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2007年10月11日

二十三歳でつくった思想体系「宇宙と人間」

二十三歳でつくった思想体系「宇宙と人間」
        山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

飛騨高山から江戸に戻った十七歳の鉄舟、五人の弟たちを持参金付で養子に出し、自らは槍術の師・山岡静山の急死に伴って、二十歳のときに山岡家の養子に入り、山岡静山の妹・英子と結婚。

二十一歳のときに幕府講武所の世話役となり、二十四歳のときに清河八郎との出会いから尊皇攘夷党「虎尾の会」の発起人となり、清川八郎献策による浪士隊を募集・結成し上席浪士取締役として京に向かい、在京二十日で江戸に戻り、清河八郎暗殺後に閉門を命じられ、閉門が解かれた後は幕末の風雲事に関係せず、剣・禅の修業に明け暮れていた。三十三歳のとき、突如、徳川慶喜から命を受け、西郷隆盛を駿府に訪ね交渉、江戸無血開城を説得・納得させ、明治維新への道を開いたのであった。その後は明治天皇の侍従とし、多くの課題を解決し、四十五歳のときに大悟し、明治時代において、国民からもっとも慕われ敬愛された人物となった。

これが飛騨高山から戻った後の鉄舟の軌跡である。

人は自らの人生に節目を持っている。そのときは分からないが、後から考えると「あのときが節目だった」と思うときがある。

鉄舟の人生の節目はどうであったのか。鉄舟研究者として名高い大森曹玄氏は、鉄舟の節目を次のように解説している。
「鉄舟の生涯の“節”ともいうべきものを考えれば、まず十七歳にして父を失ったときがその第一節、二十四歳にして尊皇攘夷党を結成したのが第二節、三十三歳にして駿府に使いをした頃からが第三節、四十五歳の大悟が第四節、しかして四十九歳で庭の草花を見て機を忘じたのが第五節完成期、はなはだ大胆な分け方だが、このように見ていいのではないかとおもう」(山岡鉄舟 春秋社)

この中で「四十九歳で庭の草花を見て機を忘じたのが第五節完成期」とあるところ、ここは少し解説を加えないと分からないと思う。鉄舟は一時、色情修行という放蕩生活を続けたことがあった。これについては後日詳しく述べたいと思うが、鉄舟は自らの色情修行について次のように語っている。
「自分は二十一歳のときから色情を疑い、爾来三十年、婦人に接すること無数。その間、実に言語に絶する苦辛をなめた。例の“両刃、鋒を交えて”の句に徹して、一切処において物我不二の境涯を失わなかったのは四十五歳であったが、仔細に点検すると、その頃にはまだ毫末ほど男女間の習気が残っていた。それが四十九歳の春、ある日、庭の草花を見て、忽然として我れを忘じたが、それ以来、生死の根本を截断することができた」(山岡鉄舟 春秋社 原出典『全生庵記録抜粋』)

また、ここで述べている色情について、弟の飛馬吉の質問「色情なんて年をとれば誰でも自然になくなりますよ」に対して「馬鹿なことをいうな。お前のいう“色情”とは、肉体的欲望、性欲のことだ。そんなものならおれは三十の頃から、心を動かさなかった。しかし、男女という差別の観念が、根こそぎなくならなければ、ほんものではない」(同書)と答え、大森曹玄氏が次のように解説を加えている。「鉄舟のいわゆる“色情修行”とは、一切の相対的分別の根本ともいうべき、男女相対の念を超越することである。そして生死から自由になることをいうのである」と。(同書)

さて、大森曹玄氏は鉄舟が五つの節目を持っていたという解釈であるが、これとは別の見解を検討してみたい。その検討ポイントは「人の思考力であり思想」である。

人は必ず脳細胞の指示によって行動している。意識していないときの行動は潜在意識によって、意識しているときの行動は顕在意識で行動する。また、人の性格というものは、生まれた幼少期から子ども時代に形成されていく。親からの影響が一番大きいと思われるが、幼少期・子ども時代に接する相手からの影響によって自己が養成されていき、これが潜在意識として人の脳の中に組み込まれ、それが思考・思想として、その後の人生の節目としての結果行動に顕れていく。

鉄舟の潜在意識も、幼少期から子ども時代に形成されていった。旗本六百石の武家であり飛騨高山代官の父と、「家刀自」の母に庇護された恵まれた家庭で育ち、さらに、親の代参でお伊勢参りに行き、そこで出会った藤本鉄石と足代弘訓によって、時代の先端思想にも触れることが出来た。この環境下でたくましい身体と明るい人柄と、研ぎすまされた時代感覚が醸成されていった。

しかし、突然に襲ってきた両親の相次ぐ死と、残された幼い弟達の世話に明け暮れた苦闘、それらの幸不幸がすべて混在しあって、鉄舟のDNAを構成し、潜在意識に影響していったはずである。

だが、このようなことは、体験する内容の質と事の大小はあっても、すべての人が幼少期を通過し、子ども時代を過ごして成長していくのであるから、同様のプロセスを経てDNAを構成し、潜在意識に影響されていくので、当たり前の経過である。

ところが、鉄舟が通常の人間と異なるところがある。それはこの幼少期から子ども時代に形成された潜在意識の中味を、思想として顕在化し体系化したことである。

一般の人々は、自分がどのような性格であり、どのようなDNAであるか、それに興味を持って何らかの方法で知ろうとし、仮に知ったとしてもそれを自分の思想、この思想とは自らの行動の基本とすべき原理原則のことであるが、ここまで自らの内部を整理する人は殆どいない。だが、鉄舟は二十三歳の若さで行ったのである。

それは結婚し、幕府講武所の世話役となり、清河八郎との出会う一年前の安政五年(1858)五月であるが、鉄舟は一つの思想体系を創りあげた。
それが「宇宙と人間」である。

(クリックして拡大)

 図の後に次の言葉が続く。
「凡皇国に生を亨けたるものは、須く皇国の皇国たる所以を知らざるべからず。余謹んで皇史を案ずるに、蓋し本邦の天子は萬世一統にして、臣庶は各自世々禄位を襲ひ、君主庶民を撫育して以て祖業を継ぎ、忠孝を以て君父に事へ、君民一體忠孝一揆なるは、独り我が皇国にあらざるか。是れ余が昼夜研究を要するところにして他日其極致に達せんことを期す。図の如く、唯だ我の感ずる所を署すと雖も、敢て他人に示すものあらず。これ自ら戒むるの目標のみ。図の如く宇宙の道理を系統して図解するに當り、我窃に思ひらく、抑も人の此の世に在るや各其執る所の職責種々なりと雖も、其務むる所の業にして、上下尊卑の別あるに非ず。本来人々に善悪の差あるにもあらず、人間済世の要として、一段の秩序あるのみ。されば何人によらず各本来の性を明め、生死の何者たるを悟り、旁吾人現在社会の秩序に随い、生死を忘れて、其職責を盡すべきなり。其責を盡すは則ち、天地自然の道によるものにして苟くも逆らふべからざるものとす。若し斯道に逆らふ事あらば、自業自得の罰苦に陥るも、亦是れ自然の理なり。よくよく慎む可き事乎。
  安政五年戊午夏五月五日認     山岡鐵太郎 行年二十三歳」


これを書いた年は安政の大獄と同じ年であるが、安政の大獄は九月であるからその四ヶ月前である。図では最初に「宇宙界」という言葉を持ってきている。だが、当時の人間で、まして封建社会の武士階級身分の人物が、「宇宙」という今でも新しい響きを持たせる言葉を使っていることに驚きを禁じえない。

加えて、この図に徳川幕府という表現がないことにも、徳川家の旗本である立場からは奇異で斬新で、とうてい考えられないことである。
更に、日本国を「公卿」「部門」「神官、僧侶、諸学者等」「農、工、商、民」と四区分しながらも、その区分間に身分差なく、公平に並べ扱っていることにも驚く。「上下尊卑の別あるに非ず」、つまり、人間に本来貴賎の別はないことを明言しているが、これは民主主義の原点思想であり、これを当時二十三歳の下級一旗本が述べていることをどのように理解したらよいのだろうか。多分、民主主義という言葉と内容は、まだ日本には伝わっていなかったと思われる時代に、既に鉄舟は図に記しているのである。驚くばかりである。

ここで、当時の対外国との関係を振り返ってみたい。

勝海舟が咸臨丸でアメリカ・サンフランシスコに向かったのは万延元年(1860)である。鉄舟が密に「宇宙と人間」を図に描いた二年後のことである。
その海舟は、アメリカで何を一番学んだか。それは帰ってから各地で多く発言している内容から分かる。それはアメリカ初代大統領、ジョージ・ワシントンのことである。

当時の日本人が持つ常識感覚では、ジョージ・ワシントンは日本でいえば初代幕府将軍徳川家康にあたった。つまり、江戸時代の幕府が奉った「神君家康公」である。

この神君にあたるジョージ・ワシントンの子孫について、海舟は当然に尋ねた。何故、当たり前のごとく、子孫のことを聞いたのか。それは家康の子どもである秀忠は二代将軍、その子の家光は三代将軍と続いたように世襲制度が常識であるから、当然にジョージ・ワシントンの子孫も大統領とはいわないまでも、何かの重要な立場か役職に就いていると思って、当たり前の質問をしたわけである。

ところが、回答は「そんなことは誰も知らない」という事実にビックリ仰天した。上院議員にも聞いたところ「たしか女の子がいたが、いまはどこでどうしているか知らない」という。加えて、大統領は四年で交替する制度であることも知って、これはいったいどうなっているのか。大統領と徳川幕府将軍とはどのように違うのか。それらの政治的基盤構造が、咸臨丸の一行にはなかなか理解できなかった。

しかし、海舟はジョージ・ワシントンの子孫に対する回答を聞いたとき、一瞬にして「これが民主主義だ」と理解したのであった。ここが海舟の鋭さであり、幕末時に海舟のような国際的感覚人がいなかったならば、明治維新は違った方向に向ったと思われる所以である。

この海舟は、横井小楠を高く評価している。氷川清話に「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南州とだ」(勝海舟全集21 講談社)と述べている。その高い評価の始まり原点は、小楠にアメリカ大統領選挙と初代ジョージ・ワシントンの話をした際「それは尭舜の世ですな」一瞬にして答えたことからであった。

尭、舜とは、中国古代の聖天子。尭帝は朝廷の門前に鼓をおいて、もし自分の政治にあやまちがあれば、人民にいさめの鼓を打たせ、また舜帝は門前に木(板)を立てておいてそれに諫めの言葉を書かせたという故事、つまり、国民に対して民主的な政治を行ったのが尭舜であるが、この古事を持ち出してアメリカを理解したわけである。

小楠は一度も外国に行ったことがなく、素養の原点は漢学一辺倒であったが、今までに全く関係なく知らなかった別の国の政治体制実態を聞いて、一瞬にしてそれを別の事例に飛躍し理解できるという、その頭脳を海舟は高く評価したわけである。

しかし、小楠は海舟というアメリカ帰りの博学者と会えたことで、民主主義という実態を聞くことができ理解したのであるが、外国へ一度も行けないレベルの環境下にあった鉄舟が、身近に海舟のような外国に詳しい人物が存在しない中で、それも海舟がアメリカへ向かう二年前に、二十三歳の若さで「民主主義ともいえる概念」を整理していたという事実、これは鉄舟の只者でないことを示している。

その只者でないことは「宇宙と人間」で図示したことの背景、それはこのような思想体系を自らの過去経験の集積化から整理し作り上げる、つまり、幼少期から子ども時代に形成された潜在意識の中味を、思想として整理したことである。

ではどのようにして、潜在意識の中味を思想として整理できたのか。それは二十三歳以前の鉄舟が持った思想の節目を更に検討しないと分からない。次回に検討してみたい。

投稿者 Master : 2007年10月11日 09:25

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