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2005年12月25日

西郷・山岡会見の地

改めて連載を始めます
2005年も鉄舟研究を続けて参りました山本紀久雄です。毎月の鉄舟サロンでの講演と、全国フォーラムでの講演、また、静岡への研究旅行、鉄舟ファンの人たちと楽しく明るい面白い研究の毎日です。その内容をこれから毎月皆さんにお伝えしてまいります。最初は「西郷・山岡会見の地」です。

西郷・山岡会見の地

JR静岡駅北口から歩いて5分、昨年9月オープンした地上21階・地下2階のペガサートビルの前、この伝馬町の通りに一つの石碑が立っている。高さは約1.5m、横幅は約1mの御影石でつくられた石碑、向かって右側に山岡鉄舟、左側に西郷隆盛の顔が銅版ではめ込まれている。

両者の顔銅版の下方に「ここは慶応4年3月9日東征軍参謀西郷隆盛と幕臣山岡鐡太郎の会見した松崎屋源兵衛宅跡でこれによって江戸が無血開城されたので明治維新史上最も重要な史跡であります」と刻字されている。
今を去ること137年前、日本は江戸時代から明治時代への大転換期にあった。時の15代将軍徳川慶喜は、慶応4年(1868)正月2日に勃発した鳥羽伏見の戦いに敗れ、薩長軍は官軍、幕府軍は賊軍となり、慶喜は大坂湾から船で脱出、江戸に1月12日に戻った。江戸城では恭順派と抗戦派に分かれ議論が紛糾したが、慶喜は恭順策を採り、その意を表すべく、上野の寛永寺一室に謹慎・蟄居した。
しかし、薩摩・長州を中心とした官軍は、総勢5万人といわれる兵力を結集し、朝敵徳川慶喜の居城江戸城を攻めるべく、続々と京都を下っていた。
この状況下において、慶喜は恭順の意を正確に官軍に伝え、かつ、江戸を戦火から防ぐべく、当時、全くの無名であった幕臣山岡鐡太郎(=山岡鉄舟、以下「鉄舟」と略する)に、単身、江戸から駿府に乗り込み、実質の官軍総司令官であった西郷隆盛と会見・交渉することを命じ、鉄舟は見事その任務を全うした。
官軍による正式な江戸攻撃中止は、慶応4年(1868)3月14日芝・田町の薩摩屋敷における、第二回目の幕府陸軍軍事総裁勝海舟と西郷との会談で決定したのであるが、その前に駿府における鉄舟・西郷会談で江戸無血開城が事実上決まっていたことを、伝馬町の石碑史跡が物語っている。

山岡鉄舟という人物

鉄舟は天保7年(1836)生まれで、安政2年(1855)20歳のときに、旗本・御家人に武道を習得するため安政元年に設置された講武所に入った。このときを一人前の幕臣としての出発と考えると、明治5年(1872)に明治天皇の侍従として皇居に奉職するときまでの17年間を徳川家に仕えたことになる。
それから明治21年(1888)53歳で逝去するまでの17年間は、侍従・宮内省御用掛として明治政府に奉職したのであるから、ちょうど徳川家と明治政府に17年間毎、つまり、半分ずつの公的生活という経歴である。
時代の一大変換期とはいえ、幕府時代は盟主である将軍から直接指示を受け功績を残し、新時代にあっては明治天皇を誉れ高き名君とする功績を示したこと、つまり、封建時代も近代化の時代にも、鉄舟は時の盟主と直接関わる仕事をしていたという事実が、鉄舟の人間力を証明している。
司馬遼太郎は作品としては鉄舟を取り上げなかったが、講演の中で次のように語っている。
「山岡鉄舟はミスター幕臣といってよい存在でした。非常に立派な人で、侍の鑑というような感じだった。たいへん自律的な、自分を完全にコントロールできた精神の人です」と。  さすがに司馬遼太郎は鉄舟に対して、正鵠を得た見方をしていると思う。

西郷との交渉結果

鉄舟は明治15年三条実美賞勲局総裁の求めに応じ、慶応4年3月9日の駿府での西郷との会見模様を「西郷氏と応接之記」として自ら書き残しているが、この中で最も重要な「慶喜の命を守り江戸総攻撃を取り止めさせる」という主目的に対し、西郷からは以下の五箇条の条件が出されたと記されている。
1. 城を明け渡すこと
2. 城中の人数を向島へ移すこと
3. 兵器を渡すこと
4. 軍艦を渡すこと
5. 徳川慶喜を備前に預けること
鉄舟は1条から4条は受け入れるが、断じて5条の「徳川慶喜を備前に預けること」については受け入れなかった。以下のように強く反論している。
「余(鉄舟)曰く、主人慶喜を独り備前へ預る事、決して相成らざる事なり。如何となれば、此場に至り徳川恩顧の家士決して承伏不致なり。詰る所兵端を開き、空く数万の生命を絶つ。是、王師のなす所にあらず。果して然らば先生は只の人殺しなる可し。故に拙者、此条に於ては決して不肯なり。
西郷氏曰く、朝命なり、と。
余曰く、たとひ朝命なりと雖も拙者に於て承伏せざるなり、と断言す。
西郷氏又強いて、朝命なり、と云ふ。
余曰く、然らば先生と余と其位置を易へて暫く之を論ぜん。先生の主人島津公、若し誤りて朝敵の汚名を受け官軍征討の日に当り、其君恭順謹慎の時に及んで、先生余が任に居り、主家の為尽力するに当り、主人慶喜の如き御処置の朝命あらば、先生其命を奉戴し、速に其君を差出し、安閑として傍観する事、君臣の情、先生の義に於て如何ぞや。此義に於ては鉄太郎決して忍ぶ事能はざる所なり、と激論せり。
西郷氏黙然、暫ありて云く、先生の説、最然り。然らば徳川慶喜殿の事に於ては吉之助屹と引受取計ふ可し、先生必ず心痛する事なかれと誓約せり」
 この会見における鉄舟の全身全霊から噴出した決死の気合と論説の鋭さ、それは正に武士としての絶対忠誠心を理念として昇華させた強固で真摯な抵抗精神であり、後年、真の武士道体現者と謳われた鉄舟ならではの働きであった。
ここに江戸無血開城が事実上決まり、これによって明治維新大業への一歩が示されたのであり、鉄舟の個としての行動戦略性によって、近代日本の扉が開いたのである。

命も名も官位も金もいらず

 この交渉から4日後の慶応4年3月13日、勝海舟と西郷の第一回会談が芝高輪の薩摩屋敷で行われた。海舟と西郷はすでに面識があり、会談後2人は愛宕山に登った。そのとき西郷が「命もいらず、名もいらず、金もいらず、といった始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如きでしょう」と語った。この内容が、後年西郷の「南州翁遺訓」の中に一節として記されたが、これは正に鉄舟の武士道精神真髄を示したものであった。

鉄舟という人物のすごさは、誰も見通しをつけられなかった幕末維新の歴史的課題に、徒手空拳で立ち向うという天晴れな豪胆武勇さと、西郷との会見でみせた政治外交力、それらを併せ持ったところにあるが、何故に、このように優れた人物になり得たのか。この解明こそが本連載の主旨であり、鉄舟を論ずることを通じて、改めて明治維新の現代的意義を検討し、21世紀の日本人論についても言及したいと思っている。

投稿者 Master : 2005年12月25日 13:52

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