった。

東征軍の実質的大将は西郷吉之助である。有栖川宮は、この間のいきさつを知る由もなかった。
覚王院は志方からこの事実を知らされても呆然とするばかりで、誰にも語ることはなかった。後に、彰義隊の天野八郎とあとあとのことを考えて、範海大僧正にだけはもらしたことがあるという」
この内容、なかなか面白い記述であって、覚王院の立場から推察すれば考えられるものであろう。

さて、話は江戸に戻るが、覚王院がもたらした一通の書状によって、江戸城内は戦いもあり得るという雰囲気が出てきた。

しかし、海舟はこの事態を予測していたかのように、この時までに一番暴発しやすい要素を、事前に江戸から遠ざけていた。

三月一日、甲州鎮撫を願い出た新選組の近藤勇と土方歳三の願いを容れ、金五千両・大砲二問・小銃五百丁をあたえて、甲府へ向けて出発させた。これは陸軍総裁の職権をもってした公然の行為であった。

また、歩兵差図役古屋佐久左衛門と京都見廻組の今井信郎等が、徹底抗戦を唱え、信越方面の鎮撫を行いたいという請願を聞き入れ、両名を昇進させ、歩兵六百名と大砲三門をあたえて、信州中野郷代官所勤務を命じた。これも公然たる命令で行ったものであった。

このように海舟が陸軍総裁として、軍資金と兵器を与え江戸から厄介払いしたのであるが、この背景には別の意図が隠されていたという石井孝氏(維新の内乱 至誠堂)の指摘がある。

「勝の脱走公認政策は、たんに消極的な厄介払いにとどまるのではなく、かれらを放ってゲリラ戦をやらせ、政府軍との交渉を有利にみちびこうとする底意があったのではなかろうか。江戸開城後も勝は、江戸の治安が保てないことを口実に、政府軍から譲歩をかちとろうとしていることからも推測できるであろう」

この最後のところ、これは二月二十三日に正式結成された彰義隊を、官軍側との駆け引きに十二分に活用しようとした事を指摘している。次号からいよいよ彰義隊の実態に入っていく。

投稿者 Master : 2011年06月07日 17:22

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