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2012年02月18日

「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の三

山岡鉄舟研究「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の三
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

 福沢諭吉は「痩せ我慢の説」で勝海舟と榎本武揚を批判した。海舟への批判については、前号で分析したので、今号は榎本武揚について検討したい。

福沢と榎本は遠い親せき筋にあたる。その縁は福沢の妻「お錦」の関係からである。
 文久元年(1861)、福沢は中津藩士・土岐太郎八の次女「お金」と結婚した。お金は以前は「おかん」という名であったが気に入らず、両親に頼んで「お金」に変えたが、今度は字がしっくりこず、福沢との結婚後は「お錦(きん)」*と書くようになった。 このお錦の実家である土岐家と、榎本の母の実家である林家は遠い縁戚筋であった。

明治二年(1869)五月、五稜郭の戦いで榎本は降伏し、戊辰戦争が終ったが、この当時、榎本の母は息子の消息が分からず、必死で尋ね歩いていた。

ここで榎本が、函館五稜郭で降伏するまでの経緯を簡単に振り返ってみたい。明治元年(1868)榎本武揚は、徳川慶喜を水戸から清水港に護衛搬送したが、その翌月の八月、新政府軍(官軍)に引き渡すことになっていた幕府軍艦八隻をもって、陸奥に向かって脱走した。これは、榎本が徳川家の成行き、慶喜の駿府への移転を見届けてから脱走を図ったものであるが、この艦隊に咸臨丸が含まれており、この咸臨丸が座礁、台風に翻弄され清水港まで漂流し、辿り着き、乗組員が官軍に殺傷されこと、それが前号で紹介した清水の清見寺にある『咸臨丸殉難諸氏記念碑』と碑文〈食人之食者死人之事〉につながっていて、ここを訪れた福沢が碑文を読んで、怒り心頭に達し、「痩せ我慢の説」を書くキッカケとなったのである。

さて、八月に陸奥に向かった榎本艦隊は、途中台風にて一部艦船を失ったが、ようやく仙台に入った。だが、奥羽越列藩同盟の敗退により、十月には旧幕府軍と奥羽諸藩脱走兵らを乗せ、反新政府軍団として蝦夷地に向かい、函館を占領、五稜郭を拠点としたのである。

榎本は、函館占領後すぐ、函館在住の各国領事や横浜から派遣されてきた英仏海軍士官らと交渉し、この軍団が榎本を総裁とする「交戦団体」(国家に準じる統治主体)であることを認めさせ、各国に明治政府との間の戦争には局外中立を約束させた。

これは榎本の持つ国際法を活かした外交交渉の成果であるが、これに見られるように、榎本の外交国際感覚は、後に、ロシアとの国境交渉に特命全権大使として臨み、樺太・千島交換条約の調印を成し遂げたように、当時から優れた国際感覚を身につけていた。

この函館五稜郭を拠点とする「交戦団体」に対し、翌明治二年五月、新政府軍が総攻撃を行い、土方歳三が戦死、十八日に至って「交戦団体」の首脳である四名、総裁の榎本、副総裁の松平太郎、陸軍奉行の大鳥圭介、海軍奉行の荒井郁之助が、新政府軍の陣営に赴いて降伏を告げ、生きのびた将兵の赦免を請うたのである。

降伏後、榎本は政権首脳とともに、辰之口牢獄(現・パレスホテルあたり)に収監されたが、この経過を知らない静岡在住の榎本の母は、息子の消息を知ろうと何度も東京の親戚に手紙を出して、必死の捜索をしていた。しかし、多くの親戚は、みな自分に危険が及ぶ可能性があると思い、梨の礫であった。

その状況がお錦を通じて福沢に伝わって、福沢は母に同情し、榎本は辰之口牢獄に入っており、生命は無事であることを母に伝えたのである。

すると母と姉が福沢を頼って上京してきて、福沢の屋敷に泊まり、牢屋にいる息子に弁当や必要と思われるものを差し入れし、面会したいとすがる親心に、福沢は「この母を身代わりにして殺してくれ」というような鬼気迫る「哀願書」を下書きしてあげ、新政府に願いださせた。

この「哀願書」が牢役人の心を動かしたのか、何とか母子の面会が許され、次の目標は赦免に向かった。

そこで福沢は、文久元年十二月に遣欧使節竹内下野守に従い、翻訳方として渡欧した際に同行し、その後も密接な関係にあった松木弘安、明治になって外交官として活躍した後の寺島宗則であるが、この寺島から薩摩出身の官軍参謀長である黒田清隆を紹介受け面会したのである。

その黒田に向かって、福沢は榎本のために熱弁をふるった。

「榎本は新政府に対し反乱した人物であるが、命だけはとらぬようにした方が国家のために得である。この写真を参考までに差し上げるので、じっくりご検討お願いしたい」というようなことを述べ、アメリカの南北戦争で勇名を馳せた南軍のロバート・リー将軍の写真を渡した。

南北戦争もアメリカ国内の戦い、いわば戊辰戦争と同じ国内戦争、南軍が敗退したがリー将軍は助命されている。遺恨をのこさないよう、敗者への対応は寛大にすべきだという趣旨で黒田を諭したのである。

この黒田への福沢の説得が功を奏し、榎本は赦免されることになった。榎本は福沢に感謝し尽くしても、し尽くせないと思われたが、しかし、ここで意外な結果を生むことになる。それを北康利著「福沢諭吉 国を支えて国を頼らず」(講談社)から引用しよう。

「釈放される少し前、榎本は恩知らずな手紙を姉・観月院に出しているのだ。

〈お借りした本は福沢程度の学者が翻訳したものですから、私がわざわざ読むほどのものではありません。それにしても、彼が無遠慮にいろいろ言っているのが耳に届いてきて、高慢ちきだと一同大笑いいたしました。(中略)もうちょっと学問のある人物かと思っておりましたが、案外だとため息をつき、これくらいの見識の学者でも百人余の弟子がいるとは、わが国もまだまだ開化が進んでいないと思い知るべきでしょう〉

そこには信じがたい忘恩の言葉が並んでいた。諭吉のような身分の低い者が自分を助けてくれるなどとは片腹痛いということだったのかもしれないが、それにしても謙虚さや感謝の心のかけらもない」
このような過去の伏線経緯もあって、清見寺の碑文を見た瞬間、福沢は怒ったのである。

では、福沢はどのような批判を「痩我慢の説」で展開したのであろうか。その要点と思われるところを拾ってみる。(『日本の名著╱33福沢諭吉・痩せ我慢の説』中央公論社)

≪勝氏と同時に榎本武揚なる人あり。これまたついでながら一言せざるを得ず。この人は幕府の末年に勝氏と意見を異にし、あくまでも徳川の政府を維持せんとして力を尽くし、政府の軍艦数艘を率いて函館に脱走し、西軍に抗して奮戦したけれど、ついに窮して降参したる者なり。このときに当たり、徳川政府は伏見の一敗また戦うの意なく、ひたすら哀を乞うのみにして、人心すでに瓦解し、その勝算なきはもとより明白なるところなれども、榎本氏の挙はいわゆる武士の意気地すなわち痩我慢にして、その方寸の中にはひそかに必敗を期しながらも、武士道のためにあえて一戦を試みたことなれば、幕臣また諸藩士の佐幕党は氏を総督としてこれに随従し、すべてその命令に従って進退をともにし、北海の水戦、函館の籠城、その決死苦戦の忠勇はあっぱれの振舞いにして、日本(やまと)魂(たましい)の風教上より論じて、これを勝氏の始末に比すれば年を同じゅうして語るべからず。

しかるに脱走の兵、常に利あらずして勢いようやく迫り、また如何ともすべからざるに至りて、総督をはじめ一部分の人々はもはやこれまでなりと覚悟を改めて敵の軍門に降り、捕われて東京に護送せられたるこそ運のつたなきものなれども、成敗は兵家の常にしてもとより咎(とが)むべきにあらず。新政府においてもその罪をに悪(にく)んでその人を悪まず、死一等を減じてこれを放免したるは、文明の寛典と言うべし。氏の挙動も政府の処分もともに天下の一美談にして間然すべからずといえども、氏が放免ののちさらに青雲の志を起こし、新政府の朝に立つの一段に至りては、わが輩の感服すること能(あた)わざるところのものなり≫

≪氏は新政府に出身してただに口を湖するのみならず、累遷立身して特派公使に任じられ、またついに大臣にまで昇進し、青雲の志、達し得てめでたしといえども、顧みて往時を回想するときは情に堪えざるものなきを得ず。当時決死の士を糾合して北海の一隅に苦戦を戦い、北風競わずしてついに降参したるは是非なき次第なれども、脱走の諸士は最初より氏を首領としてこれを*恃(たの)み、氏のために苦戦し、氏のために戦死したるに、首領にして降参とあれば、たとい同意の者あるも、不同意の者はあたかも見捨てられたる姿にして、その落胆失望は言うまでもなく、ましてすでに戦死したる者においてをや。死者もし霊あらば必ず地下に大不平を鳴らすことならん≫

≪古来の習慣に従えば、およそこの種の人は遁世出家して死者の菩提を弔うの例あれども、今の世の風潮にて出家落飾も不似合いとならば、ただその身を社会の暗所に隠して、その生活を質素にし、いっさい万事控え目にして、世間の耳目に触れざるの覚悟こそ本意なれ≫

≪これわが輩が榎本氏の出処につき所望の一点にして、ひとり氏の一身のためのみにあらず、国家百年の謀(はかりごと)において士風消長のために軽軽看過すべからざるところのものなり≫

この「痩我慢の説」による榎本への批判についても、筋が通っており成程と思う。
しかし、いくつかの疑問が残る。その第一は福沢がアメリカ南軍のリー将軍の例を持ち出し、
助けるよう黒田清隆を諭した事実の意図である。

当時の新政府は人材不足であった。それまでは徳川幕府の長い政治体制下で、薩摩・長州藩等は幕府政治に深く関与していなかったので、実際に日本国政治を担当するようになって、様々な問題対応能力において大きな齟齬をきたしていたので、優れた人材は喉から出るほど欲しかった。

特に欧米滞在経験のある人材は、諸外国との外交問題、国内体制の近代化に必要不可欠であり、その代表的人物として渋沢栄一を2011年11月号で挙げた。渋沢は、慶喜の弟である昭武がフランス・パリ万国博覧会に将軍の名代として出席する際に随員として渡仏し、ヨーロッパ各国で先進的な産業・軍備を実見した。当時としては稀有の体験を持った人物であり、新政府に抜擢され、その後の活躍によって「日本資本主義の父」といわれ、多種多様な企業の設立・経営に関わった大物財界人となった。

これに対し、榎本はジョン万次郎に英語を学び、十九歳で蝦夷地に赴き樺太探検にも従事し、長崎海軍伝習所での蘭学による西洋の学問や航海術・舎密学(化学)などを学び、その基礎的な学力をもって文久二年の27歳から、慶応三年(1867)32歳までオランダに留学し、ハーグで蒸気機関学、軍艦運用の諸術として船具・砲術と、機械学・理学・化学・人身窮理学を学んだ。

続いて、デンマーク対プロシャ・オーストリア戦争が勃発すると、観戦武官として進撃するプロシャ・オーストリア連合軍と行動を共にし、ヨーロッパの近代陸上戦を実際に目撃した最初の日本人となった。その後も国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学び、幕府が発注した軍艦「開陽丸」で帰国したように、当時の近代化先端国である欧州の国々について全体像を体系的に学び経験してきた人物であって、榎本に比肩する人物は当時の日本では存在していなかった。

さらに、辰之口牢獄では牢名主となって、本の差し入れも許されるし、書きものもできたので、家族に手紙を出し、家族を通じて外国の技術書・科学書を数多く差し入れてもらい、片っ端から読破、外国新聞も読んでいた。

兄の勇之助宛への手紙で、様々な日用品の製造方法、石鹸・油・ロウソク・焼酎・白墨といったものを教え、その製造のための会社を起こすことを勧めている。加えて、鶏卵の孵化機の製法、養蚕法、硫酸や藍の製法といったものにまで言及し、一部はその製造模型まで、獄中で造ったのである。

この榎本の獄中での態度、一般的に考えてかなり違和感が残る。戦争で敗者となった側のトップであるから、戦争犯罪人として極刑を予測し、その日に備えての心を安らかにするために精神統一など、いざという時に見苦しい死に方をしないために備えるというのが、日本人の通常ではないか。先の大戦での日本政府指導責任者の多くは、このような精神的世界に向かい、従容として死に向かったと聞いている。武士道精神による達観した最後であったと思う。

榎本の場合は、これらとは全く異なる。当時、大村益次郎などは強く厳刑を主張していたように、極刑が下されるのではないかという憂慮される環境下で、榎本の関心事は精神世界に向かうのでなく、技術者といえる分野に関心が向かい、具体的な提案まで行っているのである。戦争を指導した人物とは思えない。

五稜郭での戦いなぞすっかり忘れ去り、関心は日本の近代化というところに向かって、そのために欧米で得て持ち帰った自らの知識と体験を、獄中でありながら明治という時代が必要であろうと思うことを提案し、それも多方面分野に渡っていることから考えると、榎本は「万能型」人間ではないと推測できる。

確かにその通りで、その後の活躍を見ると、東京農業大学の設立、電気学会・工業化学会等の会長歴任、各国との外交交渉、晩年にあらわした地質学の論文等から考え、「万能型」テクノクラートであった。

さらに加えて分析してみると、辰之口牢獄での行動から判断されるのは、この人物は何か一般人とは別次元基準で生きているということである。

実は、福沢はこの榎本の実体、何か通常の日本人とは異なる次元、知識の幅と深みを併せ持つ「万能型」テクノクラートであることを、事前に理解していたからこそ、榎本は日本の近代化に欠かせない人材だと、リー将軍の事例を黒田清隆に示したのではないかと思われる。

ところが、清水を訪れ清見寺で〈食人之食者死人之事〉を見たことで、赦免前の恩知らずな手紙のことを思い出し、併せて、新政府内での華やかな栄進出世ぶりを考えると、これは、敢えて一言批判を述べないといけないという覚悟につながり、批判としての「痩我慢の説」を展開したのではないか。そのように推測する。

さて、もう一つの疑問は重要である。榎本は何故に〈食人之食者死人之事〉という揮毫、幕府から家禄をもらっていた者は幕府のためなら死をも辞さない、という意味になる文言を、どうして咸臨丸殉難諸氏記念碑に書き込み、刻んだのかということである。

榎本が幕臣であったことは当時の誰もが熟知しているのであるから、普通感覚ならこのような文言は書けないし、書かないであろう。福沢でなくとも怒るのが当たり前である。

だが、堂々と衆人が集まる寺社の境内に揮毫している事実。榎本は、それほどの非常識人なのであろうか。それとも何かの意図があって行ったのか。

これについては福沢への返書に「事実相違の廉(かど)ならびに小生の所見もあらば」とあるのみで、他には何も残さずに世を去ったので、何が背景にあるのか榎本の記録からは出てこない。筆者が分析してみるしかないが、そのためには、清見寺境内の『咸臨丸殉難諸氏記念碑』が建てられたその咸臨丸事件から見ていかねばならない。

ここで鉄舟と次郎長が登場する。清水の次郎長、後に東海道一の大親分として世間に知られるようになった、そのキッカケはこの咸臨丸事件からである。

ここで改めて、咸臨丸のことを思い起こせば、この艦はまことに数奇な運命にもてあそばれている。長崎の海軍伝習所で訓練を始めた幕府は、嘉永六年(1853)にオランダに軍艦を発注した。当時、ロシアとトルコの戦争のため、中立国のオランダは外国向けの建艦を控えていたため、四年後の安政七年(1860)にようやく長崎港に現れた。

この咸臨丸を有名にしたのは、日本人初の太平洋横断を成し遂げたことからであった。その後、幕府の軍艦として活動していたが、既に述べたように榎本が新政府軍に引き渡すことになっていた幕府軍艦を率いて、陸奥に向かって脱走した際も、艦隊に咸臨丸が含まれており、暦では八月でも閏年なので、もう秋に入っていて、台風に遭遇し、観音﨑で暗礁に乗り上げ、それまで回天丸に曳航(えいこう)されていたが、曳綱を断って、風浪のままに漂流し大マストも切り倒すまでになり、常州那珂港沖から三宅島近くを流され、二十九日にようやく下田港にたどりついたのである。

下田港の名主と小田原藩は、咸臨丸が港に入ったことを新政府に届け出た。新政府は肥前藩海軍に「徳川の脱艦、下田港漂着につき、処置すべし」との命を下し、追捕のために軍艦三隻と柳川藩士他数十名乗せて、咸臨丸逮捕に向かった。

咸臨丸は新政府が追捕に向かっているとは知らず、下田から清水港に入り、駿府藩に「脱走の途次、清水港へ漂流」の旨届け出た。駿府藩では大騒ぎである。榎本が脱走したことも大騒ぎであったが、そこに脱走したはずの咸臨丸が徳川の本拠地に戻って来たのである。

この騒ぎに現れたのが鉄舟であり、次郎長であった。次号に続く。

投稿者 Master : 2012年02月18日 14:39

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