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2008年12月09日

貧乏生活その四

貧乏生活その四
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

鉄舟は自ら大悟し自得した無刀流について、明治十八年次のように説明している。
「無刀とは心の外に刀なしと云事にして、三界唯一心也。一心は内外本来無一物なるが故に、敵に対する時、前に敵なく、後ろに我なく、妙法無方、朕迹を留めず。是、余が無刀流と称する訳なり」(山岡鉄舟剣禅話 徳間書店)

これは、心の外に刀はないということであり、三界にあるのはただ一心の真理だけであり、この一心とは内外ともに本来何物にも執着しないことを意味している。

つまり、刀に捉われない剣法であり、人間生れたときも死ぬときも裸であって、本来無一物であるのだから、何もないと思えば、地位や財産や名誉も関係なく、このような利欲に惑うのは愚かなことであると述べているのである。

このような境地に達したのは、明治十三年三月三十日払暁に「釈然として天地物なきの心境に坐せるの感あるを覚ゆ」という大悟に到ったからである。

大悟への修行のきっかけは、一刀流の浅利又七郎義明との立ち合いによって、自らの力量でははるかに及ばざることを知り、その後は寝ても覚めても浅利の剣が現れるという事態から、京都嵯峨天竜寺の滴水師によって授けられた禅理公案、それを解くことによってなされたのである。

この経緯については後日に詳しく検討していきたいが、大悟という心境に到って、始めて鉄舟は本来無一物と悟ったわけではない。そこに至る道には幼き頃からの精進が当然にあり、その原点を探っていくと、十五歳のときに認めた「修身二十則」に行き着く。

「修身二十則」の第一則は「うそはいふ可からず候」で始まり、その後に続く中で、己の知らざるは何人からも学べと言い、名利のために学問技芸すべからずと諌め、人にはすべて能不能あるので差別するなと説き、わが善行を誇らず、わが心に恥じざるよう務めろとある。とても十五歳の少年が書き示したものとは思えない。すでに賢者の言辞であり、この時点で本来無一物の思想、つまり「無私」の精神が顕れており、これを自己研鑽の最高の徳目に、少年時代から自己研鑽を続けていたという事実が浮かんでくる。

この「無私」の精神を実行している過程に、英子との結婚生活が存在したのであるから、結果として酷い貧乏生活とならざるを得なかった。前回に続いて貧乏話に触れたい。

鉄舟の家では、家財道具から着物まで売り払い、畳まで売って八畳の間に畳がたった三枚残っただけで、あとはがらがらの空家になってしまった。この畳三枚の中の一つに机があって、他の畳二枚は寝たり食べたり客を通したりする席になっていた。勿論、何年経っても畳替えも出来ないから、段々ぼろぼろになり、机の前の鉄舟の座るところは、畳が丸くくぼんで、それがしまいに床板に届いたという。

夜など敷く夜具がなく、たった一つの蚊帳、それもぼろぼろの古蚊帳にくるまって夫婦で寒中抱き合って寝て寒さを凌いだ。

「どうしてあの蚊帳だけが残ったものか。余程のぼろなので屑屋が持っていかなかったのかもしれない」と鉄舟が何かのとき、話したほどである。(おれの師匠)

鉄舟の家の庭木は薪物にするため伐られて行った。その庭木の中に柏の木が一本あった。隣が菓子屋で、毎年柏餅の時節になると、鉄舟のところへ柏の葉を貰いに来て、そのお礼だといって英子に幾ばくかのお金を置いていくのであった。

庭の木が追々伐られてしまうのを見て、菓子屋の主人が英子に「あの柏の木だけは伐らないようにしてください」と言った。

菓子屋の主人の心は、この柏の葉でいくらかの生活費に充て得るなら、伐らぬ方がよいという老婆心もあって言ったのである。

鉄舟は英子から隣の主人の言った話を聞いて、菓子屋風情に憐れみを受けるのが心外でならなかった。英子の話を聞き終わると、鋸を持ち出して、庭に下りて、柏の木を伐りだした。これを見た隣の主人が飛んできて、

「山岡さん、どうしてその木を伐ってしまうのですか。残しておいたらいいでしょう」と詰る如く問うた。
「がさがさ枯葉の音がして、勉強の邪魔になってうるさくていけねー」
と、とうとう伐り倒してしまった。(おれの師匠)

 自宅の庭木が他人の役に立って、そのお礼といえる報酬さえ拒否する。物凄まじいまでの徹底したつらぬきであるが、これを「無私」の精神という説明だけでは不十分と思う。もう一つ何かがあるだろうと考えたい。

鉄舟は当然ながら、内職するということなぞ全く存念になかった。だが、当時の下級武家は内職が当たり前であった。江戸時代の武家の内職について「江戸の夕栄(鹿島萬兵衛)中公文庫」は次のように解説している。因みに著者の鹿島萬兵衛は、数え年で二十歳が明治元年であるから、江戸時代に少年時代を過ごした人物であるので、当時の実態をある程度正確に把握していたと思われる。

「俗に三ピンといふ下役の武家家来あり。足軽・小者の輩ならん。一ヵ年金三両に一人扶持(ゆえに三一といふ)。二本差もあり。それのみにては自分だけをも支えるに足らぬゆゑ、種々の内職をする。大名の中下の邸にてはないしよの表向きとして許されありしなり。傘、提灯張り、扇、団扇、下駄の表、麻裏草履、摺物、その他数多くあり。本職よりかへつて収入多きなりしと」

多くの武家が内職を当然とした時代、鉄舟はアルバイトなどを存念に全くおかなかった。何故だろうか。妻子を養うという思考はなかったのだろうか。

この点について、茨城大学磯田道史助教授は次のように解説している。(朝日新聞二〇〇七年二月十日)
「山岡の辞書に『暮らし向き』という文字はなかった。だから、妻にとっては過酷そのもの。山岡の死後、妻は語った。『夫婦になったはよいが、鉄太郎(鉄舟)という人は、これまた、とんでもない変人で、何にも気の付かない人です。妻子を養うには、かくせねばならぬ、と云う如き事には更に無頓着な人』つまり、山岡にとっては、妻子を養うのは私事であり二の次、義にあつい彼は、妻子が飢えても、客には食べさした」

ここで指摘されているのは、妻子を養うのは私事ということであり、たとえ家族が飢えようと私事では行動しない鉄舟像であるが、ならば、私事でなければ何を基盤に行動したのであろうか。

それは公事しか考えられない。

ここで改めて西郷隆盛の鉄舟に対する評価を振り返ってみたい。西郷が始めて鉄舟を知ったのは、江戸無血開城を決めた駿府会談であった。駿府の松崎屋源兵衛宅で示された、鉄舟の持つ武士道精神によって、西郷は江戸無血会場を約束し引き受け、四日後の慶応四年(1868)三月十三日に芝高輪の薩摩屋敷で、正式に勝海舟幕府陸軍・軍事総裁と、西郷隆盛東征軍大総督府参謀による第一回の会見・交渉が開かれたのであった。

だが、第一回では静寛院宮の安全についてのみ確認し合い、あとの議題は翌日の第二回会談に回し、海舟が西郷を愛宕山に誘った。

愛宕山は海抜26メートル、さほど高くない丘であるが、台地の東端にあり、ここから見下ろすと、江戸の町が北から南まで見渡せ、その先に広々とした海と白帆の船を望むことができる。また、徳川家康が建立した愛宕神社があって、江戸城南方の鎮護として当時も今も名所であり、神社に参拝するためには、寛永十一年(1634)曲垣平九郎が馬で上った急勾配、その男坂八十六階段を海舟と西郷も上がり、そこで、西郷があの有名な言辞を発したのである。

「命もいらず、名もいらず、金もいらず、といった始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如きでしょう」と。

これが、後年、西郷の「南州翁遺訓」の中に一節として記され、西郷が鉄舟に対して示した評価であったが、この評価言辞の意味は、鉄舟という人物は「普遍的な公」という立場から事態に対処してくる、「普遍的な公」というものにしか仕えていない人物だ、と西郷が認めたと理解したい。

では、ここでいう「普遍的な公」とは何か。そのためには、再び、当時の政治状況を振り返って見なければならない。

鳥羽伏見の戦いに敗れ、薩長軍は官軍、幕府軍は賊軍となり、慶喜は大坂湾から船で脱出、江戸に慶応4年1月12日に戻った。江戸城では恭順派と抗戦派に分かれ議論が紛糾し、その議論に揺れ動いた慶喜も、最後は恭順策を採り、その意を表すべく、上野の寛永寺一室に謹慎・蟄居した。

この恭順の真意は、江戸無血開城であり、その結果として国内の争い回避と、外国勢力の介入防止であり、この状況は今後誰が日本国内の政権担当能力を持つのかを問われるものであった。

それまでは徳川家が、将軍職として国内政治を掌握していたのであり、この実態を「日常状態」と認識すれば、慶喜の恭順は「非日常事態」の発生であり、例外状態であるから、その状況下では人の判断基準は分かれる上に、今までの「日常状態」での判断基準は参考にならない。その結果として多くの異論が噴出、争いが生ずるのである。

これが幕末時に生じた政治実態であったが、この事態を後世の歴史家が認める「明治維新」という大業まで成し遂げた起点は江戸無血開城である。

つまり、「非日常事態」の中から、後世に認められるような「普遍的な公」を採りえたことが、「明治維新」を成立させたのである。

しかし、幕末時という「非日常事態」の渦中に実在した多くの人々は、未来を見通すことが適わない一人の人間として、それぞれ「考え方」を持って行動していた。

人間であるから当然であろう。また、その「考え方」でつらぬきたいと思ったら、それに見合う意志力を持ち努力し行動していくことが肝要となろう。これは、「考え方」を実現しようと思うならば、それに見合う努力が必要だということであり、これを平たく言えば「やる気」を持ち続けることであ。そして、その「やる気」がぶつかり合うことで争いが生れる。

つまり、「考え方」があり、「やる気」があり、「争い」が生まれ、その先に後世の歴史家が認める「結果」が生じることになる。一介の人間がそのすべてを見通すことはありえない。ただ状況に翻弄されるがせいぜいだろう。

その渦中に鉄舟は存在し、重要な役割を担ったのである。では、当時の鉄舟の「考え方」と「やる気」とは、どのようなものであったのか。

まず、「考え方」は「武士道」であったろう。鉄舟は「武士道」について次のように解説している。
「日本の武士道ということは日本人の服膺践行すべき道というわけである。その道の淵源を知らんと欲せば、無我の境に入り、真理を理解し開悟せよ。・・・中略・・・これすなわち国体の精華、いよいよ真美を重ねて、国家の福祉はますます増進するのである」(勝部真長編「山岡鉄舟の武士道」角川ソフィア文庫)
ここで述べていることは、自らが大悟した結果理解した内容であり、それは国家の大道をもつながるものであるが、これは真のサムライとしての生きた鉄舟であるから当然であって、「仕える」対象の存在は「私」ではなく、「公」に仕え奉ずることになる。

言葉を代えれば「ノーブレス・オブリージ」(高い身分と地位に相応しい義務と責任)がすべてを律することになる。

次の「やる気」とは、「武士道」が前提思想であるから、単なる「やろう」というような気持ちではなく、サムライが一度決めたことは、命がけで守るという「気概」に昇華させたものであったろう。

この「気概」があるからこそ、十五歳で認めた「修身二十則」の弛みなき実行につながり、その結果は「妻子を養うのは私事」という極貧の家庭生活につながり、「非日常事態」における西郷との駿府会談では、決死の気合と論説の鋭さによって「普遍的な公」を示すという行動につながったのである。

しかし、今ひとつ理解できないことがある。駿府会談で示した「普遍的な公」とは、結局、幕府を潰すことにつながったのである。幕府が消えるという「普遍的な公」の背景精神はどこから発したのだろうか。

その背景精神は、家族を犠牲にした貧乏とつながっているはずである。次回に続く。

投稿者 Master : 2008年12月09日 08:48

コメント

山岡鉄舟はどのくらい強かったのだろう?
武勇伝なんかに興味がありますね。

投稿者 さら@目の下たるみ : 2008年12月18日 09:01

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