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2011年07月20日

彰義隊壊滅・・・その一

山岡鉄舟 彰義隊壊滅・・・その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

鉄舟が上野の山に行き、彰義隊解散交渉をした相手は、上野輪王寺宮の公現法親王の陪僧・覚王院であったが、覚王院の強い信念である対官軍主戦論により、和平路線には全く聞く耳を傾けず、何回もの交渉が無駄骨に終わった。

その覚王院との交渉経過について、鉄舟は明治16年3月「覚王院上人と論議之記」で詳細に述べている。この内容は省略するが、さすがの鉄舟も苦しい胸の内を、その中で次のように述べている。

「予は屡々(しばしば)西郷海江田両参謀に面接して情実を縲述(るいじゅつ)し覚王院に論示する事、口酸を覚ふに至りて未だ寸効を見ず。且つ彰義隊の予に遇ふ、或は無状(むじょう)(無礼)を以てす。隊長等に談ずれば面前に首肯して退けば否(しか)らず」
 
当時の鉄舟は「大目付」であり、その立場から覚王院に口をすっぱくするほど説得したが頷かず、返って彰義隊士は鉄舟に無礼な振る舞いを見せるし、隊長たちもその時は承知と言うが別れると知らん顔をする、という困難な状況を披瀝している。

 では一体、この覚王院という人物はどういう立場で彰義隊に位置づけられていたか。それを司馬遼太郎は大村益次郎を描いた「花(か)神(しん)」の中で
「彰義隊の理論的指導者である覚王院義観は、説得に来た山岡を逆に罵倒した」
と書いている。理論的指導者だというのである。

 一般的に僧侶が理論的指導者となる場合、陥りやすいのは名分論である。僧侶は元々漢学中心に学ぶ。そうすると道徳上、身分に伴って必ず守るべき本分論に強くなり、そこから理論武装し主張する傾向が強くなる。覚王院は特にこの傾向が強かった。

続けて「花神」で覚王院に次のように述べさせている。
「『いまの朝廷はみとめない』と、いった。あれ(朝廷)は薩長にまどわされたもので朝廷ではない、という。さらに、わがほうにも錦(きん)旗(き)が日光におさめられており、輪王寺宮という法親王もいる。むしろ当方が朝廷である、と覚王院の議論はすさまじい。

覚王院はたしかに、「上野朝廷」であると信じていた。山岡が後年覚王院がいった内容を手記(覚王院上人と論議之記)したが、それによると、この僧は一種の伝説的なことをとうとうと述べている。『神君が』と、覚王院はさかんに家康をもち出し、家康がすでにこんにちあることを予想して、そのときのために錦旗を用意し、宮さまをひとり関東に置き、『朝廷が無茶をやれば、輪王寺宮をもって天皇に代え、万民を安んじようとされた』というのである。つまりは上野の彰義隊こそ官軍である、ということになる」

その上、覚王院の口ぐせは「かならず勝つ」というものであったが、その根拠は「江戸を死守していれば、必ず奥羽列藩同盟が大挙来襲して江戸を回復する」と説き続け、情勢にうとい旗本の子弟で固まった彰義隊士を鼓舞したのである。

彰義隊士は、この覚王院の口ぐせに加え、一般的に流されていたマスコミ情報によって奥羽列藩同盟来襲を信じていたのは事実であった。これが五月十五日の壊滅に大きく関わってくるのである。

ところで、現代に生きる者にとっては全く信じられないが、当時の江戸におけるマスコミ情報はすべて佐幕・反薩長であって、旧幕府から脱走した兵が、各地で連戦連勝している記事で占められていた。

これも「花神」に書かれているのであるが「宇都宮大合戦」という記事が「内外新報」の閏四月三日に以下のように掲載された。

「脱走方が城へのりこみ、幕軍のシンボルだった日の丸の旗に東照神君の旗数十本を押したて『はなばなしく合戦致し候。脱走方勝利』とあり、関宿での戦闘も脱走方の勝利で『その人数幾万人これあり候や』と、その勢力が日に日に大きくなっていることを告げている」

 さらに閏四月二十九日の「此花新書」という新聞では、

「下谷坂本あたりを官軍の武士が錦切れをつけて通りかかると、町角で遊んでいた幼童が『おじさんは、錦切れをつけておいでだから官軍かえ』ときくと、武士はそうだと答えた。幼童はこの武士と遊ぼうと思い『おじさんが官軍なら、坊は会津だから、坊におしたがい』といった」
 と報道されている。

 このようなマスコミ情報の背景には、官軍が軍事的に弱くモラルも悪く、会津という言葉で代表される旧幕府方に正義があり、さらに軍事的にも強大だと信じていたことからの記事掲載であり、加えて博学で金主である覚王院が「かならず勝つ」と言いつづけていたのであるから、江戸っ子気質の人のよい彰義隊士は信じ、結果的に誤った情報に固まった集団になっていた。

今の東京は地方から雑多人種が集まっているから、純粋の江戸っ子という人たちは目立たないが、江戸時代は人の移動が少なかったので、江戸の町には江戸っ子気質が溢れ鮮明だった。

その江戸人の気質は、一般的に、気が弱く、根気がなく、見栄坊で、いささかニヒルというのが定説である。礼儀正しく、粋でおしゃれなところ、向こう意気の強さ、これらは見栄を張るところから来ているのであるが、上は旗本から、下は裏長屋の住人まで、江戸っ子には共通するところがあった。いわば騙されやすい気質が江戸っ子にあったと思う。

もう一つ大きな重要で本質的な問題は、当時の日本政治が江戸で行われていなかった、ということである。

徳川将軍十四代将軍家茂が、文久二年(千八百六十二)に孝明天皇の妹和宮を正室に迎え、翌年の文久三年(千八百六十三)三月上洛したあたりから、幕末の複雑な政治の舞台は京大阪になっており、家茂が第二次長州戦争の敗報を聞きながら、慶応二年(千八百六十六)に大坂城で没し、慶喜が十五代将軍に継いだのも江戸ではなかった。

つまり、慶喜が鳥羽伏見の戦いで敗れ逃げ帰るまで、幕末の江戸城には将軍が留守であったのであるから、江戸は政治の表舞台ではなかった。結果として、時代の先端情報は京大阪から、時間軸に遅れて来る情報によって、江戸在住の武士と市民は理解するしかなかった。

これが江戸に住む人々を情報音痴の状態にさせた決定的な要因であり、旧幕府方有利という偽情報を報じるマスコミ情報を受け入れる結果となったのである。

この彰義隊が本質的に持っていた情報に対する問題点、これは現代でも通じる教訓であろう。現地、現場、現実を確認せず、一般マスコミ情報のみから物事を判断し、行動することの怖さを教えてくれる。

さて、軍防事務局判事として江戸に入った長州藩の大村益次郎は、鉄舟による覚王院説得が失敗したことの報告受けるや、彰義隊を壊滅すべく攻撃することを決めたが、ここで困ったことはその軍資金がないことだった。

大村益次郎という人物は、長州藩の村医者の息子であって、緒方洪庵の適塾で洋学を学び、塾頭を務め、シーボルトにも師事、幕府の蕃書調所教授、講武所教授方を務めた経歴から推測できるように現実派である。冷静に物事を判断する能力に長けていた。

その有能さを買われて、大村は「徴士」となったのである。この当時、新政府が京に出来たが、有能な役人が不足したので諸藩から差し出されたのが「徴士」である。

その冷静な頭脳で計算すると、彰義隊を壊滅すべく攻撃することになると五十万両という巨額の資金が必要になる。

ところが、新政府にはこの金がなかった。それもあって彰義隊への攻撃決定は延ばしていたが、その時、何と二十五万両もの大金が飛び込んできた。カモネギが来たのである。

それは大隈八太郎(後の重信)である。大隈も「徴士」で外国事務局判事であって、幕府が米国に発注し横浜港に停泊しているストーン・ウォール(甲鉄船)が、幕府転覆で内乱になって、米国公使が「双方に渡さない。かたがついてから引き渡す」と言っていたが、どうしても榎本武揚が率いる幕府艦隊に対抗するためには入手する必要があり、その交渉を兼ねて、京で有り金をかき集め二十五万両をつくり、江戸に着いたのであったが、この大隈から大村は二十五万両を取り上げてしまうのである。

残りの二十五万両は、江戸城の西の丸に入り込み、宝蔵にあった銀器、屏風などを持ち出し、横浜の西洋人に売り払い五万両、後の二十万両は越前藩より新政府の御用金取次(会計係)に出仕していた三岡八郎(後の由利公正)に手当てさせ、それが届いたので、合計五十万両が揃ったのである。

こうして最大の課題であった戦費ができ、ようやく大村は彰義隊への攻撃計画に取りかかった。

大村が同時代の人々より優れていたのは、その計画性である。目的達成に必要な調査と、それに基づく準備を徹底し、彰義隊壊滅のための計画を独りで作り上げた。

計画の第一は、情報の共有化と一元化であって、戦況ニュースというべき戦陣新聞「江城日記」を毎日発行しだした。記事は大村自ら書き、木版の彫師を江戸城内に留め置き、刷らせ、部数は千部、これを前線の兵士と諸藩に配った。ここのところが彰義隊の情報管理と雲泥の差である。

さらに、大村は「いっさい火事を出さない」という計画をつくるため、江戸の過去の大火について調べ抜いた。幕府の蕃書調所教授、講武所教授方を務めたことから、江戸には土地勘があり、毎夜、畳の上に江戸地図を広げ、風向きによってどこが焼けるか、どのように逃げるかについて検討した。

これは海舟が、官軍が江戸攻撃するならば、ロシア軍がモスクワに火を放ってナポレオン一世の野望をくじいたと同じく、官軍進撃の退路を火で断つ作戦を用意していたように、彰義隊にも知恵者がいて、上野攻撃と共に背後から火攻めを行うだろうとの推測から、その防止策を考えるためであった。

特に研究したのは「明暦の大火」であった。俗に振袖火事といわれるもので、明暦三年(千六百五十七)の正月十八日午後二時ごろ本郷丸山の本妙寺からおこった火事で、本郷丸山は上野から遠くないので参考になり、江戸の大半が焼け、焼死者十余万人を出したもので、この火事の広がり経路を地図に描き、検討した。

しかし、この検討結果は、明暦の大火は正月であり、その時は八十日も雨が降らず江戸中が乾いていたので、大火がおこったことを知り、彰義隊攻撃は五月半ば、今の季節では梅雨時に当るので、その心配はかなり薄いと考えたが、用意周到な大村は計画を練り上げていた。

次に大村が実行したのは地図である。地図の印刷を行った。上野周辺の道路図で、大村自らこれも描き、江戸城内の職人に刷らせ、配布した。

もう一つの周到な準備はアームストロング砲の配備である。このアームストロング砲は佐賀藩が所有していた。この当時の佐賀藩は諸藩に卓越して産業技術能力を持っていた。蒸気船も造れるし、工作工場、化学工場もあり、長崎警備という経験から新旧の要塞砲をもっており、中でも驚くべきはアームストロング砲を二門持っていたことである。

後装式砲(後ろから弾を込める)ライフル砲を改良したもので、伝説的に語り草になっている砲だが、これを佐賀藩が製造したのか、それとも製造はしたが実際のアームストロング砲と同等のものだったか、又は英国製であるのかについては議論が分かれている。

だが、アームストロング砲という名称の砲が佐賀江戸藩邸にあり、藩公の鍋島閑叟の意向は「この砲の威力は猛烈であり、同民族を殺傷するために使いたくない」というもので封印されていたが、大村は建物の破壊にのみに使う、という条件で佐賀藩邸から持ち出し、不忍池をへだてた加賀藩邸に配置した。

これで彰義隊攻撃の準備は整ったので、最後の仕掛けを講じた。開戦日の五日前に「太政官布告」を制札場に掲げた。

「来たる某日までの間に上野山内の賊徒を追討すべくおおせ出(いだ)さる。ついては焼打などに備えるため、家財など取り片づけおくべきこと」という布告であり、これは当然に彰義隊に伝わり、上野の山から出張っていた彰義隊の陣地、湯島や上野広小路であるが、そこに畳を積み上げ堡塁を造りだした。

しかし、来るか来るかと昼夜待機し、警戒していた彰義隊士は、官軍が動かないのを見ると、警戒を解き始め、いつしか上野の山に引き上げてしまった。

これは大村の作戦であった。彰義隊士を上野の山に集めさせる、攻撃の範囲を絞らせる、戦場を限定させる、ということを狙ったものであり、まんまと大村の策に嵌り彰義隊士は上野の山に籠ってしまったのである。

これを見た大村は「明日未明攻撃」という指示を、諸藩の指揮官に通告したのが五月十四日の午後であった。

いよいよ上野戦争が始まる。

投稿者 Master : 2011年07月20日 06:51

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