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2013年02月14日

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の二

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

鉄舟が侍従として仕えた明治天皇は、その45年間の在位期間を通じ、偉大な天皇であったことは誰もが否定できない事実であろう。

だが、明治天皇が偉大な治世者になられた背景には、当然のことながら素質に加え、様々な要件が重なっていて、その重要なポイントに鉄舟が関わっているのであるが、それに入る前に天皇について理解しておきたいことがある。

「明治天皇」とは、明治時代の天皇陛下であることは誰でも承知している。だが、「明治天皇」というお名前は、崩御された後の諡号(しごう)であり、同時にこれは元号でもある。

明治天皇の幼名は裕宮(さちのみや)で、お七夜の礼の後に父である孝明天皇によって授けられた。裕宮はのちに親王睦(むつ)仁(ひと)となって、明治天皇が治世期間中御名御璽(ぎょじ)する詔勅には睦仁として押印された。

なお、元号は一人の天皇治世の間に何度か変わるのが普通だったが、現在では一代治世間は同一元号となって、明治元号はその始まりであった。

ところで日本人は、天皇に対して「天皇」とのみ申し上げているのが常識観念であるが、外国では日本人と異なっていることを、まずは紹介したい。

「日本の天皇陛下の場合、明治天皇は睦仁、昭和天皇は裕(ひろ)仁(ひと)です。外国では『ヒロヒト』と呼びますが、日本では全然言いませんね。今の陛下は明仁(あきひと)ですが、日本では絶対に名前を使いません。英国ですと、クィーン・エリザベスといつも名前をつけるのですが、これは面白いです」(ヒュー・コータッツィ 司馬遼太郎対話選集4 文春文庫)

 この指摘通りで、今上天皇に対して日本人は「天皇」としか言わないが、外国では「アキヒト」と発音されているのである。第二次世界大戦をテーマにした外国映画で、昭和天皇を「ヒロヒト」と発言しているのを何回も見て、天皇に失礼ではないかと感じ、どうしてこのような言い方になるのか予てより疑問を持っていたが、考えてみれば米国のオバマ大統領や仏のサルコジ大統領に対しても、日頃は「オバマ」「サルコジ」と名前を言うのが通常であるから「ヒロヒト」発音は当然かもしれない。

 だが、日本人は天皇の名前を発音することはなく、多くの人は知らないのではないかと思う。日本人にとって今上天皇はお一人のみであるから、知らなくて別に問題はないわけであるが。

 天皇に関してもう一つヒュー・コータッツィが同書で指摘している。

「今、世界でエンペラーは日本だけですね。ほかに一人もいません。どうして天皇にエンペラーという言葉を与えたのでしょう。キングでもいい。エンペラーがキングより位が高いと考えたのでしょうか。しかしエンペラーは絶対適当ではないと思います。エンペラーはラテン語のエンペラート、『軍を率いる者』です。日本の天皇はそういうものではありません」

 この通りで、日本の天皇は英語ではEmperorと訳され、現在も続く王朝の中で、Emperorと表記されるのは世界でも日本の天皇だけである。

 どうしてエンペラーと称されるようになったのか。それは幕末時からであろう。親幕府であった仏のロッシュ公使が、徳川将軍に対してエンペラーと称し、外交文書にもエンペラーと書いていた。

明治維新になって日本国として天皇をどのように英語で称するか検討した際、国王・キングにするとエンペラーであった徳川将軍より下位に位置づけられることになってしまうので、天皇はエンペラーと称することにしたと思われると、司馬遼太郎が同書で語っているが、その通りであろうと思っている。

エンペラー・皇帝と国王・キングは、当然だが別呼称であり異なっている。西洋での皇帝の定義は、ナポレオンの時代以後、自称皇帝がでてくるが、本来ローマ帝国の後継国家の長をさし、基本的に皇帝は、神の代理人として、地上の統治権を与えられた者で、王の上位階級にあたる。ですから、皇帝は、王を任命する事ができるのである。

 中国の歴代皇帝は、各地に斉王とか呉王などの王を任命しているし、神聖ローマ帝国内にも、ブルグンド王国、ボヘミア王国などいくつかの王国があった。

いずれにしても日本の天皇はエンペラーと称され、世界で一人しかいないという現実実態となっている。改めて、日本国の特徴を垣間見た気がする。

さて、その睦仁の明治天皇について、前号でお伝えした江藤淳氏の「明治天皇だって、後に軍服をお召しになって、けいけいたる眼光を光らせておられる写真をみれば、どっちかというとプロシャ的な君主の感じがしますけれども、践祚されたころはおはぐろをつけて薄化粧しておられたんです」に対して、読者から「おはぐろをつけて薄化粧していたということは、体が小さいよわよわしい少年だったのか。後年の写真のイメージとは随分異なる」という問い合わせを頂きました。

 この質問は的確な疑問でありますので、まず、これについて検討してみたい。

素直に考えてみて明治天皇が「禁裏の外の世界について何も知らない女官たちの手で育てられ、武器を手にするどころか古式ゆかしい上品な公家の遊びにもっぱらふけっていた一人の皇子が、それも多くは一度も戦闘に参加したことのない歴代天皇の末裔である皇子が、どういうわけで何よりも軍人として、しかも軍服を脱いだ姿ではめったにお目にかかれないような人物として記憶されるようになったのか」(「明治天皇」ドナルド・キーン著)という指摘はその通りである。

 人の一生において成された業績に影響を与える要因は何か。それには前提要件と必要要件があるだろう。前提要件とは個人の素質と、その素質が発揮される環境の二要因である。

必要要件とは幼少時代から少年、成人する過程で受ける教育要因である。その人に合致した適切な教育が成されれば、多くの人は素質を開花させ、所属する組織体で業績を示せるであろう。

 明治天皇の場合も同様で、生まれ持った素質と、宮中の環境が影響しているはずで、西郷隆盛が断行した宮廷改革がなければ、ということは明治維新改革がなければ、明治天皇の優れた英邁な素質は発揮されなかったと思うが、宮廷改革については後述するとして、まず、素質について分析してみたい。

明治天皇の素質について、死後、天皇を知る宮中に関係した人達によって書かれたものを見ると相矛盾するものが多い。

 ある人の回想によれば「明治天皇は幼少時代にきわめて健康で活発な少年であり、いじめっこの風貌さえあり、相撲も一番強かった」という。

 ところが別の人物の回想によれば「幼少時代の天皇が虚弱で病気がちの少年であった」と述べている。さらに、蛤御門の変で初めて大砲の音を聞いて気を失ったという話が語られる一方、山岡荘八は「明治天皇」(講談社)で次のように記述している。

 「砲弾は交交御所内に落下して、親王の御座所も危なくなった。
そこで前関白の近衛忠煕は、親王を奉じて鴨の河原へ難を避けた。
恐らく老近衛は、砲弾におびえて、気もそぞろの親王を想像していたに違いない。
『―――大丈夫でございます。何もおそろしいことはございませぬ』
傍にあって鬨の声に耳を傾げておわす親王をはげました。
と、親王は、
『―――爺、戦とは勇ましいものよのう』
はじめて連れ出された河原の広さに眼を瞠(みは)っておわしたが、やがて武者震いして老近衛に言った。
  『―――爺よ! 匍えや。乗ってこの河を渡って見ようぞ』
 老近衛はついに十二歳の宮を背にして、十間ばかりの川を渡渉させられたと眼を細めて主上にこれを報告した。
 『―――宮はおそれ給うどころか、次第に勇んで来られました。麿の背にあって、ハイドウハイドウと声をかけさせられ・・・まことに豪宕(ごうとう)(注 豪放)、恐れなどは知らぬご気性にございます』」

山岡荘八の「明治天皇」は伝記小説であるから、強いてたくましい男児イメージに仕立て上げているという感じを持つかもしれないので、睦仁親王と一緒に育った乳母の子である木村禎之祐の記述を紹介したい。(「明治天皇の御幼児」太陽臨時増刊 大正元年刊)

「聖上には御勝気に在(ましま)*丈(だ)けいと性急に在(おわ)され、少しく御気に叶はぬことの出来れば、直ちに小さき御拳を固められ、誰にでも打ち給ふが例にて、自分など此御拳を幾何(いくら)頂きたるか数知れず。何分自分は一歳年下のこと故、恐れ多しといふ観念は更になき上に、固(もと)より考への足らぬ勝ちなるより、常(つねづね)に御気に逆らい奉りたること少なからず、其度(そのたび)毎(ごと)*にぽかんぽかんと打たせ給ひたり。」

この木村禎之祐の記述は、明治天皇の親しい遊び相手として仕えた人物であり、自分がげんこつで何度も殴られたという回想であって、このような回想が嘘とは思えず、さらに、明治天皇は父の孝明天皇に似て長身であったことからも、体格には恵まれていたと推察できるので、幼少時代はきわめて健康で活発な少年であるというのが妥当な理解であろう。

人の素質を見抜くためには、その人物が書き残したものを分析するのも有効な方法である。例えば、孝明天皇は多くの書簡を残していて、世の中の動きに敏感だった孝明天皇の激しい怒りに満ちた心情と考え方が理解でき、攘夷に対する姿勢が一貫していることがわかる。

ところが、明治天皇は日記をつけず、手紙も書かないに等しかったので、この文筆から検討することは難しい。さらに、明治天皇の宸筆もほとんど残っていなく、天皇の声がどのようなものであったのかも、明確には分からない。天皇を知る人達の話では、その声が大きいものであったことは分かっても、その声の質までは分からない。

天皇の写真もほとんどなく、公表されたのはせいぜい三、四枚ではないかと思われる。江藤淳氏の言う「明治天皇だって、後に軍服をお召しになって、けいけいたる眼光を光らせておられる写真」は、これは当時広く全国の学校に配布された「御真影」であり、この写真の前で幾世代もの子供たちが最敬礼したのであるが、実はこの写真は明治天皇の実物写真ではなかった。それは肖像画を写真に撮ったものであって、肖像画があまりにも真に迫っていたので、すべての人々は、それを写真と信じたのである。

明治二十一年(1888)、明治天皇三十六歳となられた際、宮内大臣土方久元は外国皇族、貴賓に贈与するために、新しい最近の肖像写真が必要と判断し、印刷局雇のイタリア人画家エドアルド・キョッソーネに、天皇に相応しい肖像画を作成依頼した。

何故なら、伊藤博文が宮内大臣時代、何度も肖像写真の撮影を奏請したが、その都度写真嫌いの天皇に断られていたので、土方はキョッソーネに密に天皇の顔を写生させることにし、一月十四日の弥生社行幸で御陪食のときに、キョッソーネは襖の陰に隠れ、正面の位置から竜顔を仰ぎ、その姿勢、談笑の表情に到るまで細心の注意を払って写生した。

このようにしてキョッソーネが描いた肖像画を気に入った土方は、それを丸木利陽に写真撮影させ、天皇に奉呈するにあたり、事前に許可を得なかったことをお詫びしたが、天皇はこの写真を見て、無言のまま良いとも悪いとも言わなかった。

このときちょうど、某国皇族から天皇の写真贈与の請願があり、土方は天皇にキョッソーネが描いた肖像画写真に署名を求めた。天皇は写真に親署した。これをもって天皇が気に入ったと判断し、それ以後はこの肖像画写真が使われるようになった。(参考 ドナルド・キーン著『明治天皇』新潮社)

唯一残された明治天皇を知る手掛かりは、御製を読む下すことである。明治天皇はその生涯に十万首に及ぶ短歌(和歌)を詠んでいる。実は、和歌の指導は父の孝明天皇が直接に熱心に幼少時代から取り組んでいた。その様子を山岡荘八の「明治天皇」が次のように語り、和歌を通じて人間形成に寄与し、天皇学を授かったと述べている。

「親王が育つにつれて、側近の誰彼の眼にも豪放勇武なご気性と見えてゆくことが、父の帝にずっと和歌のご指導を続けさせる原因になっていたと思う。

和歌は実は、大和民族の伝統の詩形であるというだけではなくて、神話の昔から人間形成の必須条件として伝承されているからだ。

したがって和歌というのは日本の歌という意味だけでではない。
人間に内在する荒(あら)魂(みたま)、和魂(にぎみたま)の、その和魂を言霊(ことだま)の調和によって表現しながら、和の世界にすすもうとする一つの修練なのだ。

言葉の調和を考えられる人間が武に偏する筈がない。人はつねに勇ましい反面に、ものの哀れを味わう和心がなければならない。

それがあってはじめてよい和歌がつくられ、人間のうちなる和魂は育っていく。
和魂のあるところに、にぎやかな庶民の繁栄と発展があると悟った大和民族独特の優雅な伝統なのだ。

父の帝が睦仁親王の和歌の指導だけは、おんみずからなされたのも、決してこの事と無縁でない。
或いはこれこそ明治大帝が、父の帝から直接授けられた最も大切な『天皇学――』の一つであったのかも知れない。

大帝もまたそれを敏(さと)くご感受なされておわしたゆえ、東京遷都の年から『御歌始めの儀』を再興なされて、その伝統は今日に及んでいる。いや、それ以上に、大帝の御生涯に詠じられた御製の総数が、あのご繁忙なご政務の座にあって十万首にも及んでいるという超人的な事実が、何よりもこれを雄弁に語り残している。

おそらく大帝は、その一首一首を詠じられるたびごとに、父の帝を想い、訓えを想うてご反省なされたのではなかろうか・・・。

とにかく明治大帝とそのご生涯の御製と、父の帝のご影響とは切りはなして考えることの出来ない密接な関係をもっている」

 和歌はご承知の通り五七五七七の韻文で、古くは倭歌とも表記され、 漢詩に対する呼称で、やまとうた、あるいは単にうたとも言い、倭詩(わし)ともいった。専門家からは、明治天皇の和歌は「天皇調」といわれ、さらりとして、すこしの滞りもなく、このような歌なら、誰でも作れそうに一応は思えるのだが、さて実践してみると、われわれが逆立ちしてもこうした格調は生まれてこないことがわかるという。

また、苦心のあとが微塵もないのに、その調べは比類なくて、洋々として広く打ちひらけて、国民の誰にでもよくわかるけれども、そのおおらかな歌境はわれらが骨身をけずるように苦心して詠んでみても遠く及ばなく、明治天皇でなくてはそこへ到り着くことができないかと讃嘆せずにはいられないという。

その一つを紹介してみたい。次の御製は「道」と題したもので、明治三十九年の御作である。

   ひろくなり 狭くなりつつ 神代より たえせぬものは 敷島の道

 「道」は広くてそこを通る人が多いときも、また、仏教や儒教に道をけずられて狭くなり、そこを通る人が少なくなることもあったが、神々の御代から一貫して断絶しないもの、これぞ「敷島の道」であると詠んでおられる。さらに、明治天皇は和歌のことを「敷島の道」と申されていたという。「敷島」という言葉の起こりは、欽明天皇が大和の磯城嶋に皇居をさだめられた時だそうである。そこから「しきしまのやまとの国」という言葉が生れ、万葉集では「しきしまの」が「やまと」の枕言葉として何度も出てくる。

はじめは「やまと」という地方の名だったが、やがて日本のくにのことになると同時に、「しきしまの」も日本の枕言葉になっている。

ここまで明治天皇の前提要件としての個人素質と、必要要件である教育要因として孝明天皇自らの和歌指導についてみてきた。

残された内容は前提要件としての環境要因であり、それは西郷隆盛が断行した宮廷改革であるが、紙数の関係で次月としたい。

また、必要要件としての孝明天皇の和歌指導以外の教育要因で、ここに鉄舟が重要な位置づけを占めているのであるが、これも次号以降で述べたい。

なお改めて、ここで再確認しておきたいことがある。

それは明治維新改革によって徳川幕府が倒れたものの、封建制度という社会体制の変革は成されていないということである。

徳川将軍に代わる王政復古が明治維新であって、藩主たちは藩知事として依然として残っていた。つまり、各地方に歴代の封建制度を象徴する為政者がいたわけで、封建制度は撤廃されていなかったのである。

この封建制度撤廃に結びつけたのは廃藩置県という一大改革であり、この宮廷版が西郷による宮廷改革であった。

投稿者 Master : 2013年02月14日 13:43

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