« 山本紀久雄氏がテレビに登場します | メイン | 2月例会記録(1) »

2007年03月16日

飛騨高山の少年時代その一

飛騨高山の少年時代その一
  山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
   

駿府における西郷隆盛と山岡鉄舟の会談において、西郷は鉄舟に江戸無血開場への言質を与えた。それは勿論、鉄舟の「すべてを捨て去り迫ってくる人間力」に感動したことからであったが、もう一つその背景に西郷の政治家としてのしたたかな計算があったに違いない。それは徳川幕府の体制を新政府として最大限に活用しようという強い意志である。

新政府樹立を目前にした西郷の頭の中には、倒幕後の政治体制が描かれていたはずである。徳川幕府を徹底的に壊さないと新体制は不可能であると思っていたに違いない。したがって、徳川幕府のシンボルである十五代将軍慶喜を抹殺すること、それが革命の最大目標であって、敵の最高指導者を現存させることは、真の革命成功とならないと考えていた。

これは過去の歴史が指し示す教訓である。一時は革命が成功したように思えても、敵の大将を温存させたばかりに逆転された事例を多くの歴史が物語っている。それを十分に知っている西郷は、慶喜の生命を生きながらせることは、最大の危険を残すことにつながると危惧していたはずである。

しかし結果的に、西郷は慶喜抹殺策どころか、江戸無血開場という和平策に転換した。それは、西郷が鉄舟という一介の旗本によって、鉄舟のような優れた人材を輩出する徳川幕府の懐の深さと徳川政治システムのよさを改めて認識し、それを可能な限り活かしたいという方向へ戦略転換したのであった。

考えてみれば、一九世紀後半当時、欧米先進諸国は植民地を求めてアハジア・アフリカなどへ進出、極東に位置する日本にも侵略の足音はひたひたと押し寄せていた。そんな状況下、日本という国をスムースに新体制へ戦略転換するためには、革命の混乱を最小限にしなければならない。そのためには徳川幕府のよさを最大限残し、それを新体制へうまく取り入れていく革命方向が望ましい――そのような弾力的な思考が西郷の中に生まれたとしてもおかしくはない。

否、そのような変化は、実質的な官軍総司令官としての西郷にとっては、当然の思考であったと推測する。当時の西郷は人生で最も輝き冴えていた時であり、西郷の意思ひとつで日本の針路を決まるという重責を担っていた。

その優れて弾力的な西郷の頭脳の中に、鉄舟が登場し、鉄舟の示した言動に幕府体制を再認識し、幕府システムへの評価を変え、その結果として江戸無血開場戦略に変更したのであった。鉄舟が西郷の内面に与えた影響力は大きい。

小泉政権によって国と地方の「税配分」を見直す三位一体改革が、他の改革とあわせて進めらた。この改革の出発点は危機的状況にある国家財政をどう立て直すかにあった。そのためには「地方分権型社会」への転換しなければならない――これは国民誰しもが頷くところであろう。

では、江戸時代は中央集権型であったのか地方分権型であったのか、どちらであったのだろうか。
一言でいえば、幕府と各藩の関係は「各藩の十割自治」であり、各藩の各藩の自治に任せていた。

したがって、いかに大名家が財政難で困窮の度合いを深めても、基本的に幕府は援助をしない。つまり、現在の地方交付金や補助金などに該当するものは存在しなかった。

とはいうものの各藩は、幕府が実施する普請(土木工事)・作事(建築)に労働力や資材・金品を負担させられ、徳川将軍に対する忠誠心を表明させる制度、参勤交代制の遵守を強いられた。これらの経済的負担は大変であったといえる。

幕府は藩経営について「お手並み拝見」という態度をもち、仮に財政破綻して、藩が危機に瀕すれば「家事不行き届き」の名において、その大名の改易(潰すこと)が行われた。徳川時代の信賞必罰は過酷であった。

さらに、大名改易は幕府体制確立期においては、意図的に行って直轄領を増やす政策を採っていたので、問題のある藩政治・経営をすることは直ちにお家断絶につながる恐れが生じた。幕府はそれだけの権限をもっていたのであるが、藩経営には直接的には介入しないという「各藩十割自治」システムを基本としていた。

小泉政権による三位一体改革は、明治新政府が中央集権体制システムによってスタートさせた結果、発生した問題点の改革であり、江戸時代には三位一体改革なぞの必要性はまったく存在しなかったということを理解する必要がある。

さて、幕府の各藩に対する「十割自治」政策は、幕府直轄地=天領にも該当した。天保九年(1838)当時における天領は六十二か所、規模は豊臣秀吉から与えられた関東八か国を中心に、北海道を除く全国各地に散在していた。

天領には郡代・代官を置き、警察や裁判を担当する「公事方」と、租税・経理などの一般行政を担当する「地方」に分かれていた。

飛騨高山は、代官所より規模が大きく、全国でも四か所しかなかった郡代役所であった。その四か所とは九州日田十一万七千五百石、美濃笠松十万千五百石、関東江戸八十三万四千石。それに飛騨高山十一万四千石。一万石以上を大名と称したのであるから、十万石を超える飛騨高山天領は幕府にとって重要な拠点であり、そこの郡代として小野鉄太郎(鉄舟)の父小野朝右衛門高幅が赴任したのである。

鉄舟宅の内弟子として、晩年の鉄舟の食事の給仕や身の回りの世話などを、取り仕切っていた小倉鉄樹の著書「おれの師匠」(島津書房)に「父朝右衛門高幅は、あまり聞かぬところをみると尋常の人であったらしい」とあるが、幕府直轄地として全国に四か所しかない郡代に任命されるほどであるから、それなりの人物であったと考えたい。

飛騨高山は現在でも観光客が集まる人気の高い町である。二〇〇五年二月に周辺の九町村と合併して、約二千百八十平方キロメートルの面積を持つ日本一広い高山市となった。その魅力とは、豪華絢爛な屋台が街中を巡行する春と秋の祭や、宮川沿いの朝市、低い軒先に出格子の町家がつづく趣のある家並み、江名子川の東山地区一帯に雲龍寺、大雄寺、宗猷寺などの由緒ある神社仏閣が数多く点在するなど、古い歴史と格式に満ちた町並みにあるといえよう。年間の観光客数が三百万人ともいわれているが、これは現地を訪ねれば頷けるところである。

郡代代官の子息・鉄太郎の住まいは高山陣屋であった。その広さは生れた江戸本所の御蔵奉行役宅とは大違いである。番所がついた大門は十万石の格を示す御門で、両脇には葵の御紋が入った高張提灯が提げられている。その大門を入って石畳の道を十間も進むと、式台のある玄関の間がある。そこから廊下伝いに、御役所、御用場、帳綴場、書役部屋、大広間、使者之間と続き、その奥、北西には渡り廊下で郡代役宅が続いている。

この郡代役宅への渡り廊下の先で、少年鉄太郎が生活していたかと思うと、役宅が今の時代に生き返ってくるような気がする。

というのも鉄太郎が走り回った当時の役宅を、96年までの数次にわたる復元工事で再現されているからである。渡り廊下すぐに座敷があり、その先に居間、扇面之間、嵐山之間、茶室、浴室がつづき、どの部屋からも広大な庭が見渡せ、池のほとりにはツツジが配してある。感慨ひとしおである。

陣屋の東側には年貢米を収めていた御蔵が十二棟建っていた。地震があっても潰れないように、四方の壁が内側にわずかに傾斜し、先すぼみになっている。四方転びといわれるつくりである。陣屋が火事になっても、中まで火が通らないように工夫されていた。

高山での鉄太郎は、朝は陣屋の剣道場で撃剣、午後は寺子屋で手習い、夕方は習字の習いを日課とした。鉄太郎が寺子屋に通うこと、その意味は町方の子供と一緒に机を並べるということであり、飛騨高山郡代の子息である鉄太郎には相応しくない、という問題提起もあったが、両親、特に母の磯は意に介さなかった。

磯は常陸の国鹿島神宮神官の娘であったが、武家ではなく農耕もする百姓も兼ねていた。神官の父が小野家所領地の管理を担当していた関係で、磯は小野家に奉公していたところを、朝右衛門に見初められた後妻であった。磯は「至って丈高く色黒く気分鋭し」」(『おれの師匠』)とあるように、頭脳鋭き長身の女性であったが、飛騨高山郡代の奥方身分になっても、決しておごらず威張らず変わらずに人に接していた。陣屋での生活でも、いつも自分で身体を動かす陰日なたのない明るい性格であった。

このような磯であったからこそ、鉄太郎を寺子屋に通わせることにしたのであろう。寺子屋とは町人や下級武士の子弟が通っていた民間の初等教育機関であって、全国に設立していた。江戸で寺子屋を営んでいたのは、勤番の余暇を生かした御家人や町人による専業経営者が多く、入学金・月謝などは家々の経済状態によって融通がきき、これが就学率をあげる大きな要因になっていたが、これは高山でも同様であったと思われる。

この草の根庶民教育の広がりと、教育水準の高さが、明治維新になって日本の近代化を推進するための大きな力になったのであった。しかし、草の根教育施設であるから、郡代の子息が通うということは異論を呼ぶことになった。

だが、母の磯は鉄太郎を町中の町民と同じ教育を受けさせた。豊かな自然環境のもと、町方の普通の子供と一緒に学んだ鉄太郎は、当然のことながら明るい物事にこだわらない性格を構成していった。

一方、郡代としての父小野朝右衛門高幅は有能な郡代であったと、「飛騨天領史」(高山市教育委員会発行)は以下のように述べている。
「郡代は幕末三舟の一人、山岡鉄舟の父です。幕府・旗本の出で、通称を朝右衛門といいます。弘化二年(1845)四月八日、飛騨郡代に任ぜられ、同年八月二十四日、高山陣屋に入りました。『高山市史』と『岐阜県史』は、小野郡代は豊田郡代(注 前任の郡代)の行った天保改革政策のあとを受けて、その維持につとめたと、ひとしくのべています。市史には具体例として、町会所を利用して医師が会談することをすすめ、飛騨人がもつ丙午出世児の迷信を打破するよう諭し、この頃宗門人別帳が形式的であったものを、より実際的にするよう指導し、また、八十歳以上の長寿者に褒美を与えるなど、具体的な例をあげています。当時日本の国では、外国船がひんぱんに出入りするなど、緊迫した世情でもあり、それに備えて嘉永五年(1852)閏二月、城山で狼煙の実演を行い、上野(三福寺)では陣立を実施しています」

陣立とは、軍勢を整え、隊伍を連ねることですから、小野朝右衛門郡代は時代の感覚に敏感な人物であったと想定される。しかし、この陣立によって小野朝右衛門が死を招いたという説もあり、それを伝えるのは小倉鉄樹の著書「おれの師匠」である。

「小野郡代の急死については当時色々の取沙汰があったが、朝右衛門が盛んに武道を奨励し、幾度か陣立を行った為に、幕府にうたがわれ、遂に違法として咎を受け、自刃した云ふ説がある。然し師匠(注 鉄舟のこと)自身は『父は脳溢血で死んだのだ』と言われている。発喪せられたのは死後四ヶ月もすぎた六月五日で其の時の廻状等今も残っている。遺骸は宗猷寺に葬られ、法謚は、徳照院殿雄道賢達大居士である」

真実は分からないが、第二十一代飛騨高山郡代の小野朝右衛門高幅という人物の一面を示していると考えたい。

このような両親との高山陣屋での生活は、鉄舟の生き方に大きく影響を与えていった。次号も鉄太郎の豊かな感性を育ててくれた、高山時代とその背景をお伝えする。

投稿者 Master : 2007年03月16日 06:17

コメント

コメントしてください




保存しますか?