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2007年09月12日

弟たちの世話に明け暮れる

  弟たちの世話に明け暮れる
    山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

嘉永五年(1853)七月、鉄太郎(鉄舟)は両親の相次ぐ死で、飛騨高山から江戸に戻った。戻った先は異母兄の小野鶴次郎(古風)の屋敷であり、鉄太郎の後ろに五人の弟が連なっていた。金五郎、忠福、駒之助、飛馬吉、それと末弟の務は二歳の乳飲み子であった。

異母兄である小野鶴次郎の屋敷は、元治元年(1864)の江戸切絵図に掲載されている。当時の歩兵屯所の跡地が現在の靖国神社、その青銅の大鳥居の北側に九段高校、白百合学園があり、その奥に衆議院議員宿舎があるが、その中間あたりに鶴次郎の屋敷があって、今の住所は千代田区富士見二丁目である。なお、このあたりは旗本屋敷が多く、年々歳々役職が変わっていくので、そのたびに移転が多く、切絵図は度々改変されている。因みに安政三年(1856)の切絵図を見ると、同所は小野朝右衛門で六百石となっていて、切絵図の記載から鶴次郎が小野家を継いだことが分かる。

この鶴次郎について鉄舟宅の内弟子として、晩年の鉄舟の食事の給仕や身の回りの世話などを、取り仕切っていた小倉鉄樹の著書「『おれの師匠』島津書房」に

「異母兄小野古風は凡庸の資で、取り立てて云ふほどのこともない。晩年には師匠(注 鉄舟)の人格に深く傾倒して、弟を『先生、先生』と呼んでいた程の好人物であったが、飛騨から多勢押しかけた事については、お互いの不幸を嘆く前に一方ならず迷惑視したらしく、冷やかな待遇を興へてゐる。末弟の務は生後僅かに二歳で、しきりに乳を求めるので、鐵舟は兄に乳母を雇って貰い度いと懇願したが、とんと取りあっては呉れなかった。仕方がないので、鐵舟は務をいだいて、近所に貰ひ乳をしてあるき、夜は重湯に蜜をといで、枕邊にあたためて置き、毎夜自分が添寝をして育てたと云ふことである。十七歳の若年鐵舟を鍛錬したものは決して剣禪のみでなく、幸福なるべき六百石の若殿は、早くも浮世の辛酸と雄々しくも戰闘を開始して、不退轉の心情を陶冶してゐたのである」
とある。

飛騨高山では乳母がいたので末弟務の世話はしなくてすんだが、江戸に戻ってからは何から何まで鉄太郎が面倒を見なければならない。次弟の金五郎ではまだ赤ん坊の面倒は無理である。乳母も雇ってもらえず、鉄太郎が一切の子育てをしたのであるが、これはなかなか十七歳の少年に出来ることではない。

父母を失うという已む得ない事情と、鶴次郎から冷たい待遇を受けながらも、鉄太郎は必死に弟たちの面倒を見て江戸での生活をスタートさせたのであった。このようなことを通じ後年の鉄舟人間の基礎が出来ていったのである。

さて、父小野朝右衛門の死については、巷間自刃説が伝わっていると前回お伝えした。小倉鉄樹の著書「『おれの師匠』島津書房」には次のように記されている。

「小野郡代の急死については當時色々の取沙汰があったが、朝右衛門が盛んに武道を奨勵し、幾度か陣立を行った爲に、幕府にうたがはれ、遂に違法として咎を受け、自刃したと云ふ説がある」しかし、この後に「然し師匠自身は『父は脳溢血で死んだのだ』と言われている。發喪せられたのは死後四ヶ月もすぎた六月五日で、其の時の廻状等今も残っている」とも記しているので、前号では脳溢血による病死と解説した。

だが、以上は正史の類であり、小野朝右衛門の死については、不審な異説がある旨の主張を、小島英煕著「山岡鉄舟」(日本経済新聞社)で展開しているので、その概要をお伝えしたい。

「異説の主張者は鉄舟の血筋という成川勇治氏である。成川勇治氏は、鉄舟にほれ込んで、弟子入りした人物の成川忠次郎の孫である。孫となる経緯は、鉄舟の長男山岡直記、この人物は鉄舟の子どもと思えない出来の悪い存在だったが、その直記の子どもである武男を、事情あって成川忠次郎が引取り育て、忠次郎の長男精一の娘と結婚させ、生れたのが勇治氏であるから、確かに鉄舟の血筋を引いている。この勇治氏が、やはり山岡直記の娘であるきくの孫と結婚している。鉄舟の血筋を守ろうとした武男の考えであったという」

この武男の祖母にあたる、鉄舟の長女松子から聞かされた話として、以下の記述が同書にあるのでそのまま紹介したい。

「鉄舟は彼女(注 松子)に『小野家が郡代の時、うちに竹矢来を組まれ、父は蟄居、切腹させられたのだ』と語っていた。しかも、母の磯は幕府隠密の手によって毒殺されたという。小倉鉄樹の語った噂を松子は真実として話したことになる。
勇治氏の話をまとめれば、当時、高福(注 朝右衛門)には謀反の疑いがあった。幕府に無断で陣立を実行したからだ。小野家では毎年、近在の農家に行って、栗粥を食べる行事があった。この時、農家の者が幕吏に脅迫されて粥に毒を入れて、みせしめのために磯を殺した。これによって磯の三千両蓄積疑惑が浮かんだ。高福も一連の責めを負い、切腹させられた。
それが喪を長く伏せた理由であり、その間に疑惑は晴れた、ということらしい。小野家は断絶せず、鉄舟の異母兄の鶴次郎が相続したからだ」

このように小島英煕著「山岡鉄舟」に書かれているが、これは鉄舟の血筋という成川勇治氏へのインタビュー結果からである。成川勇治氏は高山まで行き、いろいろ調べたが誰からも相手にされずに、結局、嫌気がさして小島英煕氏に語るまで沈黙してきたという。

だが、これが真実だとしたら、鉄舟が江戸無血開城に動いた幕府への忠誠心と、この両親の不審死よる幕府への葛藤心理、それらをどのように内面的に調整していったのか。母が毒殺され、父が切腹させられたことへの屈折した感覚、それが鉄舟の幕府不信へとつながる可能性は大きいと思うが、鉄舟は慶喜を助け、結果として江戸無血開城を成し遂げている。自らの深い心の陰影を押し殺し、それを超え、鉄舟は江戸無血開城に動いたことになる。成川勇治氏の発言は重い意味を持っている。

なお、この成川勇治氏とは、数年前に埼玉県小川町でお会いしたことがあるが、その際にこのような内容について、何もお話しがなかったことを記憶している。

成川勇治氏は、鉄舟の長男山岡直記の三男武男を父としている。山岡直記が武男を成川忠次郎の養子に出したから、成川勇治氏が生れたのである。

山岡直記の評判はいたって悪い。いずれ詳述することになると思うが、勝海舟も明治三十一年十月二十三日に「山岡にもよわるよ。母(山岡未亡人英子)の方へは、月に百円ずつ、千駄ヶ谷(徳川宗家)から出るが、直記はワシの方に来て困るよ。モウ切ってあるのだが、まだ来て困るよ」(『海舟座談』岩波文庫)と述べているほどである。また、事件を起こし鉄舟が受けた爵位も取り上げられ、生活に困窮したようで、その結果、子どもを養子に出したのであり、その一人が武男であった。

山岡直記については記録があまり残っていないし、関係者の間では禁句になっているようで、実際の姿は不明であるが、偉大な鉄舟の子息としては残念ながら不出来の人間である。どうして鉄舟のような親から直記のような「山岡家を潰した」人物が生れたのか。

鉄舟の生き様を研究している者として、ずっと疑問に思っている大きな問題点の一つであるが、最近、ふと手にした河合隼雄著「『影の現象学』講談社学術文庫」に次の内容があった。

「宗教家、教育者といわれる人で、他人から聖人、君子のように思われている人の子供が手のつけられない放蕩息子であったり、犯罪者であったりする場合が、それである。世間の人はどうして親子でありながら、あれほど性質が異なるのか、といぶかったりも息子の親不孝ぶりをなじったりする。あるいは、聖人、君子と言われていても案外子供には冷たいのではないかとか、親子関係の悪さを勘ぐったりする。しかし、これはそのような次元では了解できないことであり、たとえ、親子関係に一般的な意味での問題がないとしても、親の「影のない」生き方自身に、子供の肩代わりの現象を呼び起こす力が存在しているのである。一般に信じられているように、親が悪いから子供が悪くなるという図式で了解されるような場合は、治療も簡単である。しかし、いわば親が良いために子供が悪くなっているとでも言うべきときは、治療はなかなか難しいのである」

鉄舟の長男である山岡直記は、この河合隼雄氏の見解に該当するのではないかと思っている。人間はなかなか難しいものである。

両親を失った鉄太郎の手許には三千五百両というお金があった。父母が遺してくれた財産であった。この三千五百両について、いろいろの試算計算結果から、今のお金に換算して大金であることは前号で述べた。

このような大金をどうやって蓄財したのか。母磯の死が三千両蓄積疑惑に絡んだものであり、後日疑惑が解けたにせよ、大金蓄財が疑問視されたと成川勇治氏が指摘している。
しかし「磯の父である塚原石見の遺産に加えて、日々の生活を切り詰めて貯めたものだ」という見解もある。(佐藤寛著「山岡鉄舟 幕末・維新の仕事人」光文社新書)

ここで江戸時代の代官の収入についてみてみたい。

「郡代、代官はその家禄を有するわけですが、代官の職務を行うための属僚の手当ておよび役所の諸入費に当てるため、はじめ口米や口永と称して、年貢の中より徴収していたが、享保十年(1725)には、口米や口永は幕府の収入とし、代官にはその支配高に応じて、一定の米金を給することにした。支配高五万石につき米は七十人扶持、金は西国が七百五十両、中国が六百七十両、その他の地方では六百両でした」(石井良助著「江戸時代漫筆」井上書房)とあるように、飛騨高山代官所は石高十万石を超えていたので、普通の代官所の倍の手当てを受けていたはずで、約七年もの代官所郡代としての期間、収入を大事に節約していけば、三千五百両の貯金はそれほど無理なく貯まると思われるので、不正蓄財ではなかったと考える。

ところで、江戸に戻った鉄太郎は弟たちの世話に明け暮れていたが、それを見かねた剣道師範の井上清虎は弟たちを養子に出すことを勧めた。

井上清虎は千葉周作の玄武館道場の四天王として名声があり、その井上清虎を小野朝右衛門が飛騨高山に迎え、鉄太郎の指導者となったのであるが、この井上によって鉄太郎の剣が一段と伸び、その後も二人の間は信頼の関係でつながっていて、鉄太郎の育児苦労に対する救いの手段として養子を勧めたのであった。

当時の旗本・御家人は生活に困窮している者が多く、身元確かで多額の持参金のある子どもは、引き取り手が多く、五人の弟に各五百両をもって養子に出し、鉄太郎は百両だけ手許に置き、残りすべてを小野鶴次郎に渡して三千五百両を整理したのであった。

鉄太郎のもとに残した百両は、自らが貧乏な山岡家に養子に行くに当たっての持参金としたのであったが、ここに金銭に恬淡として生きた鉄舟の人柄が顕れている。

投稿者 Master : 2007年09月12日 08:50

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