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2010年09月08日

修禅への道

 修禅への道
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

文久三年(1863)、鉄舟二十八歳、謹慎解け、浅利又七郎義明と立ち合いし完敗。直ちに弟子入り、以後、毎日のように浅利又七郎の許に出向き、稽古の日が続いた。
浅利又七郎を実際に見た人の話によると、晩年であったが、すらりとした痩躯で、巨躯とか、エネルギッシュというような感じは少しもなかったという。

浅利道場での稽古、浅利又七郎が木刀を下段に構え、ジリジリと攻めてくる。鉄舟は正眼に構え、又七郎の剣尖を抑え押し返そうとするが、少しも応ぜず、盤石の構えで、まるで面前に人無きがごとく、ヒタヒタと押してくる。

既に、浅利道場で鉄舟に敵う者は又七郎以外にはいない。それはすぐに明らかになった。だが、そのたった一人の敵手、又七郎に、鉄舟の豪気をもってしても、どうしても勝てない。又七郎の下段の構えを崩せず、一歩退き、二歩下がり、ついに羽目板まで追い込まれてしまう。

そこで、再び、立ち合いを所望、元の位置まで戻って木刀を構えるが、またもや同じことで、たちまち追い詰められてしまう。完全に気合負けである。

このようなことを四五回繰り返したあげく、ついに溜まりの畳の上に追い出され、仕切り戸の外まで追いやられ、ピシャリと杉戸を閉めて、又七郎は奥へ入ってしまうこともある。手も足も出ないとはこのことである。

昼の浅利道場での稽古を終え、日課としている夜の自宅で座禅、眼を閉じると、たちまちすぐさま又七郎がのしかかってくる。圧迫され、心が乱れどうしょうもない。そのことを明治十三年に記した「剣法と禅理」で次のように語っている。

「是より後、昼は諸人と試合をなし、夜は独り坐して其呼吸を精考す。眼を閉じて専念呼吸を凝(こら)し、想ひ浅利に対するの念に至れば、彼れ忽ち(たちま)余が剣の前に現はれ、恰も(あたか)山に対するが如し。真に当るべからざるものとす」

人は悩んだ時、相談する相手は、やはり信頼する人物になる。今まで鉄舟が最も敬愛した師は山岡静山、その弟で義兄となる高橋泥舟は隣家に住んでいて、静山亡き後の最も近しく親しい仲であり、何事も話せる。ある日、苦しい胸中を、正直に伝えてみた。

「義兄上、どうした訳でしょう」
「うーむ。鉄さんがそれほどになるのだから、浅利又七郎は大物だ」
「自分の何かが、欠けているのだと思っているのですが」
「剣の技を磨くだけでは無理かもしれない」
「剣の稽古だけではダメということですか」
「そう思う。心の修行で立ち合うしかないだろう」
「そうですか。そうか・・・。やはり修禅によって立ち向かうしかないのか」

鉄舟は頷き、なるほどと思い、今までの禅修行を思い起こし、剣に比べ、追究が甘く未だしだったこと、それが、又七郎の下段の構えを打ち崩せない理由だとすぐに飲み込む。こういうところが鉄舟という人物の素晴らしさである。気づきが素直で、問題解決に向かって決して逃げず、前向きに対応する。

 禅修行によって大悟に達した鉄舟の境地について、近代の名僧と名高い京都・天竜寺の滴(てき)水(すい)和尚は「鉄舟は別物じゃ」といい、同じく京都・相国寺の独(どく)園(おん)和尚も「ありゃ、一世や二世の人じゃない」といったくらいで、その境地は遠く褒貶(ほうへん)の域を超脱して、禅宗の師家という師家が誰でも鉄舟に敬意を払っていたという。(『おれの師匠』小倉鉄樹)

鉄舟が禅に取り組む気持ちになったのは、父親の小野朝右衛門からの教えにより、十三歳の時だったという。(『父母の教訓と剣と禅に志せし事』元治元年1864)

「苟(いやしくも)も斯道(しどう)(人の人たる道)を極めんと欲せば、形に武芸を講じ、心に禅理を修練すること第一の肝要なりと仰せられたり。故に余は爾後斯(こ)の二道に心を潜めんと欲するに至れり」

なお、大燈国師(大徳寺開山1282- 1337)の遺誡(ゆいかい)(訓戒を後人に遺すこと)を見て感心してからだという説もある。(『おれの師匠』)

 いずれにしても少年時代、禅に志し、始めて禅寺に参じたのは二十歳の頃、芝村(現・埼玉県川口市)長徳寺の願翁和尚であった。

 願翁和尚は早速「本来無一物」という公案を授け、つぎのように補足した。

「貴公は剣の達人だそうだが、試合の際、相手が凄まじい気魄と技でぐんぐんと迫ってきたら、どのような心境になるかな。多少でも気おくれしたり、恐怖心がおき、動揺するようではダメじゃな。もしこの本来無一物ということが、本当に体得できれば、たとえ白刃が迫ってきても、動ずることなく、冷静に、あたかも平らな道を歩くように平気でいられるであろう」

 このように言われても、まだ、二十歳の青年剣士である。すぐさま本来無一物の境地なぞになれるものでない。無とは何か。この根本問題を問い、それを体得し理解するのは相当に難しい。

しかし、その難しい「本来無一物」を求めて、毎日、昼は浅利道場で稽古、夜は自宅に坐して思量を深め、思うところあれば願翁和尚の許に参じ、疑問を願翁膝下に質すこと、これを約十年間一日も倦むことなく続けたが、どうしても霧の中にあって、向こう側がはっきり見えない。

「一進一迷、一退一惑、口これを状すべからざるものあり」と述懐している。(『父母の教訓と剣と禅に志せし事』)

鉄舟とは恐ろしき人物だと思う。二十歳で禅寺に参じ、修行を志す人は多々例があるだろう。だが、禅僧に師事、授けられた公案を十年間一日も倦むことなく続けるということ、そのようなことをできるのは、よほどバカでなければできない。

鉄舟は自らを「鈍根」と称している。が、この称する通りに徹することは至難であろう。正に「鈍根」という自らの特性を貫かせたことが、バカを別物にしたと思う。

先日、比叡山、高野山、大峰山で千二百日の荒行体験を重ねた、経営コンサルタントの方からお話を聞く機会があった。

山奥に入って、一人、雪降るなか、大きな岩に向かって座禅を続ける。肩に膝に雪が積もってくる。それでも朝から夕方まで座り続ける。何日も続けたある日、自分が岩の背後に聳え立つ杉の大木に乗り移っていることに気づいた。そこで、杉の大木に向かって、つまり、自分に向かって問いかけた。このような苦しいことをする意味は何か。もうそろそろ解答を示してほしいと。

そうすると、杉の中にいる自分がひとこと答えた。それは「想魂錬磨」だと。

これが千二百日の荒行体験を続けた結論だったという。想いを磨き、魂を磨くこと。想いがすべてで、想いが定まったら練り磨くしかない。

想いが実現しないのは、磨き方、練り方が不足しているからだ。本当に想い磨き練れば、何事もできるし、達成できる。

以後、この解答で、経営コンサルタント業務を進めているという。これになるほどと思い、鉄舟はこれなのだと理解した。

道を定めたら、道に迷わず、道を外さず、道を求めて、道を極める、これを鉄舟は実行し続けたのだ。
ところが、このように日々修行し続けても、相変わらず「愈々(いよいよ)修むれば、愈々迷う」という状態で、暗闇からなかなか抜け出すことができなかった。

宮内省に出仕するようになった頃になって、三島の龍択寺に参禅し、星(せい)定(じょう)和尚についた。この三島の龍択寺通いは有名な話である。

当時、宮内省は一と六がつく日が休みだった。そこで十と五の日に夕食をすますと、握り飯を腰に下げて、草鞋(わらじ)がけで歩いて行った。(『おれの師匠』)

この話を普通の人は嘘だと思うだろう。東京から三島まで三十余里(約120㎞)、途中に箱根越えがある。龍択寺で参禅が終わると、休息する間もなく、また、東京へ引き返す。こんなに歩けるわけがないと、一般の人々は思うだろう。

しかし、鉄舟は実際に歩いた。鉄舟の健脚は有名で大変なものだった。このようなエピソードがある。参禅の帰途、夜になって山道を歩いていると、雲助が十四、五人、焚き火を囲んで暖をとっている。明治初年であるからまだ山道は物騒だが、修行に張り切っている鉄舟には夜も昼もなく、泊まれという宿屋の主人を振り切って山に入ったのだ。

雲助を避けて通るのも返って危ないと思い、「タバコの火を貸してもらいたい」と焚き火に近づいた。

「さあ、おあんがなさい」

というので、一服して暖をとり、立ち去ろうとすると、

「旦那、夜、箱根山を越すからには、ここの掟をご存じでしょうね」

一人がドスをきかせた。

「ああ、よく存じておる。ここはお前たちの縄張りだが、この山道でわしに追いついたら望み通り何でも進上しよう」

言うや、スタコラ駈け出した。三四人立ちあがって追いかけてきたが、足の速い鉄舟には追いつくことができなかった。

龍択寺には三年通った。

龍択寺に着くと、すぐに星定和尚の部屋に入って見解(けんげ)を呈する。この当時の心境を「自分の誠心が足りないためか、それほどまでにやっても、まだ豁然(かつぜん)たるところまで至らない。けれども十年一日の如く怠りなくやってきたので、十年の昔に比べれば、その上達は幾倍といってもよいくらいだ」(『父母の教訓と剣と禅に志せし事』)と述懐しているが、ある日、星定和尚が初めて鉄舟に「よし」と許した。

だが、鉄舟はとんと「よし」とは思わない。内心「なんだ、つまらぬ。こんなことでよいなら、三年通ってバカをみた」と、辞去して箱根に差しかかると、山の端からぬっと富士山が現れた。

この一瞬「はっ」、豁然として悟るところがあった。機縁というのは妙なものだ。何かの時に悟りがくる。
喜びの余り、鉄舟は直ちに踝(くびす)を廻(めぐ)らして、星定和尚のもとに走り戻った。

和尚は鉄舟の姿を見ると、にこにこして
「今日は、お前が、間違いなく、帰ってくるだろうと、待っていた」と言った。和尚には鉄舟の心機一転悟りの様子が分かっていたのだ。

その悟りの境地を鉄舟は次のように詠んだ。

「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿は かはらざりけり」

この詠みは、鉄舟がよく富士山を描く自画像に書いている。

この当時、鉄舟に対して「あいつは徳川の直参だったのに、今は踝を返して宮中に仕えている。かつては忠節の鉄舟と言われたはずだ。節操がない野郎だ」という陰口を叩く声があった。

人からの蔭口は無視しているものの、鉄舟も人の子、やはり心を曇らせていたが、富士のお山はどうなのか。晴れた日も、曇った日も、変わることなく爽やかに気高く聳えている。それに対して、人は自分の都合に合わせて、雨の富士はよくねぇ、霧の中では見えねぇ、なぞと勝手にぼやいている。

富士山はいつも変わらないのに、見る人の心のあり様でお山に対する評価を変えている。そう思った瞬間、悟りの境地に達したのであった。

こうして大道を会得した鉄舟は、このあと、天竜寺の滴水和尚、相国寺の独園和尚、円覚寺の洪(こう)川(せん)和尚らについて仕上げをめざした。

独園和尚に会った時、若気の至りで、鉄舟は「本来空」のおのれの禅哲学をとうとうと弁じたという。黙ってしゃべらしていた独園和尚は、ぷかぷか煙管(きせる)をくゆらせていたが、その煙管をちょっと取り直すと、いきなり鉄舟の頭を打った。

「何なさる」

憤然とする鉄舟に、独園和尚はただ一言、

「無という奴はよく怒るもんじゃな」と言った。

以来、鉄舟は独園和尚についた。

小石川鷹匠町(現・小石川五丁目)時代の鉄舟、毎夜自宅で二時頃まで座禅していた。貧乏であるから、家はひどく、壁や天井は破れ放題、畳は家中で三枚しかなく、鉄舟が座っている畳はすり切れて、シンが出ているという有様だった。

その上、生来の殺生嫌いのため、鼠が昼夜の別なく大っぴらに出てくる。だが、不思議に鉄舟が座りだすと、鼠が一匹も出てこなくなる。英子夫人がそのことを指摘すると

「おれの座禅は鼠の案山子だなぁ」

と笑ったという。これは事実であり、鉄舟の禅は本物に向かいつつある証明であった。

次回も鉄舟の禅修行が続く。

投稿者 Master : 2010年09月08日 08:06

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