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2004年05月26日

鉄舟研究を連載するにあたって

このページで鉄舟研究を連載するにあたって   山本紀久雄

鉄舟・21・サロンの鉄舟研究ペ-ジにようこそいらっしゃいました。
山岡鉄舟の研究を行っている山本紀久雄です。
研究の内容と成果は、毎月の鉄舟・21・サロンの例会で発表しておりますが、その発表したものの中から、皆様に連載としてご案内申し上げたい内容を、この「鉄舟研究」というこのペ-ジ上でお伝えいたしたいと思います。

そこで、今回は最初ですから、まず何故に山岡鉄舟を研究するのか、ということにつきましてご説明申し上げたいと思います。
つまり、「何故、山岡鉄舟を研究するのか」という問いを自らに再度確認した内容をご案内申し上げることで、これからの連載の目的を定義いたします。

何故、山岡鉄舟を研究するのか

日本の近代史を考察すれば、日本が欧米諸国に植民地化されなかったことが、その後の国家発展にいかに寄与しているかということが分かります。
   仮に、江戸幕府の末期に植民地化されていたならば、日本自身の発展成長だけでなく、アジア諸国が植民地から脱却するタイミングまで影響したであろうと推察できます。つまり、日本が明治維新から急速に国力を増強してきたことは、不幸にも第二次世界大戦を発生させるという結果を招きましたが、そのタイミングに多くのアジア諸国が独立を成し遂げたことは歴史として事実であるからです。日本の国力発展が結果的にアジア諸国に影響を与えたということであり、その日本の国力発展の源を遡れば、幕末から明治に国内を二分する大戦争なく、明治維新という近代国家への道を歩むことが出来たこと、この歴史事実を確認できるのです。
   
ですから、日本の発展近代史の原点は江戸時代から、明治時代に無血転換できたことにあり、その無血転換という大事業を成し遂げた偉人たちに、現在に生きている我々は最高の感謝と、最大の関心を持つべきであると思います。

   山岡鉄舟という人物、この剣・禅・書の三位一体の達人も、日本発展近代史の一ペ-ジを大きく飾る偉人です。幕末時、たったの百俵二人扶持という御目見え以下の身分低き旗本でした。その最下級身分に所属していた山岡鉄舟が、あの封建時代の古きしきたりと身分制度の中でありながら、彗星のごとく突如として時代の大転換の表舞台に登場し、明治維新へ転換する岐路となった交渉、それは、実質の官軍総司令官であった西郷隆盛との駿府での会見、それも西郷隆盛とは全くの初対面であったのに、その会見で「江戸無血開城」という世界の歴史上でも稀有の出来事を成し遂げたのです。

   山岡鉄舟という偉人なくして、今日の日本の発展はなかったといっても過言ではありません。
この山岡鉄舟が西郷隆盛との使者に選ばれなかったら、今日の日本の姿は異なっていたものであったと推察できます。
   
ですから、この山岡鉄舟が時代に登場したことの解明、

・ つまり、何故に最下級身分の立場でありながら歴史の岐路を決めた最大の交渉の場に臨む使者として選ばれたのか

・ また、突如として歴史上最大の役割を授けられたにもかかわらず、その役目を立派に成し遂げることが出来る力量をいつにどのように磨いてあったのか
  
この解明を行うこと、そこに最大の興味と関心をもって、山岡鉄舟の研究を行っていきたいと思っています。
   さらに、研究を継続し深めることによって、山岡鉄舟が行動し示してくれた時代を切り開くための行動指針とセオリ-を解明し、その内容を現代に生きる人々に伝えるということも、大きな研究目的とします。

投稿者 Master : 2004年05月26日 10:58