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2008年10月12日

貧乏生活其の二

貧乏生活其の二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

山岡鉄舟の貧乏は世間の常識を超えていた。

しかし、山岡家に養子として入るまでは貧乏とは縁がなかった。六百石の旗本小野家子息であり、その後飛騨高山代官という恵まれた経済環境の下で子ども時代を過ごし、両親の死去により江戸に戻ってからも、遺産相続のお金があったため、貧乏とは関係ない生活をしていた。

だが、山岡静山の剣に感服し、人格に心服した結果、静山の長女英子の懇望もあって山岡家に養子に入って生活環境は一変した。

当時の山岡家の経済状況は弟子の小倉鉄樹が「山岡家はその当時は没落してたしか二人扶持金一両という足軽身分である」(『おれの師匠』島津書房)と語ったように、もともと貧乏家庭であり、娘に習字手習いをさせていなかったほど、山岡静山の家計は相当厳しかったのである。 

その事実を小倉鉄樹が次のように述べている。

「英子は貧乏生活のため、読書にいそしむことがないまま鉄舟と結婚したが、その後は読書、習字を一心不乱に学び、晩年はなかなか上手くなって、手紙等をみると師匠と間違えるほどであった。絵も上手になった。

明治21年12月3日の大阪毎日新聞の記事に『山岡紅谷女史は故鉄舟居士の未亡人なるが頗る写生画に巧みにして来春を期し当地に来り揮毫せんと、即今其の支度中の由に聞く』とあるが、これは偽者で当時鉄舟の名声が高かったので、こういう偽者が各所に出没したのである」(『おれの師匠』島津書房)

このように英子は貧乏であったから、鉄舟と結婚してからから文字を習ったのである。
 
このような貧乏山岡家に、生来衣食住に関心がない性格の鉄舟が入ったのであるから、さらに大変であった。一般の人であれば、貧乏ならば何かで働くということで、収入の道を探すことが普通であるが、鉄舟の関心事は剣・禅の修行のみで、他のことには一切興味がなかったから、結果はますます貧乏になっていった。

しかし、鉄舟自身は貧乏なことには一切執着しない心の修練を積んでいたので、周りからみれば貧乏生活で大変だと思っても、鉄舟にとってはなんということなき毎日であった。

 その貧乏の程度であるが、ご飯などは三度々々食べられることは、一ヶ月のうちに何回もなかったという。大抵は一度か二度で、全く食べるものがなく水を飲んで過ごすことの多々あったらしく、その状況を次のように鉄舟自ら述懐している。

「何も食わぬ日が月に七日位あるのは、まぁいい方で、ことによると何にも食えぬ日がひと月のうちに半分位あることもあった。なぁに人間はそんなことで死ぬものじゃねえ。これはおれの実験だ。一心に押して行けば、生きて行けるものだ。おまへ等もやって見るがい、死にはせんよ」(『おれの師匠』島津書房)

これを聞いた小倉鉄樹が「大燈国師(妙超・南北朝時代の禅宗の僧)の遺戒にも『道を修る者、衣食の為にする勿れ』と戒めているのと思い合わせて、山岡などの心の用い方が常人と違っていることがしみじみ感じられる」と述べているが、これに対して現代の我々はどのように考えたらよいのであろうか。

確かに、太平洋戦争敗戦時に、国民は飢えに苦しんだ過去がある。だが、これは日本人全員に降りかかってきた災難であり、そこから脱皮すべく努力した結果が今日の繁栄をもたらし、今では、飽食が問題でメタボリックシンドロームなど肥満が多い生活環境下になって、空腹ということを経験したことがない人が殆どである。

 また、貧しくて食えなければ、そこから脱皮するために何かをする、お金を稼ぐために何かをする、それが時には悪事に走ってまでお金に執着することが当たり前になるほどの世相であるが、鉄舟の場合、その当たり前のことをした気配がない。

これをどのように理解したらよいのか。普通人の考え方では理解不可能である。

 鉄舟の貧乏話を続ければキリがない。

 食うものがなく幾日も過ぎ、とうとう知人のところに行って、米を貰ってこようと出かけようとしたが、山岡家には外出するために履く下駄がなかった。下駄はあるにはあったが、履き古して薄っぺらとなり、片方は割れてしまっていたのである。

 そこで鉄舟は、雑巾を懐中にしまい、裸足で知人の屋敷に出かけたのである。知人の屋敷玄関に着き、懐から取り出した雑巾で足を拭き、玄関から客室に上がり、そこで申し訳ないが米を貸してもらえないかと無心したことがあった。

 知人は「今は当家の米も少ないので、これを持っていって米に換えてください」と若干のお金を差し出して、ところで、久し振りだから一杯やりましょうと酒が出された。

 酒宴が終わり、鉄舟は懐にお金を入れ、お礼を述べて帰ろうとしたので「山岡さんのお帰りだ!」と知人が大きな声を出し、女中が急いで玄関に行って下駄を取り揃えようとしたが、鉄舟の下駄がないのでうろうろしている。

 そこに鉄舟が玄関に現れ、奥さんと女中が「おかしい」とまごつき下駄を探している中、「御免」と一声、脱兎の如く裸足で玄関を飛び出し去った。

 翌日、知人が新しい下駄を使いに持たせてくれたという。

 次は、鉄舟が子爵に叙せられた時のことである。 

鉄舟が亡くなる少し前、明治二十年五月のこと、子爵内命を受けた時に詠ったのが
 「食ふて寝て働きもせぬ御褒美に 蚊族(華族)となりて又も血を吸ふ」であった。
また、当時勝海舟にも子爵に叙すべき内命があって、海舟は次のように気持ちを詠んだ。
 「いままでは人並の身と思ひしが 五尺に足らぬ四尺(子爵)なりとは」
と一首を吟じて辞爵し、その結果、ついに伯爵を得たといわれている。

この経緯をもって、二人の人格を表していると論評し、海舟を貶す人が時折いる。

 さらに、海舟も若い時は鉄舟に負けないほどの貧乏で、座敷の裏板を剥がして薪物に代えたほどであったが、亡くなる時は蓄財があったので、そのことも鉄舟との比較で「海舟は死して金を残し、鉄舟は徳を積んで無一物であって、そこに二人の人間としての差がある」とも述べる人もいる。

 しかし、これは海舟がかわいそうである。幕末から江戸にかけての海舟の業績は誰もが認めるものであり、海舟が持ちえた広い世界観があったからこそ、江戸から明治へ大波乱なく時代が動いたのである。

また、若い時の貧乏時代の苦しみを忘れず、二度とそのような事態に陥らないよう、生活設計を講じていく生き方は普通のことであり、死ぬ時に財産を残したといって非難されるのは心外であろう。海舟の場合、一大混乱期を一生懸命国のために働き、生き抜いた結果の証明として、財産が残ったと考えたいし、多くの人が子どもや子孫のために、相続財産を残して逝く実態を批判されるなら、財産相続を否定することになりかねないし、そのような生き方をしている方へ冒瀆ともなりかねない。

 だが、ここで考えてみたいのは、鉄舟の生き方を海舟と比較することである。鉄舟は世にも稀な人間であり、普通人ではない。

 第一回の連載(2005年6月)で司馬遼太郎の鉄舟評価をお伝えした。

「山岡鉄舟はミスター幕臣といってよい存在でした。非常に立派な人で、侍の鑑というような感じだった。自分を完全にコントロールできた精神の人です」と述べているように、極めて高い人間力の人物で、一般常識では判断できないほどのすごさなのですから、鉄舟を誉めることはよいとしても、鉄舟と海舟と比較評価し、海舟を陥れるような論評はしない方がよいと思う。それだけ鉄舟は偉大な存在である。

さて、鉄舟は講武所世話役として入所したが、講武所の稽古が形式的で生ぬるいのに憤慨し、木剣を構え講武所道場の一寸ばかりの欅羽目板めがけ、得意の諸手突きを入れ一寸欅板を突き破ったという逸話を前号でお伝えした。

では、どうして講武所の稽古が形式的で生ぬるい状態であったのか。

このことを説明するには教授頭の男谷精一郎について触れなければならない。男谷は積極的に他流試合を行ったが、その試合ぶりが変っていた。

最初の一本は必ず自分がとる。次の一本は相手にゆずり、三本目はまた必ず自分がとるのである。どれほど強い相手でも、どれほど弱い相手でも同じであった。何とかしてもう一本とろうとして向かっていっても、誰も同じ試合の結果となってしまう。一体、どこまで強いのか底が知れない、というのが男谷精一郎であった。

性格は柔和で、妻や召使を叱ったことはなく、朝は自ら座敷を掃除し、射場で弓を試み、静かに朝餉をいただく。さらに、武芸以外に文学に深く、静斎と称して書画をよくした。男谷家も下級旗本であったが、次第に出世し、文久二年(1862)には従五位以下に叙し下総守に任じている。海舟と男谷が従兄弟同士であることは前号で触れた。

この男谷精一郎に鉄舟は師として尊敬したのは当然であろう。だが、日が経つにつれて男谷の持つ柔らかな強さと、鉄舟が持つ容赦しない若さの強さの間、そこに何か違和感を鉄舟は感じてきた。剣技のおける資質の違いともいえよう。

十年後の鉄舟であるなら、男谷の境地を理解し、自分自身を反省させ、自らに男谷の絶妙の剣技を取り入れたであろう。

男谷は鉄舟に対し、しばしば忠告した。

「お主の剣は鋭すぎる」と。また、「酒に溺れてはいかぬ」と。さらに、「女に溺れてはいかぬ」ともいう。
鉄舟にとってはそのとおりの指摘で、反論する余地はないが、何となく敬遠するようになっていった。男谷を尊敬しながらも、避けるようになっていったのである。当然、講武所の稽古に出向くことが少なくなる。

もう一つ、鉄舟が講武所を避けた理由は、講武所風という異様な風俗に問題を感じたからであった。

この当時の講武所へ通う侍は、第一に、帯をゆるく締めていたことであった。これは長い刀を帯していたので、それを抜こうとして居合腰になる都合上、わざと帯をゆるくしめたのであった。

第二は、髷のゆるいことであった。これは面を被る時に、あまり堅く締まっていない方がよいということからであった。

ここに月代を狭くし、冬は鼠色木綿、夏は生平の割羽織、真岡木綿の揃いの袴に黒緒の下駄、白柄朱鞘の大小に、撃剣道具を肩に担いで大道を闊歩し、喧嘩は吹っかけるし、乱暴も働いた。

さらに、この頃、いしたたき張という煙管が流行り始めていた。いしたたき張というのはいしたたき(石敲き。槌で鉱石を打ち砕く意味で、たえず尾を上下に動かす習性からセキレイの別称)の尻尾のように吸口の方が細くなっているものであり、講武所に通う者たちが、面をつけたままで、ヒゴ(面の鉄籠)から煙管を吸うために、こういうものをつくりあげて、世の中に広めていった。

当時流行った「ちょぼくれ」、これは小さい木魚二個を叩きながら、阿呆陀羅経などに節をつけて口早に謡う一種の俗謡であって、それを謡いながら米銭を乞い歩いた乞食僧であるが、江戸時代の幕政批判をこめていたといわれている。頭に「ちょぼくれ、ちょぼくれ」の囃子詞を入れていたものであるが、このちょぼくれで講武所が批判された。

「講武所始めたところが、稽古にゃなるまい。剣術教授大馬鹿たわけが、何を知らずに、勝手は充分、初心につけ込み、道具のはずれを、打ったり突いたり、足柄かけては、ずどんと転ばせ、怪我をさせても平気な面付、本所のじいさん(男谷精一郎)師範なんぞはよしてもくんねえ、高禄いただき、のぞんでいるのがお役じゃあるめえ、門弟中には、たわけをつくすを、叱らざなるめえ・・・」

男谷の余りにも温和な性格が、「ちょぼくれ」で批判されていたことが分かる。

幕府も、この風儀の頽廃に対して、以下の様に掟書を出して諫めた。

一、武を講ずるは肝要なり、弓剣槍の芸も学び、礼儀廉直を基として、武道専ら研究致すべき候こと。

二、生質不器用にて弓剣槍は能く致さず共、五倫の道に叶ひ、行状正しく候へば、恥辱とすべからざること。
上の条々一統大切に心得、油断なく相励むべく候・・・面々心得違いなく勉励致すべきものなり。

鉄舟は、このような講武所風という異様な風俗に嫌気がさしていた。

勿論、鉄舟の激しい試合振りも、粗暴という点から指摘されるべきところがあり、ちょぼくれの批判に該当したかもしれないが、鉄舟は何よりも武芸を怠ること、見栄体裁優先の外形的な講武所から去り、再び玄武館の方に熱心に通い出した。

この頃、山岡家の貧困はその極に達していた。次回も貧乏物語をお伝えする。

投稿者 Master : 2008年10月12日 13:03

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