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2011年03月11日

彰義隊・・・その二

山岡鉄舟 彰義隊・・・その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

鉄舟が西郷と駿府で、江戸無血開城会見をしたのは慶応四年(一八六八)三月九日である。実はこの日の夜、もうひとつ江戸で重要な会見が密かに行われていた。それは勝海舟陸軍総裁と、英国公使館通訳官アーネスト・サトウとの会談であった。

アーネスト・サトウとは、文久二年(一八六二)九月、生麦事件発生の六日前に来日、以後、幕末から明治時代にかけて、通産二十五年間にわたり日本に駐在し、日本人と日本語で口論するというほどの語学力で、自ら「薩道(サトウ)愛之助」と称するほど大の日本好き。日本人女性の武田兼と結婚、二男一女をもうけた。また、人一倍強い好奇心と行動力で、日本国内を精力的に駆け巡り、情報を収集した人物である。

そのサトウが海舟との会談を、次のように日記に書き記している。(アーネスト・サトウ坂田精一訳『一外交官の見た明治維新(下)』岩波文庫)

「三月三十一日(旧暦三月八日)に私は長官(英国公使ハリー・パークス)と一緒に横浜に帰着し、四月一日(旧暦三月九日)には江戸に出て、同地の情勢を探ったのである。

 私は野口と日本人護衛六名を江戸に連れて行き、護衛たちを私の家の門のそばの建物に宿泊させた。私の入手した情報の主な出所は、従来徳川海軍の首領株であつた勝安房守であった。私は人目を避けるため、ことさら暗くなってから勝を訪問することにしていた」

 このサトウと海舟の会談について「海舟日記」には三月九日と日付は立てているが、全く記していない。(『慶応四戊辰日記』勝海舟全集1講談社)

これはサトウとの会談が、かなり政治的なものであったことを暗示する証拠であり、会談目的は英国公使のパークスが、官軍及び西郷に対して持ちえる影響力を、海舟が利用しようとしたことは明白であろう。
その利用第一目的は、サトウを通じて英国ルートから和平工作を図ろうとしたことであるが、その他にもいくつかの保険的手当てがあったはずである。

それは、まず、駿府に向かった鉄舟への保険である。海舟がはじめて会った鉄舟について「旗下山岡鉄太郎に逢ふ。一見その人となりに感ず」(『慶応四戊辰日記』三月五日)と、今まで大久保一翁から「海舟の命を狙っているひとり」という風評とは全く異なる人物像に接し、西郷との会見が成功する可能性に賭け、西郷への添書を渡し、期待を持って送りだしたが、当然のことながら鉄舟に徳川家のすべてを託すというほど楽観的にはなり得ない。

さらに、西郷への保険もあった。鉄舟の駿府行きが成功し、江戸城攻撃を取りやめることを西郷が引き受けたとしても、西郷一人に徳川家の命運を預けてよいのかという不安である。つまり、西郷は大総督有栖川宮の代理であるが、代理ということは、その背後に最終決定権者が存在するということであり、そこの段階でひっくり返る可能性もあるだろうという危惧である。

この虞(おそれ)は、西郷という人物と元治元年(一八六四)九月に大坂ではじめて会って以来、海舟と西郷は理解しあえる関係にはなっていたが、今の西郷の立場は、攻撃軍の総帥であり、実際に江戸城攻撃を旗印に進軍してきているわけで、過去の面識で得た感触とは異なる人物となっている可能性が高い。

そのためにも、フランス公使レオン・ロッシュに対して事実上の外交断行を宣言し、英国との関係を構築したのであって、英国のルートからその影響下にある官軍の薩長にパイプを通そうと動いたのであった。

さて、三月十日、徳川側に一条の燭光が射し込んだ。勿論、鉄舟の西郷との会見成功の知らせが届いたことである。三月十日の「慶応四戊辰日記」は次のように書いている。

「山岡氏東帰。駿府にて西郷氏に面談。君上の御意を達し、且 総督府之御内書、御処置之箇条書を乞ふて帰れり。嗚呼(ああ)山岡氏沈勇にして、其識(しき)高く、能く君上之英意を演説して残す所なし、尤(もっとも)以て敬服に堪(たえ)たり」

これは鉄舟を称賛することで、自らの政治力を誇っているとも理解できる。それは同日の次の日記との対比からわかる。

「此(この)程(ほど)より、法親王(上野輪王寺宮の公現法親王)ならび一橋殿、参政服部筑前、河津伊豆等、駿府或(あるい)は箱根に御出張、御嘆願之事ありしが、各(おのおの)*一つも御採用とも聞へず、独り山岡氏行くに当て、総督府に達し、参謀等此御書付を渡せり。帰府後、諸官驚懼(きょうく)して、またいふ所なし」

鉄舟のみが成功した。どうだ「俺が送った鉄舟の実力をみたか」と言わんばかりの内容である。これでいよいよ江戸無血開城へ向かって、西郷と最後のつめができることになった、という気持ちが正直にあらわれている。

その西郷が鉄舟との駿府会談を終え、江戸・高輪薩摩屋敷に入ったのは三月十二日である。海舟は早速、使者に一書を持たせて連絡をとった。

既にこの時点で、官軍の司令部は池上本門寺にあり、東海道の先鋒は品川宿に、東山道軍は板橋に、甲州街道軍はすでに内藤新宿にあって、三方から江戸を包囲していた。海舟は急ぐ必要があったである。

海舟の申し出を受け、翌十三日に第一次の西郷・海舟会談が行われた。この日のことを海舟は日記に「高輪薩州之藩邸に出張、西郷吉之助に面談す」(『慶応四戊辰日記』三月十三日)と書き、後日、この事を「氷川清話」で次のように解説している。

「そこでいよいよ官軍と談判を開くことになったが、最初に、西郷と会合したのは、ちょうど三月の十三日で、この日は何もほかの事は言わずに、ただ和宮の事について一言いったばかりだ。全体、和宮の事については、かねて京都からおれのところへ勅旨が下って、宮も拠(よんどころ)ない事情で、関東へ御降嫁になったところへ、図らずも今度の事が起こったについては、陛下もすこぶる宸襟(しんきん)を悩まして居られるから、お前が宜しく忠誠を励まして、宮の御身の上に万一の事のないやうにせよとの事であった。それゆえ、おれも最初にこの事を談(はな)したのだ。『和宮の事は、定めて貴君も御承知であろうが、拙者も一旦御引受け申した上は、決して別条のあるやうな事は致さぬ。皇女一人を人質に取り奉(たてまつ)るといふごとき卑劣な根性は微塵も御座らぬ。この段は何卒御安心下されい。そのほかの御談は、いづれ明日罷(まか)り出(い)で、ゆるゆる致さうから、それまでに貴君も篤と御勘考あれ』と言い捨てて、その日は直ぐ帰宅した」

このように、海舟は江戸無血開城という最大戦略目的の本会談を、翌十四日に持ち越したわけであるが、これはかなりおかしいと言わざるを得ない。

海舟の本音としては、直ぐにでも鉄舟が持ち帰った和平条件について、正式なつめと回答を得たかったに違いない。何故なら、上野寛永寺では慶喜がこの会談に息を潜めて注目しているはずであり、江戸住民も同様であったからである。

しかし、和宮の件だけで終えた海舟は、西郷を愛宕山に誘い「江戸市中が焼け野原にならずに済み申した」とさり気なく述べただけ。これに対し西郷も「「命もいらず、名もいらず、金もいらず、といった始末に困る人」と鉄舟に対する最大の評価を述べただけ。

それだけで二人は、この日別れたのであったが、実は、この日は海舟にとっても、西郷にとっても正念場であった。この日、両軍にとってきわめて重要な会談が、横浜で開かれていることを両者は知っていたのである。

それは、東海道先鋒総督府参謀の長州藩士・木梨精一郎と、英国公使ハリー・パークスとの会談である。

木梨精一郎が西郷の命を受けて、先鋒総督府のある沼津から出発したのは三月十一日である。木梨参謀は二つの使命を帯びていた。

ひとつは「横浜表(おもて)外国人応接」であり、もうひとつは「江戸討入下知」である。この二つの使命は相互に結びついていた。つまり、木梨参謀は西郷と示し合わせて江戸に向かい、江戸城攻撃を予想しての、対外交渉を担当しようとしたものであった。(参考『維新の内乱』石井孝 至誠堂新書)

つまり、この木梨参謀の行動が意味することは、江戸城攻撃を決定すべきかどうかの最終決定を、英国公使ハリー・パークスとの会談結果如何で判断しようとしたものであったと推察でき、既にみたように海舟が仕掛けた「西郷への保険」、つまり、西郷は官軍の最終意思決定権限を持っていないという虞が当たっていたことを意味する。

そこで、ここでパークスが、当時の日本国内時局をどう判断していたか、それを検討する必要があるだろう。

パークスが兵庫(神戸)から横浜に戻ったのは、サトウの日記にあるように三月八日である。横浜という江戸に近い地に戻ったパークスは、官軍の江戸攻撃という状況に対して、外国人の安全保障の対策を立てる必要があったが、パークスの脳裡には官軍のエネルギーが「攘夷」にあるということについて深く認識していた。

そのように認識に至った背景に、最近のいくつかの事件発生があった。まず、一月十一日には、官軍に所属する備前藩兵が、行列を横切ったアメリカ水兵に発砲射殺、英・米・仏三国軍と交戦した神戸事件であるが、これをサトウは次のように日記に書いている。

「二月四日(旧暦一月十一日)、この日早朝から備前の兵士が神戸を行進しつつあったが、午後二時ごろ、その家老某の家来が、行列のすぐ前方を横ぎった一名のアメリカ人水兵を射殺した。日本人の考えからすれば、これは死の懲罰に値する無礼な行為だったのである」(『一外交官の見た明治維新(下)』)

二月十五日には、同じく官軍の一翼を占める土佐藩兵が、十一人のフランス軍艦デュプレックス号乗組員を殺害した堺事件が起きていた。また、パークス自身も京都で暴漢に襲われたという経験を持っていた。

このような官軍関係による排外的テロ行為、それは「攘夷」思想から発するものであることを知り抜いていたので、横浜でも同様事件が発生することを恐れたパークスは、横浜に帰着後すぐに列国代表会議を招集し、横浜全域を列国の共同管理に置くという非常措置をとったのであった。

そのパークスがサトウを伴って、江戸に入ったのは横浜に戻った翌日の三月九日である。既に述べたように、この九日の夜、サトウは赤坂氷川町の海舟邸を訪ね密談している。ということは、サトウを通じて幕府側の和平要求条件を知り、その後も情勢分析しているのであるから、鉄舟と西郷の駿府会談成功についてもパークスは理解していた。

そのパークスは木梨参謀との会談で、次のように発言したのである。

「慶喜が恭順の意を表して謹慎している以上、慶喜を死におとしいれる道理はないから助命されたい。江戸城を受け取りさえすれば、朝廷の目的は貫徹するはずである。万国公法の道理にもかなったことである」(『維新の内乱』)

ここで言う「万国公法」とは国際的世論のことであり、当時の外国人の間での評判であり、それを持って圧力を木梨参謀にかけのである。加えて次の発言もした。

「戦争をはじめるということになれば、居留地の安全にも関係するので、政府から外国へ正式の通知がなければならないのに、そんなこともない。これでは日本は無政府の国というものである」(『維新の内乱』)
これは慶喜が叛乱鎮圧を列国使臣に通告して出兵した、鳥羽伏見のことを前提に述べたもので、官軍側が如何に外交に無知であったかが明らかで、パークスは最後通告として

「横浜については、英仏両国の軍隊で警備にあたらせているから、さよう御承知置きいただきたい」と述べた。この発言の意味することは、江戸城攻撃で官軍が進撃し、横浜を通過する場合、英仏両国軍と戦うことになるということを示唆していた。

これでは官軍は江戸城を攻撃出来ない。正に、海舟が仕掛けた「西郷への保険」が功を奏したことを意味している。この時の海舟という人間が動いた、政治的布石は見事というしかない。

このパークスとの会談結果を西郷も、海舟も知った上で、そのことをお互いおくびにも出さず、第二次会談を高輪薩摩屋敷で開き、江戸城攻撃は回避されたのである。

しかし、海舟の前に再び大問題が発生した。それは上野輪王寺宮の公現法親王による工作の失敗と、公現法親王の陪僧・覚王院が駿府から帰ってきて、肝をつぶすような情報をもたらしたことである。この覚王院が彰義隊の背後で大きな力を発揮していくのである。

投稿者 Master : 2011年03月11日 11:23

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