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2006年07月03日

鉄舟の臨機応変行動力

鉄舟の臨機応変行動力
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

JR田町駅近く、都営浅草線三田駅を上がったところ、第一京浜と日比谷通り交差点近くのビルの前に「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 会見の地 西郷吉之助書」と書かれた石碑が立っている。その石碑の下前面、向かって左側に「この敷地は、明治維新前夜慶応4年(1868)3月14日幕府の陸軍参謀勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた『勝・西郷会談』の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所である・・・。」と書かれ、石碑の下前面、向かって右側に高輪邉繒圖が描かれている。

この薩摩藩蔵屋敷で会う前日の3月13日、海舟と西郷は芝高輪薩摩屋敷で第一回の会談を行った。駿府において行われた鉄舟と西郷との会見結果を受け、正式に海舟は幕府陸軍・軍事総裁、西郷は東征軍大総督府参謀として会見・交渉に臨んだのであった。
海舟と西郷はすでに元治元年(1864)の第一次長州征伐時に、大坂で会っていた。
この時は西郷が海舟を訪ね、海舟が滔滔と展開した時流見識に、完全に圧倒された西郷であったが、今は立場が逆転し、海舟が西郷を訪ねたのであった。

二人の間では、静寛院宮の安全についてのみ確認し合い、あとの議題は翌日に回し、海舟が西郷を愛宕山に誘った。
愛宕山は海抜26メートル、さほど高くない丘であるが、台地の東端にあり、ここから見下ろすと、江戸の町が北から南まで見渡せ、その先に広々とした海と白帆の船を望むことができる。また、徳川家康が建立した愛宕神社があって、江戸城南方の鎮護として当時も今も名所となっている。愛宕神社に参拝するためには、寛永11年(1634)の曲垣平九郎が馬で上った急勾配、その男坂86階段を上らなければならないが、海舟と西郷もここを上ったことであろう。

愛宕山の見晴らしのいい場所に西郷を案内し、海舟は「江戸市中が焼け野原にならずにすみ申した」とぽつりとつぶやいた。その言葉の背景には、官軍の江戸城攻撃による戦災を防げたという意味と、海舟の準備した焦土作戦、それは官軍が江戸に入ったならば、ロシア軍がモスクワに火を放ってナポレオン一世の野望をくじいたと同じく、官軍進撃の退路を火で断つ作戦があったこと、それを言外に漂わせたものであった。

この当時の江戸は素晴らしい調和のとれた景観都市であった。それを証明するのがイギリス人写真家「フェリックス・ベアト」の写真である。撮影したのは慶応元年(1865)から2年(1866)頃で、江戸市中をパノラマ写真として残している。海舟と西郷もベアト写真が証明している整然とした江戸景観を眺め、西郷に海舟がいろいろ説明したであろう。
今、愛宕山から眺めると、ベアトが撮影した当時の景観は望むべくもない。ベアトと同じ位置から見た現代の東京の街並み、それを今回改めて撮影したので、見比べて欲しい。貧しく哀れさを感じるほど、現代は調和美が失われている。

ここでベアトの写真を研究している小川福太郎氏(元NHK放送博物館)の見解を紹介したい。小川氏によると「①写真の中に人物が殆ど写っていないという。当時のカメラは露出時間が長く、移動する対象人物等は乾板に写らなかったと推測される。②しかし、よく見ると愛宕山下の真福寺庫裏玄関右に、住職と思える人物が一人上方の屋根を見ている。また、中央の片桐石見守屋敷の庭で屋根に梯子をかけて一人が休んでいて、右側の青松寺先の屋根物干し台に三人いることが分かる。③つまり、合計五人が止まった状態にいたので写っており、いずれも屋根に関わった位置にいて、その見ている屋根方向が一様に壊れていている状態を併せ考えると、江戸の町は台風が襲来し被害を受けた時期、多分、8月から9月に撮影されたと思われ、撮影時刻は瓦職人の昼食の休み時間であろう」と推測している。なかなか面白い見解であり紹介したい。

さて、上野寛永寺大慈院一室で、将軍慶喜から直接命を受ける異例の事態となった鉄舟、その後はどのような行動を採ったのであろうか。それについて「西郷氏と応接之記」に次のように鉄舟が記している。
「余は、国家百万の生霊に代りて生命を捨るは素より余が欲する所なりと、心中青天白日の如く一点の曇りなき赤心を一二の重臣に謀れども、其事決して成り難しとて肯ぜず。当時軍事総裁勝安房は余素より知己ならずと雖も、曽て其胆略あるを聞く。故に往て之を安房に謀る」
一介の旗本に過ぎず、一度も政治的立場に立ったことがない者が、幕府存亡危機を救う外交交渉に向かうよう命を受けたのである。一般的にそのような状況に立ち至ったとき、どのような行動を採るであろうか。常識的には政治的立場の上層部に相談するであろう。鉄舟も同じであった。何人かの幕府上層部人物を訪れ、相談し指示を仰いだのであるが、皆、単独で駿府へ行くことなどは無謀であり、不可能であるからといって相手にしてくれない。そこで、最後に、今でいえば当時の首相の任にあった、軍事総裁としての海舟のところに向かったのであった。

そのころの鉄舟は「山岡鉄太郎は危険人物だ。海舟を狙っている。注意しろ」と、大久保一翁からいわれるほどの警戒人物であった。事実警戒される背景要因も過去の鉄舟にあり、これについては後日詳しく述べたいが、これらから当然に鉄舟と海舟は面識がなかった。更に、和戦派の首領であった海舟は、主戦派から官軍に屈した憎き男として、刺客に付けねらわれていたことから常日頃用心深くしていた。
そこに現れたのが鉄舟である。当然、居留守を使ったが、六尺二寸、二十八貫という巨躯の鉄舟が「主命を帯び、火急の用事があって、会いにきているのだ。取り次げ」と大喝する気迫に「玄関口ではとても謝絶しかね」とうとう会うことになった。
鉄舟も自らの評判を知っていて「安房は余が粗暴の聞えあるを以て少しく不信の色あり」(西郷氏と応接之記)と自ら記している。
だが、海舟は一瞬にして鉄舟の本質を理解した。海舟日記に「旗本山岡鉄太郎に逢う。一見その人となりに感ず」(3月5日)と記し、その上、後年海舟は次のように回想している。
「おれにことの仔細を告げて、答弁を求められたけれども、おれもこれまで山岡のことは、名だけ聞いていたけれども、いまだその心事がしれんから、即答せずにひそかに山岡の言動を察するところ、なんとなく機の失うべきでないことを悟っているふうに見えたから、おれが山岡に問いを発した。『まず、官軍の陣営に行く手段はいかにするや』と。山岡答えて、『臨機応変は胸中にある』と縷々と説明したが、毅然とした決心の固いのには感服したよ」

この時点で官軍は品川に迫っていた。目前の敵中を突破しなければならない立場になったとき、普通の人間は何を考えるであろうか。多分、敵中突破の方法論を検討するであろう。駿府までの距離・時間を計り、陸路か海路か、馬の用意、変装用具など、多くの手段を考え講ずるに違いない。それが当たり前の一般的な準備としての考え方である。
しかし、鉄舟は違った。海舟に「縷々と説明した」こととは、方法論ではなく開ききった心境であり、これが鉄舟の「臨機応変は胸中にある」という次の内容であった。
「余の曰く、官軍の営中に到れば彼ら必ず余を斬るか将た縛るか外なかるべし。然る時は余は双刀を解きて彼らに渡し、縛るなら尋常に縛に就き、斬るならば斬らす可し。何事も先方に任して処置を受く可し。去りながら、何程敵人とて、是非曲直を問わず只空しく人を殺すの理なし、何の難き事あらんと」(西郷氏と応接之記)
己の身を、すべて目的遂行のために投げ出し、敵に対して小細工を用いず、相手のなすままに対応しようとする清みきった心境、それが鉄舟の「臨機応変」なのである。

後日、海舟が鉄舟の「臨機応変」について次のように評している。
「これが本当だよ。もしこれを他人にしたならば、チャンと前から計画するに違いない。そんな事では網を張って鳥を得んと思うの類だ。決して相手はそうくるときまってはないからナァ。ところが山岡なぞは作戦計画はなさずして作戦計画が出来ているのだから、抜目があるとでも評しようよ。まァ御覧よ。彼が西郷との談判工合やら、敵軍中を往来する事、恰も坦途広路を往くが如く、真に臨機応変のところ、ホトホト感心なるものだ」
海舟は鉄舟を正しく、妥当に評価したからこそ、幕府の運命を鉄舟に託したのであった。

投稿者 Master : 2006年07月03日 05:31

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