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2011年09月18日

駿府・静岡での鉄舟・・・その一

駿府・静岡での鉄舟・・・その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄


彰義隊が壊滅された慶応四年五月十五日から九日後に、徳川宗家を継いだ田安家の亀之助(後の徳川家(いえ)達(さと))に徳川家の禄高が示された。駿河国一円と、遠江国・陸奥国を含めて七十万石であった。

徳川幕府は世上領国八百万石とも言われている。八百万石ならば十分の一以下になり、旗本八万騎とも言われている幕臣は生活ができない事になってしまう。
では、この八百万石と八万騎、果たしてその実態はどの程度か。そのことを海舟が次のように解説している。

「世間云ふ、徳川氏政府の領国八百万石ありと。又、其実を察するものは冷笑して云ふ、是れ虚称其大に誇るなりと。余案ずるに、両説、共に其一を知て、また其二を知らざるなり。其全く蔵入となるべきの地は実に四百余万石にして、此中蔵米を以て給する旗下、家人(けにん)、数万家あり。政府の用度、自己の費途に充(あ)つるものは、僅々の数のみ。故に、万一非常の変に逢えば、金穀欠乏して、給せざるものあるに至るなり。而して家臣中、万石以下の知行を有する輩、其禄高三百余万石あり。此二つの者を合算すれば、七百余万石に到る。八百万石の概称、蓋(けだ)し是より出づ。

世間又云ふ、徳川氏の旗下総数八万騎と。是は、石高八百万石より誤称するが如し。旗下士の称あるものにして其禄万石に及ばざるもの、実数三万三千余のみ。然れども、世に八万騎と称するもの、またその原因あり。譜第(ふだい)の臣下にして万石以上の禄を食(は)むもの、即ち世俗に譜代大名と称する輩百数十家、是等の家臣、昔時は皆旗下の隊に編成せしものなれば、是を通算する時は、其数八万前後に及ぶべし。此輩、今皆華族に列す。其実は徳川氏の臣僕にして、万石以上を食みしものなり。嗚呼、是等の華族、朝恩殊遇、奕(えき)世(せい)*忘失すべからざるなり」(「勝海舟全集6吹(すい)塵録(じんろく)Ⅳ」講談社)

この吹塵録という記録について、国立公文書館は次のように説明している。

「勝海舟は、早くから古い書物を写し古老の話を聞き書きするなど記録の収集と保存に意欲的な人でした。

長年にわたって書写した幕府の記録類(公文書)や私記(私文書)、随筆、談話の類をまとめたのが『吹塵録』。明治17年(1884)にその草稿を見た松方正義(まつかた・まさよし 1835-1924)の尽力で、同20年に大蔵省から編集費用が支給されることになり、同年末に完成。同23年(1890)に大蔵省から『吹塵余録』と合わせて刊行されました。冒頭、大蔵大臣官房の名で、「本省先キニ幕府財政ノ実況ヲ記スルノ書ナキニ苦ミ之ヲ勝伯ニ謀ル伯為メニ此書ヲ編シ名ツケテ吹塵録ト曰フ」と、本書刊行の趣旨が述べられています。

収録されているのは、貨幣・鉱山・人口・治水・社寺・皇室・災害・蝦夷地等の史料および関係法令などで、幕府の財政経済史料集として貴重です。本書の編纂には、勘定所等で実務を担当した旧幕臣十数人が協力しました。『吹塵録』『吹塵余録』で全45冊。書名は、中国の伝説的帝王黄帝(こうてい)の「吹塵の夢」の故事(大風が天下の塵垢を払う夢を見て風后という賢相を得た話)に因んでいます」

海舟という人物は誤解を受けやすいところがある。先日も群馬県に関係する企業幹部とお会いしたら、海舟は大嫌いだ、自分は小栗上野介派だと、息巻いていました。

だが、国立公文書館に保存されている貴重な当時の記録、それは「陸軍歴史」「海軍歴史」「吹塵録」「開国起源」であるが、これを編纂した業績を高く評価すべきだろう。海舟は幕臣であって、明治政府では枢密顧問官でもあり、伯爵でもあったので、その経歴・経験を持って国家に協力したのであり、海舟にしかでき得ないと思う。

「陸軍歴史」とは陸軍史、「海軍歴史」は海軍史、「吹塵録」は財政・経済史、「開国起源」は外交史で、国家として大事にすべき幕府時代の貴重な歴史記録である。巷間喧伝されている江戸無血開城時の活躍ばかりではない。こういう事が案外知られていない。

さて、禄高七十万石は決定したが、与えられた陸奥国は戦争中であって、徳川藩への引き渡しは事実上できず、そこで改めて遠江国諸侯領と駿河国久能山領、三河国御領と旗本領を加え七十万石とした。

海舟の言う実質「七百余万石に到る」と比較しても十分の一であって、徳川家の経営が窮することに変わりはない。

また、七十万石にするためには、諸侯のいない三河国御領と旗本領以外の二国、駿河と遠江の領主が移封されることになった。

まず、駿河国の沼津、小島、田中(藤枝)の三藩と、遠江国の掛川、相良、横須賀(掛川市の一部)、浜松の四藩、計七藩は上総と安房(千葉県)に移った。ただし、浜名湖周辺の堀江藩一万石は除かれ、ここに駿府府中藩が成立した。

ただし、明治二年に静岡藩と改称されたので、以後、藩名は静岡を使用したいが、この府中というのは、天皇に対する不忠に通ずるということから改称されたとも言われている。

ここで慶応四年頃の駿府地区の人たちの動向を少し振り返ってみたい。官軍が駿府の地を江戸に向かって進軍していた当時、府中(静岡)から江尻(清水)まで駕籠に乗った旅人の耳に入ったのは、駕籠かきたちが口ずさんだ歌「行きは官軍、帰りは仏、どうせ会津にゃかなうまい」というものであったという。幕府の勝利に期待するものであったことは言うまでもない。

この背景には駿府地区特産のお茶産地としいう条件があった。日本の開国により諸外国への輸出は生糸とお茶が中心で、その産地は未曽有のブームを起こし、幕府の開港政策は茶産地の駿府住民に多大な利益をもたらし、幕府支持となって、官軍には批判的であった。

だが一方、立場の異なる側に立てば一変する。幕藩体制下の宗教政策により、僧侶が優遇され、神主は疎外されていたので、その不満を回復しようと遠江国の遠州報国隊、駿河国の駿州赤心隊、伊豆国の伊豆伊吹隊など、神職中心の倒幕運動が展開された。

このような両派の対立に加え、これらの地域は幕府の直轄地や旗本の知行所、多数の大名藩地が複雑に入り混じっていたので、複雑な動きを示していた。その状況を「民衆文化とつくられたヒーローたち」(国立民俗博物館)から引用してみる。これが今後の鉄舟と深い交わりをもった清水次郎長への理解にもつながるので。

「東照神君の地にして徳川幕府揺籃の地三河は、何故に次郎長のこよなき隠棲(いんせい)の地になったのか。本来は徳川幕府のモデル地区として最も法令が守られ、無宿や博徒が入り込む余地がない優等生の地でなければならないはずである。にもかかわらず他国者の博徒が潜入するのは、これを歓迎する根生えの博徒がいたからである。三河木綿の産出を背景に伊那街道の中馬(ちゅうま)輸送、三河湾、伊勢湾の海運の物流ルートに恵まれた三河は交通と産業の一大発展地であった。

ところが隣国尾張が尾張徳川藩六十二万石の一国支配であったのに対して三河は小藩が分立し、しかも大名の交代が非常に激しかった。江戸時代、常に七から十一の藩が分立し、五十二もの藩が生まれそして消えていった。中でも吉田藩(七万石)で十回、西尾藩(六万石)・刈谷藩(二万三千石)は九回領主が代わった。のみならず尾張藩、沼津藩などの飛び地や幕領が点在し、加えて六十余家に及ぶ旗本の知行所がばらまかれた。それらが入り組んで犬(けん)牙(が)錯綜の状況にあったのが三河国の支配であった。関八州をはるかに凌駕する支配の弱体は、より無宿や博徒を生み出すことになる。

皮肉にも徳川幕府発祥地という由緒が、大名や旗本に三河以来の地縁を求めて少しでもいいから飛び地を持つことを希望させた。しかも三河の譜代藩は東照神君に連なる名門の血筋であり、多くが幕閣枢要の職に就いて専ら江戸にあって幕政に腐心し、国元の治世を疎(おろそ)かにした。

三河の宿・町・河岸・湊など、いわば支配の隙間に縄張りを持つ博徒は、当然利害をめぐって抗争する。次郎長と結ぶ寺津間之助・型原斧八、これに対抗したのが宝飯郡平井村の平井亀吉である」

このように他国者の博徒が潜入する地域が三河国であり、この地が徳川家静岡藩となり、それが現清水市に居住した清水次郎長の動きに関係していたことがわかる。

ところで、この静岡移転に伴い、幕臣は以下の四つに身の振り方が分けられる事になった。

第一は脱走して反政府活動に走った者で、多くは東北から函館戦争に参加した。

第二は朝廷・新政府に仕える者である。新しい禄高七十万石では従来の生活は出来ないわけであるから、この道へ行くようしばしば勧奨された。

第三は暇乞いして農工商になる者、第四は藩臣として徳川家に残る者である。

これらの人数分けを「徳川家臣団・第一編」(前田匡一郎著)によると、勝海舟の記録(「海舟別記」巻1)を引用し次のように記している。

「明治初年徳川旧家臣団の始末
  徳川氏旧家臣 凡そ三万三千人 内、分離左の如し
  静岡行      一万五千人
  朝臣       五千人
  帰農       六百人
  大蔵・外務附渡し 二百四十人
  田安・一橋家従属 四千九百二十四人」

 この人数を合計すると二万五千七百六十四人となるので、七千二百人ほどが第一の脱走した人数と推定される。

 なお、いったん静岡に移住した幕臣であったが、その保有する知識と技能は新政府においても重要で、必要であったので、次々と新政府に呼び出され、相応の待遇を持って、各省へ出仕を命じられた。新政府諸官庁での幕臣の比重は高く、特に政策立案能力と政策実施部門には多く起用されている。

 次に触れなければならない事に、慶喜の静岡移転がある。慶喜は慶応四年四月十一日の江戸城の官軍引渡しと同時に、水戸の弘道館へ移住した。しかし、この水戸は恭順するにはふさわしい土地とは言えなかった。奥羽越列藩同盟が成立し、新政府に抗することなり、奥羽方面に近い水戸では危惧される事態が予測された。その状況を「徳川慶喜公伝4」渋沢栄一著が次のように述べている。

 「公思へらく『東北の諸藩一旦王師に抗したれども、心定まらば順逆の理を覚りて、ゆくゝ降伏に至らんは必定なり、其時に至らば、会津に加はれる水戸の党人等は其倚(よ)る所を失ひ、必ず水戸に復帰して積怨を霽(は)らさんとすべし、余は謹慎の身、如何にして其党禍を防ぐべき、寧(むし)ろ予(あらかじ)め難を避けて謹慎の実を全くするに如かず』と、旨を勝安房に授けて、駿府移住を大総督府に内請せしめ給ふ」と。
 
また、家達君の後見松平確堂より請願したと、次のようにも記している。

「慶喜朝命を奉じ、去る四月水戸表へ退去謹慎罷(まか)り在りしに、近日奥羽の形勢容易ならず、既に官軍の進発ともなり、常州(常陸国)近国も動揺の由に承りぬ、慶喜に於いては素より一身を顧みず謹慎すれども、兵若し水戸附近に迫らば、恭順の障害ともなりて、慶喜の素志を遂げざるにみならず、私どもに於いても深く恐懼に堪へざる所なれば、慶喜を駿府に移転仰付けられ、さしむき宝台院にて謹慎罷り在るやう御許されを蒙りたし」と。

このような慶喜の静岡移転については、もう一つの説がある。

勝海舟の「幕末日記」慶応四年七月十二日に
「山岡鉄太郎来訪、前上様駿河表へ引移御免の事、督府より仰せ渡さる。是、山岡氏尽力に因る所」とあり、続いて同月二十五日には、格別の思し召しにて、慶喜から金子百両を賜った鉄舟が海舟邸に持参した旨が書かれている。

鉄舟が慶喜の駿府移転に関わったことは明白であって、江戸が東京と改称された七月十七日から二日後の七月十九日に、慶喜は水戸を出発、銚子から榎本武揚の指揮する軍艦蟠龍にて二十三日駿河清水港に到着し、直ちに静岡の宝台院に入った。

慶喜が静岡に移転した翌月の八月九日、徳川家達は江戸を出発し、十五日に駿府に着いた。まだ五歳の幼児であり、静岡までの道中は見る物すべてが珍しく、お付きの老女に問いを発し続けたという。また一方、錦切れをつけた官軍兵士が、家達一行に対し嫌がらせをするなどの狼藉を受け、お付きの者たちが涙したとも言われている。

駿府に着いた家達は、宝台院にて慶喜に挨拶し、直ちに駿府城に入った。城中では旧幕臣が出迎えたが、家達とは殆どが初対面であった。海舟、鉄舟も家達を迎えるため駿府に来ていたが、江戸に残務があるので江戸、いや東京に戻った。

九月八日、慶応四年を明治元年とし、今後は天皇一代に年号ひとつ「一世一元」となり、
十月中に徳川家臣団は駿府への移住を完了させよとの命が出された。

この移住方法手段が大変であった。一つは陸路であるが、品川宿を例にとると、幕臣の駿府への移住、駿河と遠江から移住する七藩の千葉行き、それに加えて官軍の東上とが交錯し大混乱状態であった。もう一つの移住方法手段は海路である。これは更に大変であった。

この状況は次号で述べたいが、ここで鉄舟の駿府での住居址の紹介をしたい。以前にあった記念碑が老朽化して撤去されたままになっていたが、二千十年四月に新しい記念碑が、静岡・山岡鉄舟会と地元の水道町町内会によって建立された。現在の静岡市葵区水道町1-4である。ご関係方々のご努力に謝意を表したい。

投稿者 Master : 2011年09月18日 09:26

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