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2008年03月08日

山岡静山との出会い・・・その一

山岡静山との出会い・・・その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

 山岡鉄舟が小野性から山岡に変わった背景に、鉄舟が真から心酔し傾倒した人物との出会いがあった。その名は山岡静山である。
 静山の墓碑は文京区白山二丁目の蓮華寺にあり、寺の紹介板が白山下から小石川植物園脇の御殿坂へ通じ、蓮華寺へ上る道端に立っている。

「『蓮華寺即ち蓮花寺といへる法華宗の傍なる坂なればかくいへり。白山御殿跡より指ヶ谷町の方へ出る坂なり』と改撰江戸志にある。蓮華寺は、天正十五年(1587)高橋図書を開基、安立院日雄を開山として創開した寺院で明治維新までは、塔頭が六院あったという」(文京区教育委員会)
 
 日蓮宗・本松山蓮華寺の開山は、豊臣秀吉が小田原の北條氏を滅亡させ全国統一を成し遂げた三年前、ヨーロッパではイギリスが無敵のスペイン艦隊を撃破した二年前にあたる。古刹である。
 
 蓮華寺は別名「武士寺」と称された名残で、武士の墓地が多いと言われ、その墓地は本堂横から奥に広がっている。墓地を入ってすぐ目につくのは、石組み外柵に囲まれ、水鉢・花立の両側に重々しい灯篭が配置された、格式高い一つの墓碑である。正面墓碑には山岡累世墓「るいせいぼ」と書かれている。「代々の墓」という意味である。書かれた書体は鉄舟のものと思えるが、なかなかその場で判読できず、後日専門家にお尋ねしようやく分かった次第である。

 また、背面の墓誌にも多くの法名が彫られており、最後に明治十年丁丑六月山岡鐵太郎建之とある。明治十年(1877)西南戦争の年であるから、それから百三十年、風雪に耐えてきたので大変読みにくい。ようやく判読すると、彫られた法名の最後から六人目に「清勝安政二年乙卯年六月晦日」とある。
 
 静山は安政二年六月晦日に逝去し、戒名が「清勝院殿法授静山居士」であるから、この中の「清勝」という名と、逝去日で静山と判読できる。御霊はここに刻まれているのである。

何故に鉄舟が小野性から、山岡姓になったのか。また、何故に静山に傾倒したのか。その経緯をお伝えするには、当時の時代背景から語らねばならない。

 鉄太郎が飛騨高山から両親の死去により、江戸に戻ったのは嘉永五年(1852)17歳、異母兄の小野鶴次郎屋敷で、冷たい待遇を受けながら、二歳の乳飲み子を含む五人の弟達を必死に面倒を見、持参金付で他家に養子に出し、自らは百両のみ手許に置き、身辺整理を終えたのが翌年の嘉永六年(1853)、十八歳であった。

 この年、日本は未曾有の大事件を迎えていた。それは、米国ペリーの来航であった。日本が始めて正式外交として米国と接し、鎖国体制に壁を開けられた大事件である。当時の日本人の誰もが目の前に現れた外国という存在を意識し、大きな関心事として受け止めたが、当然、玄武館道場で剣の修行に励んでいた鉄太郎にも大きな影響を与えた。このペリー来航による鉄太郎の行動結果が、静山との出会いをつくったのである。


 しかし、この説明に入る前に、当時の日本人が一般的にペリー来航に対してとった行動、それは、従来、ある一つの見方から、一律的に当時の人々を描き語られているのであるが、実は大きく異なっていたことを解明しなければならない。この誤解を解くことが日本人の本質的な検討につながり、鉄舟分析にも通じることになるので、少し横道にそれるようであるが、今回と次回で触れていきたい。また、この検討のためには、ペリー来航の際に行われた外交交渉についても、その要約を押さえておくことが必要である。

 筆者が関係している「山岡鉄舟全国フォーラム」は、2006年12月、北海道大学文学部井上勝生教授をお迎えした。その講演の中で井上教授は次のように結論付けされた。それは、「当時の日本人は、今の日本人が持つ西洋人に持つコンプレックスのかけらもなかった」という事実指摘である。これについて井上教授講演内容と、同氏著書「『開国と幕末維新』講談社」から以下要約をお伝えするが、井上教授講演内容は本号巻末のホームページを参考にしていただきたい。

 さて、沖縄を経由したペリーは嘉永六年六月三日(西暦の七月八日)、旗艦はサスケハナ号(二千四百五十トン)以下四隻の艦隊で、夕方浦賀に碇を降ろした。ペリー一行は、富士山が綺麗に見渡せる浦賀に入る前後から、日本の多くの船と遭遇しているうちに、浦賀奉行所与力の中島三郎助が乗船した一艘の番船がサスケハナ号漕ぎよせられた。日本側は中央の帆柱に旗を掲げているのが「旗艦」だという「外国の法」を知っていたのである。

 これが日米最初の交渉が始まる瞬間だった。この交渉の様子は「対話書」に明らかである。「対話書」とは現場の応接掛や奉行が作成し幕閣へ届けた公式史料で、現在は外務省外交史料館にある。

 三郎助「船は、何国の船にて、何らの訳あり、当港へは、渡り来たりそうろうや」

 アメリカ「船は、北アメリカ合衆国の船にて、本国首都、ワシントンより、大統領より日本国帝に呈しそうろう書簡、所持いたしそうろう。高官の者、乗り組みおりそうろうあいだ、日本の高官の人にこれなくては、応接あいなりがたくそうろう」

 三郎助「日本の国法にて、これまでたびたび、異国船も渡来いたしそうらえども、高官の者、異国船へ乗り組み、応接いたしそうろう儀、一切これなく・・・」

この冒頭の対話で見るように、最初から日米の激しい論争が始まっている。ペリーは、国書を持っているが故に、「高官」との交渉を要求し、日本側は、「高官」との応接は「日本の国法」に適わないと拒否した。

 この論争の背景には、当時の国際法と日本国内法との違いがあった。当時の国際法は、欧米諸国だけに構成員を限定したもので、さまざまな点で今の国際法と異なっているので、今の「現代国際法」と区別され「近代国際法」と呼ばれている。しかし、この当時の国際法に則ってペリーが外交を開始しようとするのは当然であり、大統領書簡を持ち、東インド艦隊司令長官兼遣日特使という、権限を大統領から与えられたのであるから、日本高官との応接を求めるのは当然であり、結果は
「反船(ボート)を以て、上陸いたし、高官の人に直にあい渡し申しべくそうろう」
と、実力行使の上陸強行を表明したが、これはペリーの砲艦外交を示すものであった。

 これに対し、中島三郎助は次のように答えた。
「国にはその国の国法これあり、その法を犯しそうろう儀は、あいなりがたし、いずれにもぜひぜひ次官の者にても面会したくそうろう」

 この応答は現在の国際法に合致しており、当時の近代国際法にも完全に合致していた。
米国側は妥協し、中島三郎助はサスケハナ号に乗船し、ペリーの副官と応接した。これが正式な日米外交のはじまりだった。
 
 翌日の四日(西暦七月九日)には、浦賀奉行の香山栄左衛門がサスケハナ号を訪れ会見したが、その会見の間に、ペリーは江戸湾を測量すべく、測量船を蒸気軍艦ミシシッピー号に守らせて江戸湾に侵入させた。ミシシッピー号(千六百九十二トン)は、サスケハナ号よりは一回り小型船であるが、日本の千石船は百トンであるから、比較にならない彼我の船舶差であった。

 この江戸湾への侵入に対し、香山栄左衛門は抗議を行ったが、米国の法律によって測量する義務を有するとしてペリーは強行したのである。

 ミシシッピー号とそれを阻止しようと対峙する様子が、ペリーに同行した画家のハイネによって描かれて残っている。陣笠・陣羽織姿の役人が、扇を挙げて測量船を制止し、鑓も突き出され、米側には銃剣を向けている兵士もいる。

 この強攻策は功を奏して、日本側の譲歩によって水路を開けさせ、羽田沖十二丁、約一.三キロメートルに迫った。当時の領海は三カイリ(約五.六キロメートル)と近代国際法で決められていた。三カイリは砲弾の到達距離である。このころの炸裂弾も備えたパクサンズ型の滑腔大砲の有効射程距離は、三カイリをはるかに超えていた。江戸城が竹芝沖から射程に入るのである。

 サスケハナ号で中島三郎助が「船尾へ足を運んで巨砲を見ると、これはパクサンズ砲ではないのか」と船員に尋ねたとウィリアムズの「ペリー日本遠征随行記」が記しているように、日本側は新型大砲について知識があり、射程距離を気にしていたことが分かる。

 この測量船の江戸湾侵入によって、翌日、幕閣の評議は米大統領の国書受け取りを決断した。反激論もあったが「大国の中国でもついに国を挟められし程の国害」(「老中覚」六月)と、浦賀奉行への書取(命令書)付属文書に明記されているように、アヘン戦争での中国の敗戦が、幕府に大きく影響を与えていた。

 当時の近代国際法では、世界の国々を「文明国」「半未開国」と、国とは扱わない「未開」
の三群に区分していた。文明国とは欧米の国家群であり、半未開国とは半文明国としてトルコ、ペルシャ、シャム、タイ、中国、朝鮮と日本を指し、法律のあることは承認されていたが「文明の法」とは認知されず、主権を制限され、領事裁判権等の特例を設けられていた。これにしたがってペリーは日本に対応していたのである。
 
 さらに、ペリーの江戸湾侵入は、久里浜での国書受け取りの九日(西暦七月十四日)の翌日十日(西暦七月十五日)にも強行された。このようなペリーの対応は江戸という首都の弱点を事前に十分知って練られたものと言われている。江戸の地勢は海に近接している。その上食糧自給率は低いので、浦賀水道が閉ざされると、江戸は危機に陥ることが予測される。臨海政治都市江戸の姿は、日本が海からの防衛に不利な軍事的弱国であることを示している。

 このことは異国船打払令が出された翌年の文政九年(1826)、シーボルトは「江戸参府紀行」の中で、江戸は「異常に大きい人口」を持っており、江戸への海上輸送が一週間途絶えれば「大名屋敷にいちじるしい圧迫を及ぼし、貧困な庶民階級は飢餓に苦しむ」と記し、海上輸送のストップが江戸を窮地に陥れることを見抜いていた。この指摘内容を理解していた幕閣は、ペリーの強攻策によって国書受け取りとなったのであった。

 ところで、このペリー艦隊に対する日本国内の反応はどうであったのであろうか。
 「太平の眠りをさます正喜撰(蒸気船)たった四杯で夜も寝られず」と、当時の落書にあり、「市中はあげて大混乱に陥った。処処方々に、子どもをかかえた母親や老母を背負った男たちが逃げまどい・・・軍馬のひづめの響き、武装したサムライのわめき声、ひしめき合う荷馬車の騒音、隊をなして走る火消し組、乱打される半鐘の音、女たちの金切り声に混じって、泣き叫ぶ子どもたち・・・」(ダルス著 辰巳訳「日米交渉秘史」読売新聞社)
と一般的に表現されている。
 
 ところが、「ペルリ提督日本遠征記」には次のように記されている。
 「測量船が下ろされ、湾の奥を測量する。入江があり、漕ぎ上る。そこへ外国人を見たいと住民が集まってきた。『人民の或る者はあらゆる身振り手真似で歓迎の意を表してボートに挨拶をし、ボートへ喜んで、水と、すばらしい梨を幾個か提供してくれた』。たがいに友情がわいて、『煙草を交換し合って喫んだ』。士官が短銃を見せ、『それを発射して、初めてそれを見た群衆を面白がらせ、日本人をいたく驚かせ喜ばせた』。帰還した水兵たちは、『日本人の親切な気質と国土の美しさに、有頂天になっていた』」とある。
 
 住民が差し出した「すばらしい梨」、梨は通常秋に収穫される。果たして遠征記に記されたように、梨が七月に収穫されていたのか、そのことを神奈川県の農業技術センターに問い合わせた結果、ペリー側の水兵がもらった梨は、江戸後期に栽培されていた「わせろく」で、六月下旬から収穫できた青い梨であるとの調査経緯を、「山岡鉄舟全国フォーラム」で井上教授が語ってくれた。
 
 さらに井上教授は加えて「幕末の民衆が、親切で社交的で快活な振る舞いをみせるのは、じつは珍しいことではない。一面化をおそれず言えば、その方が普通なのである。文明開化以前には『外人』などと恐れたりしなかった」と断言し、「ペルリ提督日本遠征記」の記述の事実関係の信憑性は高い、と伝えるのである。
 
 多くの文献が、ペリー来航によって日本人は「慌てふためいた」と表現しているが、事実は「ペルリ提督日本遠征記」に記されている姿が実態なのである。
 勿論、鉄太郎も慌てふためかず、ペリー来航に対して鉄太郎らしい行動をとったのである。

投稿者 Master : 2008年03月08日 08:20

コメント

黒船で文字通り日本はアメリカに染まってしまいました。

投稿者 グッチャー : 2008年03月09日 10:48

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