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2006年11月07日

西郷の人物判断基準

西郷の人物判断基準
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

慶応4年(1868)3月10日、鉄舟は駿府における西郷との会談結果を持って江戸に戻った。その時の状況を鉄舟が「西郷氏と応接之記」で次のように記している。
「益満と共に馬上談じ、急ぎ江戸城に帰り、即大総督宮より御下げの五ヶ条、西郷氏と約せし云々を詳に参政大久保一翁軍事総裁勝安房に示す。両氏其他の重臣等、官軍と徳川との間事情貫徹せし事を喜べり。旧主徳川慶喜の欣喜、言語を以て言ふ可からず」

益満休之助と共に江戸に戻った鉄舟は、江戸城で大久保と海舟に報告し、すぐに上野寛永寺大慈院一室に謹慎・蟄居している慶喜にも報告した。慶喜の喜びは鉄舟が書き記したように「言葉に表せない程」であった。慶喜が恭順の姿勢を示した謹慎・蟄居、その真意がようやく官軍に伝わったのである。早速に江戸市中に高札を立てて布告した。その大意は「大総督府下参謀西郷吉之助殿へ応接がすんで、恭順謹慎の実効が相立つ上は、寛典の御処分になることになったから、市中一同動揺することなく、家業にいそしむように」であり、この高札によって江戸市民はようやく一安心できたのであった。

この鉄舟の偉業について、海舟はその日記で次のように称えている。
「山岡氏帰東。駿府にて西郷氏へ面談。君上の御意を達し、かつ総督府の御内書、御処置の箇条書を乞ふて帰れり。嗚呼山岡氏沈勇にして、その識高く、よく君上の英意を演説して残すところなし、いよいよもって敬服に堪へたり」(海舟日記3月10日)
更にまた「山岡の帰るにあたり、西郷は大総督府陣営通行の割符を差し出し、山岡に渡し、山岡は深く厚意を謝して暇を告げ、陣営においては、営門にまで山岡を見送ることとなり、山岡は西郷に別辞を告げ、薩人益満を従え、東を指してゆうゆう江戸城に帰りきて、大総督府の宮よりご命令せられた、五ヶ条にもとづき、西郷と盟約をなした顛末を参政大久保一翁やおれらに披露した。おれはそのときの山岡こそ真の日本人と思うて今なお感謝する。そのとき幕府は、直ちにこれを高札として府中に布告した。よって人心初めて安堵の緒についた」(勝部真長編『山岡鉄舟の武士道』)と高く賞賛しているが、この賞賛した背景を考えてみる必要がある。

というのも、すでにみたように徳川側は官軍へ慶喜の恭順姿勢を伝える使者として、静寛院宮(14代家茂夫人)、天璋院(13代家定夫人)、輪王寺宮公現法親王や諸侯からの陳情・嘆願を行ったが、いずれも効果なく、和議嘆願はことごとく手詰まっていた。
そこで再び、海舟が自ら嘆願書を持って上京することを意図し、2月25日上野寛永寺大慈院一室で、慶喜謹慎後はじめてお目通りした。謹慎・蟄居している慶喜の寒々と痩せた肩が海舟の目をうち、この日のことを海舟日記に次のように記している。
「東台(注、東の台嶺すなわち東叡山寛永寺)拝趨、此日、京都へ御使被命べる旨なり。よって陸軍総裁御免を願ふ。夜に入って、諸有司申すところあり、御使の事免さる。軍事之儀取扱ふべき旨仰せ渡さる」「・・・途中省略・・・有司我が帰府を止められ、京師あるひは途中に躊躇せむ時は、ふたたびこれを解かんの術なし」
つまり、海舟の上洛を慶喜は認めたが、その後諸役が評議した結果、海舟が官軍に抑留される恐れがあり、そうなった場合海舟に代わって指揮を執りえる人物がいないことから取りやめになったのであった。
これは去る1月17日、海軍奉行並を命ぜられた海舟が、初仕事として松平慶永に「嘆願書」を出し、この書状をもって海舟が上洛する、ということを提案したときの繰り返しであった。海舟が官軍との和平工作に不可欠の人物であることは、海軍奉行並となった1月の時より更に周りから強く認識されていたが、その理由ゆえ、海舟を特使として派遣することの難しさがなお増していた。
仮に、海舟が官軍側に抑留された場合、海舟に代わりえる人物はいない。それほど海舟が徳川側にとって、かけがえのない人物となっていたことは誰にも分かっていた。何故なら、西郷という大総督府下参謀と親密な関係を持ち得ている人物、それは海舟しか徳川側にはいなかったのである。

そのようなタイミングに鉄舟が突如登場したのである。鉄舟はその時、精鋭隊頭として慶喜を守るため上野寛永寺大慈院につめていた。その鉄舟が慶喜から直接に指示を受けるという異常事態が発生したのである。鳥羽伏見の戦いに敗れ、敗軍の将となったといえども、慶喜は徳川第15代将軍である。一介の精鋭隊頭である旗本がお目通りできるはずはなく、まして直接に命を受けるということは通常考えられない。だが、鉄舟は直接に慶喜から指示を受けたのであった。
加えて、鉄舟は当然に敵将の西郷とは全く面識もなく、官軍と何の交渉ルートももちえていない。これは当たり前である。一介の旗本にすぎないのであるから。その鉄舟が何故に徳川側の運命を左右する大役の交渉人として選ばれたのか。いずれこのところを解明しなければならないが、今はそれにはふれずに西郷との会談結果について検討してみたい。検討するポイントは「どうして鉄舟は西郷との会見・交渉に成功し得たのか」である。

交渉ごととは「自らの利益は何か」を見極めることが、もっとも重要なことであると9月号で解説した。鉄舟が西郷との会談・交渉において、最終的戦略目的としたことは「慶喜の生命の安全確保」である。このことを時の首相の任にあった海舟に相談し、指示を受けるために、氷川神社裏の海舟邸を訪ね、戦略目的を定め、その達成のために薩人益満休之助という強力な随行者を得ることができたが、最終的に西郷を説得しなければならない。
一方、西郷の戦略目的は討幕の蜜勅詔書にあるように「慶喜の殄戮(てんりく●意味・殺しつくす)」である。全く相反する戦略目的を持つ西郷を方向転換させなければならない。そのための特使が鉄舟であった。
確かに駿府において発揮した、鉄舟の全身全霊から噴出した決死の気合と論説の鋭さ、それは正に武士としての絶対忠誠心を理念として昇華させた強固で真摯な抵抗精神であり、後年、真の武士道体現者と謳われた鉄舟ならではの働きであった。だがしかし、それだけで西郷が心底納得したであろうか。理屈・理論だけで西郷は納得し得たのか。疑問が残る。
慶応4年3月13日、江戸無血開城を話し合った江戸薩摩屋敷における海舟・西郷会談後、二人は愛宕山に登ったが、そのとき西郷が「命もいらず、名もいらず、金もいらず、といった始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如きでしょう」と語った。
この内容が、後年西郷の「南州翁遺訓」の中に一節として記されたのであったが、西郷は鉄舟が慶喜を救うための発する鋭い気合と論説、それを聞き、うなずきつつも別の何か、それは西郷の心情を強く打つものであったが、それを鉄舟から感じ取ったからこそ、愛宕山での賛辞の言葉となったのであった。
即ち、西郷が持つ人物評価の判断基準、人の価値を認める信条、人とはこうであらねばならないという思惟規準、それらに照らし合わせ、それに適う人物として鉄舟を認めたからこそ、西郷は「然らば徳川慶喜殿の事に於ては吉之助屹と引受取計ふ可し、先生必ず心痛する事なかれと誓約せり」(西郷氏と応接之記)となったと推察する。
一般的には五箇条のうちの「慶喜を備前に預けること」について、薩摩藩島津候と慶喜の立場を入れ替えた鉄舟の説得論理によって、西郷が納得したといわれているが、そのような論理力だけでは、真のところで西郷は動かされなかったと思う。西郷という人物は特別で、別の判断基準が存在した。

西郷の人物判定観とは、どのようなものであったのであろうか。
西郷の人生で島暮らしが二度ある。大島と徳之島である。最初の大島のときは僧月照と入水自殺した責任をとって大島に流された。徳之島のときは島津久光の逆鱗にふれ配流されたのであったが、この経緯を説明し始めると主題の鉄舟にたどりつかないので、いずれの機会にしたい。
大島での西郷は読書のかたわら、山に猟銃に行ったり、海に漁に行ったりして日を送ったが、ある時頼まれ島民の子を教育することになった。この頃の西郷の教育ぶりとして、島に伝承されている話がある。ある日、西郷は子どもらに聞いた。
「一家が仲よく暮らせる方法は何じゃと思うか。皆、よく考えて、言うてみよ」子どもらはそれぞれ意見を述べたが「もっと身近なところにあるはずじゃ。さあ、何だ」と西郷が訊ねる。子どもらは更に考えたが、分からないという。西郷が言った。
「欲を忘れることだ。ここに一つの菓子があるとせよ。たいへんおいしい菓子だ。皆食べたい。そこを、皆ががまんして、兄は弟にゆずり、弟は兄にゆずり、子は父母にゆずり、父母は祖父母にゆずるというように、皆が欲を忘れてゆずれば、一家は必ず仲よくなる」
西郷の教育のやり方は、こんな風であったが、この欲を忘れるということは、西郷が生涯の目標にしたことであり、これが前述の「南州翁遺訓」に残されている内容であった。

鉄舟が、駿府松崎屋源兵衛宅に慶喜の使者として現れ、交渉条件として西郷が示した五箇条のうち、「慶喜の生命の安全確保」に絞って「備前に預けること」の変更を断固として交渉する鉄舟、そこに徳川主家に対する「赤誠」、その「赤誠」に西郷は自分のもつ価値観を重ね合わせたのではないかと思う。
西郷が生涯の目標とした「欲を忘れる」ということ、そのことを徳川の一家臣として「命も、名も、金も」すべてを捨て去って、慶喜に対する「赤誠」のみを持って迫り訴えかけてくる姿、そこに西郷は自ら生涯目標とした理想の体現者として、鉄舟を理解し受け入れたのであろう。そうでなければ、いくら全身全霊から噴出した決死の気合と論説の鋭さがあっても、大総督府下参謀の立場ではあったが、すべての権限を握っているわけではない西郷が敵将慶喜の身柄を「吉之助屹と引受取計ふ可し」と断言し、戦略転換することはなかったであろう。
人は自らの価値観と同じ人物を認めるものである。特に西郷は生涯を通じて求道者的側面が強く、剣・禅・書で鍛えあげた特別の人物である鉄舟の見事な人柄に、心から感心し「ほれた」のであった。これが駿府会談・交渉の真の成功要因であったと思う。
 したがって、鉄舟が西郷に会い、そこで鉄舟の人物像を西郷が正しく理解さえすれば、徳川側の戦略目的は達成したと考えられる。とするならば、鉄舟が江戸から駿府にたどり着くことこそが、江戸無血開城のために最大にして最高の条件整備であったと考えられる。
しかしながら、江戸から駿府までの行程が、鉄舟の記した「西郷氏と応接之記」にあるように、通行を邪魔されることなくたどり着くことが出来たのであろうか。戦時下であるから、常識的には様々な危険・問題があっと想像する方が妥当であろう。
これを唱えるのが、前号で紹介した「誰も書かなかった清水次郎長」(江崎淳著)で「益満休之助、断じて駿府に来らず」と書き、その説をなしていた人物として静岡市に居住し、鉄舟の子息の山岡直紀氏の書生をしていた、日本画家の大石隆正氏をあげ、箱根の関所までは益満が一緒だったが、その後忽然と益満は消えたと主張し、駿府における西郷との会見・交渉にも益満はいなかったという。

 では、どうやって駿府にたどりついたのか。それを明らかにする一つの秘話がある。その秘話を語るのは、静岡県庵原郡由比町西倉沢「藤屋・望嶽亭」の松永家23代当主、故松永宝蔵氏の夫人である松永さだよ氏である。藤屋・望嶽亭に代々口承伝承されてきた内容、それは慶応4年3月7日深夜、藤屋・望嶽亭の玄関の戸を密かに叩く一人の侍がいた、ということから始まる。
 従来、この望嶽亭についてはあまり信憑性を持たれなかった。しかし、山岡鉄舟研究を長年続けておられる、地元静岡市清水在住の若杉昌敬氏が、松永さだよ氏の語る内容を多角度から分析・検討し「危機を救った藤屋・望嶽亭」を書き表し、この中で望嶽亭説の妥当性を力説している。次号は、松永さだよ氏にインタビューした結果を紹介したい。

投稿者 Master : 2006年11月07日 10:27

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