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2008年06月07日

山岡静山との出会い・・・その四

山岡静山との出会い・・・その四
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

山岡静山と鉄太郎が師弟として交じり合ったのは、既に静山が病魔に冒されていた時だったが、そのさなかでも静山の修行は凄まじかった。そのことを記録として遺したのは中村正直(天保三年・1832~明治24年・1891)で、鉄舟(天保七年・1836~明治21年・1888)とほぼ同じ時代を生きた人物である。

中村正直は幕臣の子、昌平坂学問所で佐藤一斎に学び、慶応二年(1866)渡英、同四年(1868)帰国、明治になって大蔵省出仕、その後東大教授、元老院議官、貴族院議員等を歴任した。サミュエル・スマイルズの「西国立志編」やJ・S・ミルの「自由之理」を翻訳者として知られ、これらは当時広く読まれた。この中村正直に「山岡静山先生伝」(原文は漢文)という小文がある。この小文から静山を分析したい。

「近来、槍法の絶技なるもの、山岡先生に踰ゆるなし」で始まり、「人と為り剛直阿らず、質朴を重じ、気節を尚び、人倫に篤く、家甚だ富まざるも、食客門に満つ、後多く名士を出す」とあり、「親に事へて孝なり、父没し母多病なれば、先生看護懈らず、書室に牌を掲げて曰く、七の日省墓、三八聴講、一六按摩と、按摩を以て課を立ては、古今絶えて無き所なり」と続く。

このように中村正直が書き遺した静山像とは、人格的に優れ、人柄を慕って多くの人が集まり、城勤めの合間に道場で門弟に稽古をつけるので、暇というのがないのであるが、その中でも日課表として紙に書いて実行したのが、七の日は必ず亡父の墓に詣で、三と八の日は学問の日とし講義し、一と六の日は病気がちの母に対して按摩した。

槍法の絶技なる静山が、武道のほかに精神面でも門弟を心服させたのは、このような孝行振りにもあつた。

鉄太郎(鉄舟)も高山時代に見られたように親孝行であり、稽古修行についても熱心で、武術というものを単なる技量とせず、人間陶冶の道と考えている。鉄太郎から見て静山という人物は理想像であり、静山から鉄太郎を見れば自分の分身とも見える。お互い深い底からの理解が通じ合ったと思う。

静山は、幼き頃より諸芸を学んだが、十九歳の時に省吾し、その後は槍に専念し、二十二歳で天下にその名が轟くようになった。

山岡家は元高百俵二人扶持、父の市郎右衛門が御勘定方に出仕していた時は、足高百五十俵であった。屋敷は下級旗本が多い小石川鷹匠町、今の小石川五丁目にあった。隣家は高橋家、静山の弟謙三郎が養子に行き高橋泥舟として名を遺した。

静山・泥舟兄弟の槍の師匠は、静山の母の父である高橋義左衛門。高橋家は元高四十俵二人扶持、総領鏈之助が御勘定方に出仕して足高三百俵。この鏈之助の体が弱く早世したので、高橋家を謙三郎(泥舟)が継いだ。

高橋義左衛門の槍は刀心流。伝えるところによると始まりは菅原道真に発するという。この義左衛門の静山・泥舟兄弟に対する稽古は猛烈だった。義左衛門が樫で拵えた一尺五寸(45cm)程の扇子型を構え、兄弟には高さ一尺二寸(36cm)の一本歯の高下駄を履かせ、何十回何百回ともなく突っ込んでこさせ、兄弟二人がふらふらとなり昏倒することも珍しくないくらいだったという。

もともと兄弟二人は天才的な槍の才能を持っていたが、そこに義左衛門による猛稽古と、静山自身もこの修行鍛錬を好むタイプであったから、没入し、激烈を極め、その成果として二十二歳で天下にその名が轟くようになったのである。

しかし、その稽古修行は凄まじいものであった。厳冬寒夜に荒縄で腹をしめ、氷を割って水を浴び、東の日光廟を拝して、丑の時(午前二時)ごろから、重さ十五斤(9kg)の重槍をひっさげ、突きを一千回、これを三十日続ける。

平常の昼は門弟に稽古をし、夜は突きを三千回から五千回、時には黄昏から夜明けまでに三万回続けたという。中村正直の「山岡静山先生伝」はこのように書き示しているが、果たしてこれが事実かどうか。常人では不可能な稽古修行である。

先日、たまたま第四十八代横綱大鵬親方に親しくお話を聞く機会があった。現在は相撲博物館館長として大相撲の発展に寄与されているが、現役時代の思い出として次のように語られた。

「マスコミなどで、私はよく『百年に一人の天才』と言われたから努力もしないで横綱になったと思われている。いろんな人から『大鵬は、最初から大きくて強かったのでしょう』とも言われる。とんでもない。生まれた時から大きかったわけじゃない。しかも小児喘息で死にかけた。その意味では柏戸さんの方がよっぽど天才だ。山形の農家のぼんぼん育ちでそんなに苦労していない。しかも稽古だってそれほどやった方じゃない。それでも強かった。それに比べたら私はむしろ努力型だ。私が天才と言われるとすれば、それは臆せず何でも果敢に挑戦した、という意味でだと思う」

「相撲界のエリート教育を受けてきた。このエリート教育というのはしごきのことで、稽古場でのしごきで、気が遠くなることがしばしばだった。コーチ役の十両、滝見山さんからぶつかり稽古で土俵にたたきつけられ、これでもかこれでもかと引きずり回されたから、見ている人は『もういい加減にやめさせろ』と言った。へとへとに倒れこむと、口の中に塩を一つかみガバッと入れられる。またぶつかって気が遠くなりかけると、バケツの水や砂を口の中にかまされる」

「この特訓の上に一日四股五百回、鉄砲二千回のノルマがあった。最初は苦しくてごまかしたこともあったが、そういう自分が恥ずかしいので、きつくても黙々とやり通すしかなかった」

天才横綱大鵬も、厳しいしごきに耐え、その後の自主稽古で一代年寄りの名誉を受けることになったのである。このしごき稽古、静山は高橋義左衛門、大鵬は滝見山によって鍛えられた。このような人に会えたのが結果的に大成する要因となったのだが、一般人は仮に会えたとしても我慢できず逃げ出すことになるだろう。優れた人物は耐える力も並でないことが分かる。

大鵬の自らに課した一日に四股五百回、鉄砲二千回という回数、これは今の力士が行わない凄いものであると言う。だが、しかし、静山の突きを三千回から五千回、時には黄昏から夜明けまでに三万回続けたというのは、また、別格と思う。相撲と槍では比較できないことを承知の上で、天才大鵬横綱の稽古量レベルを上回っているのが静山と感じる。

中村正直に「山岡静山先生伝」に、次の逸話が紹介されている。

ある時、母に代わって寺参りに行ったが、そこで二十人ばかりの男どもが一人の侍を取り囲み、殴る蹴るの暴行、侍は血まみれで今にも死にそう。助けを静山に求めた。「いい加減で許してあげなさい」と頼んだが、男どもは聞かないので、大喝し、「窮鳥、懐に入れば、猟師も殺さずと。いわんや侍が助けを求めているのだから、座視できない。お前らの敵は拙者だ」。すると男どもは静かになったので、倒れている侍を見ると、これがかつての門弟であったが、静山を背いて去ったものであった。借金をして返さず、そのために殴る蹴るの暴行を受けていたのだ。静山は借金を代わりに返してあげ、訓戒をしてお金まで与えたのである。この逸話の後に次のように続いている。

「先生、嘗て曰く、凡そ人に勝たんと欲せば、須らくまず徳を己に修むべし。徳勝て而して敵自ら屈す。是を真勝となす。若し技芸孼刺に由て而して得べしと謂は、即ち大に謬れり」
このような静山の教えは鉄太郎の気質に合い、もっとも好むところであったろう。

勝海舟が静山について語っている。(英傑 巨人を語る「日本放送協会」)

「静山が常にいうには、道によってなすことは勇気が出るが、少しでも我が策をめぐらす時は、何となく気脱けがすると言うておったそうだ。これは分かりきったようで、凡俗にはなかなかそれで承知しないから困るよ。また静山が、常に二尺足らずの木刀を帯しておったが、いまなお泥舟が保管しているそうだ。その刀の片方には、『人の短所を言うなかれ、己の長所を説くなかれ』と記し、その裏の片方には『人に施すに慎みを念うなかれ、施しを受くるに慎みを忘れるなかれ』と自記して携えていたそうだ。その筆蹟のごときも、静山が二十歳ばかりの手跡だそうだ」

海舟も認めていた静山の素晴らしさである。

静山は子供のころに痘瘡(天然痘)を病んで、少し顔に白あばたがあった。

江戸時代、日本人に痘瘡が多いことは「『逝きし世の面影』渡辺京二著 平凡社」の中で、外国人が多く指摘している。

「痘瘡については、長崎で病院を開いたポンペが書いている。『どこの国でも、日本のように天然痘の痕跡のある人の多い国はない。住民の三分の一は顔に痘瘡をもっているといってもさしつかえない』ポンペは少し誇張しているかもしれない。幕末の人物写真を見ると、幕府のフランス語通訳塩田三郎がみごとなあばた面である。オールコックは言う。『労働者階級のあいだでは、各種の皮膚の吹き出物はありふれている。疥癬もやはりありふれた病気である』」この他にも眼病もまた多かったようである。「『世界のどこの国をとっても、日本ほど盲目の人の多いところはない』とポンペは言う」(同書)

静山は身長五尺六寸(170cm)、色白で眉濃く目はぱっちりして秀麗であった。しかし、どうしたものか子供のときから、時々、にわかに胸痛のうめきをすることがあった。

だが、構わず烈しい稽古修行を続けていたが、日増しに顔色が良くなくなっていく。胸痛も酷くなって、動悸がして、めまいがすることが多くなっていった。弟の謙三郎も、母も、妹の英子も心配し、時折注意するのだが、いつもと同じ烈しい稽古を続けていた。

しかし、とうとう安政二年(1855)六月晦日、心身共に難行苦行を続けた無理が静山の命を奪うことになってしまった。古今の名手といわれ、幕府講武所が開設され、師範として正にこれから花も実も咲こうとした時に、誠に惜しい死であった。墓は戒名「清勝院殿法授静山居士」として文京区白山二丁目の蓮華寺にある。若過ぎた行年二十七歳であった。

静山の死については異説がある。鉄舟の弟子であった小倉鉄樹は、その著書「『おれの師匠』島津書房」で静山に次のように語っている。

「静山が脚気に罹って寝てゐると、静山の水泳の師匠が、仲間から嫉妬を受けて今日隅田川で謀殺されるといふことを、母がどこからか人の話を聞いて来て静山に話した。静山はおどろいて、是非師匠の急を救はうと、褥を蹴って起き出で、病を推して隅田川に到り、水泳中、衝心して死なれたのである。然しこれは自宅で病気で死んだと云ふ説もあり、師匠の奥さんにきいて見てもさういふが、水泳中死んだいふのが本当らしい」

死因について、南條範夫「山岡鉄舟」は「水泳中に意識を失ったと言う。衰弱したからだが、もう気力だけでは持ち切れなくなっていたのだ。三日の間、苦痛にうめきつづけた。卒痛(心臓炎)と医師は診断した」とあり、子母澤寛が高橋泥舟を主題に書いた「逃げ水」では、道場で稽古中に急変し「くたくたと折れて片膝をついた。血が一筋、すうーと顎へたれて来た」と、やはり痃癖卒痛(心臓炎)としている。

鉄太郎が二十歳の時、静山は逝った。多くの門弟の中で、最も嘆き悲しみにおちいったのは鉄太郎であった。間もなく奇怪な噂が立った。蓮華寺に夜な夜な妖怪が現れるというのである。それは何ものか。次回に続く。

投稿者 Master : 2008年06月07日 13:03

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