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2009年09月10日

尊皇攘夷・・・清河八郎その六

尊皇攘夷・・・清河八郎その六
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

薩摩藩の島津久光が藩兵千人を率いて上京したのは、前藩主島津斉彬の意図を継ぐもので、兵力をバックに幕府に改革を迫るものであったが、その行動は周囲に大きな波及効果をもたらした。
それは、周囲にいまにも「攘夷」が決行されるかのような雰囲気を生じさせ、それに乗じた清河八郎の檄文攻勢によって、続々と京都に尊攘志士達が集合したのである。

しかし、これほどあからさまな誤解はなかった。久光の意図を冷静に推察すれば「攘夷」を実行しそうな気配はなかったのだが、時勢にはそのような履き違いをおこさせ、尊攘志士達が沸き立ってしまうことを抑えきれない何かが存在していた。

結果は伏見寺田屋事件となって、薩摩藩同士の斬りあいになり、そこにいた他藩士と浪人が捕縛され、その後、殺害された事例として田中河内介のことを前号でお伝えした。

これについて読者から以下のコメントが寄せられました。

「もう30年ほども前のことですが、宮崎に居りましたときに、明治維新関係の古い秘話本を読んで、日向市のある港に維新三志士が葬られていることを知りました。信用できる書籍だとは思っておりませんでしたので、半信半疑のまま、探索を始めました。地元出身の神職さんの誰に聞いても知らないと言うのです。

当時薩摩の港は日向では細島です。薩摩の支藩がありました。実地調査しかないなと現地で聞きまわると、何と当時墓守をしていたお宅に直ぐにたどり着いたのです。かつて網元をしていたそのお宅は清掃の行き届いた!古いお宅で、品のいいおばあさんが対応してくれ、時計を見ながら、『ご案内しますが、しばらくお話しましょう』と言うのです。三志士が斬殺された当時の言い伝えを話してくれたのです。

それは単なる斬殺ではありません、惨殺です。住民に見られないよう船上で縄付きのまま、何十手もの太刀を受け、切り刻まれての殺害でした。

なぜか。秘密保持のためです。士分の全員が刀傷を入れ、秘密を共有することで保持したのです。そして船上から海へ破棄され、見つけた網元によって小島の小さな墓になりました。

そろそろ参りましょうと案内されてみると小島に渡る白州が細く続いていました。干潮で無ければ渡れない島なのです。時計をわざわざ見られた意味がはじめて分かりました。今は文化財に指定され整備されているようですが、当時『ここをわざわざ調べ、お参りされたのは貴方がはじめてです』とおばあちゃんに言われました。墓は海賀宮門、中村主計、千葉郁太郎とありました」

読者のご指摘通りで、海賀宮門は秋月藩士、中村主計は京都浪人、千葉郁太郎は河内介の甥で、三人は確かに薩摩藩によって殺されました。三人が船上で田中河内介の殺害について、薩摩人の不信義を追求したからという理由のようですが、実際は最初から殺すつもりでした。

 伏見寺田屋事件は薩摩藩士同士の斬りあいですから、他藩士と浪人は本来関係ありません。ですから、その場にいたということだけで、薩摩藩が殺す理由は成り立たなく、さらに、海賀宮門は秋月藩士ですから、藩に送り届ければよいのに殺しました。

これは薩摩藩の幕末維新史の汚点であり、その後、三人が維新三志士と称されるようになったことも、何かやりきれない気持ちにさせられる。

ところで、本来、清河は寺田屋にいたはずで、いたならば同じ運命となったはずである。だが、諸国に檄文を飛ばし嗾け煽り立てた本人は、つまらない理由で寺田屋にいなかった。

ある日、大坂薩摩屋敷の二十八番長屋に本間精一郎が訪ねてきた。本間は越後寺泊の豪商の長男で、武士にあこがれ家を出て、お金が潤沢である上に、いっぱしの志士きどりで、弁舌が立ち、一部に人気があったというが、言うことが激烈であるわりには、言行が伴わないというので嫌われているところもある人物だが、清河は江戸の安積艮斎塾で一緒だったこともあり親しくしていた。

その本間が清河を舟遊びに誘った。それを受けた清河は折角だからと、少年時代に深い感銘を与えてくれた藤本鉄石や、二十八番長屋にいた数人と宇治川に浮かんで、海に出ようとして舟番所にさしかかると、船頭が番所に名前を届ける必要があるので、名前を書くよういわれた際、もうすでに芸妓に三味線をひかせて派手に飲んでいたので、つい「酔いに乗じて悉く奇名を記す」(清河著「潜中紀事」)とあるように、勝手な変名を名乗り、多分、「荒木又右衛門とか後藤又兵衛とか言うよう名を書き連ねた」(海音寺潮五郎「寺田屋騒動」)と思われる。

これでは番所役人も黙っていない。公儀幕府役人のプライドがある。馬鹿にするなと、問い質す番所役人に対し、本間が舟を降り番所に乗り込み、得意の弁舌でやり込めるという失態を演じてしまった。

舟遊びを終えたこの日は、それぞれ止宿先に戻ったが、これが問題にならないわけはなく、本間のところに役人が張り付き、調べだし、捕縛の可能性も出てきたので、逃げ場として清河のいる大坂薩摩屋敷の二十八番長屋に転がり込んできたのである。

しかし、役人の追及が続き、本間が薩摩屋敷にかくれたことをつきとめ、問いただしてきたので、清河と親しい柴山愛次郎と橋口壮介も困って、軽率行動を厳しく責めてきた。藩と役人の間で板ばさみになっている柴山と橋口の立場も考え、清河は
「申し訳ない。迷惑をかけたのであるから、ここを出て行く」
 と述べ、京都三条河原町にある医者の飯居簡平宅に移った。飯居宅は長州藩邸にも近く、薩摩藩屋敷の同志が決起するときは、長州藩邸にも連絡があるので、それを待ちつつ飯居宅にいたところに、伏見寺田屋事件が発生したのであった。

清河はつまらないことで寺田屋にいず、死なずにすんだが、このつまらないことが大業を成し遂げ得ず、生涯を終えたことに通じていると思う。

清河は、元来「相手の意表に出て鼻をあかす」という面があった。これは出羽庄内という田舎の酒造業出身という武士でないという劣等感と、その裏返しの気持ちから、人一倍負けたくないという感情が強く入り交じって、時に意表に出て、それが結果としてやり過ぎになる傾向があった。

それが舟遊びでも顕れた。酒に酔ったとはいえ、本間精一郎の醜行を止めえず見逃し、かえって役人何するものぞ、と同調した一面につながったのである。

この薩摩屋敷退去によって、全国逃亡生活から、田中河内介を知り、中山忠愛の親書をもち、九州各地を遊説し、久光の上京を機に、念願の倒幕一番乗りという、晴れの舞台になる可能性もあった寺田屋、そこに参じることができなかったのであるが、今回はこの性癖ゆえに助かったのである。

さて、久光の目的は幕府の改革であった。その改革の要点は、さきに安政の大獄で処分されたままになっている公卿や大名の罪を許すこと、つまり、大赦を行うこと、ついで、一橋慶喜を将軍後見職とし、前越前藩主松平春嶽(慶永)を大老につけることなどであって、これを島津家と縁戚にあたる近衛忠房を通じて朝廷の承認をとりつけ、文久二年(1862)五月、江戸へ派遣する勅使として、岩倉具視に劣らぬ剛直さで「鵺(ぬえ)卿(きょう)」と呼ばれた大原重徳を差し下してもらうことになった。

幕府は抵抗したものの、とうとう押し切られる形で一橋慶喜を将軍後見職に、松平慶永を「政治総裁職」につけた。「政治総裁職」という役職にしたのは、大老は譜代大名がつくもので、徳川家の親戚である家門筆頭の越前松平家に相応しくないという理由からであったが、これらの動向は清河にとってまだまだ運が残っていることを示していた。

それは一連の改革の中で出された大赦の動きだった。うまくいけば文久元年(1861)五月、虎尾の会を潰し、清河を逮捕する口実をつくる罠だった岡っ引き殺害事件、この結果、清河は全国逃亡の旅に出たのであるが、これがご赦免になるかもしれないという希望だった。

文久二年八月、清河は江戸に戻り、ひそかに、小石川鷹匠町の山岡鉄舟を訪ねた。
「無事でしたか」
鉄舟は清河を懐かしそうにみて、すぐに英子が用意した酒を飲みながら、逃亡を始めた文久元年五月以来の状況を語り合い、幕閣の変化と、それによって希望が出てきた清河の大赦について語り合った。

この時、幕閣は大きく変わっていた。安藤老中と久世老中は辞職し、安政の大獄で辣腕をふるった京都所司代酒井忠義も罷免されていた。代わって幕閣を動かしているのは、備中松山藩主板倉勝静、山形藩主水野忠精、竜野藩主脇坂安宅の三閣僚と将軍後見職一橋慶喜、政治総裁松平慶永という目をみはるような変化だった。

「大赦を掛け合うには、今が好機だ。幕府はこれまでのように尊王攘夷について、無闇矢鱈に弾圧できない状況になっている」
「そう思う。ご赦免の請願書を書いてみようと思っている」

清河は水戸に向った。水戸では逃亡中に立ち寄ったときとは、雲泥の差の歓待を受ける羽目になった。清河が来る、という噂はすぐに広まり、多くの人物が清河の前に現れて、寺田屋の件を語り、策は直前で破れたものの、清河の呼び掛けで三百人ほどの尊攘志士が京都に集まったことを賞賛するのであった。

水戸にいる間に清河は「幕府に執事に上(たてまつ)る書」を書き上げ、鉄舟に送り、政治総裁松平慶永の手許に届けるように依頼した。

結果は清河に対し、文久三年(1863)一月、北町奉行浅野備前守から、正式の赦免の沙汰がおりることになった。

この日清川は、出羽庄内藩江戸留守居役黒川一郎に付き添われて、麻裃に身なりを改めて奉行所に出頭し、次の示達を聞いた。
「御家来にて、出奔致し候清河八郎召捕方の儀、先達相違し置き候ところ、右者此の上召捕に及ばす候間、なおまた此段申し達し候事」

同じ日に、浪士取扱いの松平上総介から、次のような伺書が奉行所に出された。
「出羽庄内 清河八郎
右者有名の英士にて、文武兼備尽忠報国の志厚く候間、御触れ出しの御趣旨もこれあり、私方へ引取り置き、他日の御用に相立て申したく此段伺い奉り候」

この二通の公式文書で、清河は晴れて赦免の身になると同時に、松平上総介に身柄を引取られることになったが、これは一種の軟禁状態におく意味合いがあった。

松平上総介とは、鉄舟も関与している講武所の剣術師範役並出であり、直心影流を学び男谷下総守と同門で、他にも伊庭軍兵衛に心形刀流を学び、柳剛流にも通じている剣客である。

ここで、ちょっと寄り道になるが柳剛流にふれてみたい。あまり馴染みのない流派である。柳剛流は武州北足立郡蕨の農家生れの岡田総右衛門奇良を流祖とし、特徴は上段から長大な竹刀をふりかぶって思い切り振り落とし、面にきたなと思っていると、そのまま相手のすねを狙い撃ちする剣法。それも一撃ではなく、はずされれば二撃、三撃と相手がかわし切れなくなるまで続け、相手の体勢が崩れたところを狙い打つので、幕末の剣豪たちが軒並み総崩れで敗退したという。その後、何度も苦杯を喫してようやく対策を編み出し、撃退できるようになったというが、撃退法もかなりの修練を要するもので、幕末の著名な剣豪たちは柳剛流を相手にするのを大変嫌がったという。

それを示すように、千葉周作もその著書の中で、
「柳剛流は足を多く打ってくる流派である。相手が足を打ってきた場合、足を揚げようとしては遅れてしまい、多分打たれてしまう。早くするためには、踵で自分の尻を蹴るような気持ちで足を挙げるとよい。また、太刀先を下げて止めるのもよい。この場合も受け止めようとするのではなく、切っ先で板間土間をたたく気持ちで止めるべきである」と述べているが、この柳剛流の名手が松平上総介であった。

その上、松平上総介の家柄は名門だった。松平は家康の六男忠輝の後胤で、わずか二十人扶持の捨て扶持であったが、白無垢を着て登城すると、譜代大名の上席に付く格式を備えていた。

ここに目をつけたのが清河である。松平上総介に身柄を引取られ、一種の軟禁状態という条件を有利に活用しようと、愈愈その「意表に出る」能力を発揮したのである。さすがは伏見寺田屋事件を潜り抜け、生き残ったしぶとさといわざるを得ない。

投稿者 Master : 2009年09月10日 13:01

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