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2004年06月26日

鉄舟は誰の指示で西郷との会談に向かったか

鉄舟研究 その2・・・駿府での会談は誰の指示か、学者の見解

山岡鉄舟の最大業績は、「江戸無血開城」を事実上決定させた「西郷隆盛」との駿府での会談・交渉・妥結であった。この最大業績のために、当時、政治的には無名であり下級旗本であり、一剣客であった鉄舟が彗星のごとく登場し、幕末から明治維新の功績者として世に認められたのである。この事実を鉄舟の研究をしているものとして疑問の余地を持たないのであるが、歴史研究の学者間には様々な見解があるのも事実である。

「鉄舟を研究する」という作業はこれらの学者の見解もひろって、その見解の根拠も確認してみることが必要である。なぜなら、他の見解も尋ね、その根拠も確認する、という幅広い見識を持たねば、鉄舟の単なるマニアになってしまうからである。
一つの歴史的事実の研究ということは、それが正しい事実であったとしても、その事実に対する立場が異なれば見方が違ってくる。つまり、異論という分野が存在することになり、その異論という主張を否定してはならない。異論を否定し、排除するということは「唯我独尊」に陥ってしまい、一つの立場からの狭い範囲の研究ということになってしまうだろう。
また、そのような研究態度を取り続けていくと、その研究は多くの人から支持されずに、鉄舟を世の中に正しく伝えるという役割に対してマイナス効果を及ぼすことになりかねない。また、鉄舟という大きな、偉大な、素晴らしい人物を、狭い、一方的な角度からみた人物像としてしまい、本来の実像を曇らしてしまうということになりやすい。
したがって、多くの異論についても取り上げて研究することが必要不可欠である。

その意味で、今回は歴史学者が「江戸無血開城」について、どのような見解を持っているかについて、いくつか紹介していきたい。つまり、鉄舟の関わりについてどのような見解なのかみてみたい。

まず、田中彰氏(札幌学院大学教授1995年当時)が編者となった「近代日本の軌跡第一編・・明治維新 吉川弘文館」からみてみたい。この本の第六章「倒幕と統一国家の形成」を松尾正人氏(中央大学文学部教授1995年当時)が書いているが、その中で以下のように記載されている。

「新政府は、嘉彰親王を征夷大将軍に任じ、山陰道・東海道・東山道・北陸道などに鎮撫総督を派遣し、正月七日に徳川慶喜征討の令を発した。二月三日に親征の令が発せられ、九日には有栖川宮熾仁親王が東征大総督に任じられた。諸道を進撃した新政府軍は三月一三日に江戸城を包囲している。周知のように江戸開城をめぐって勝海舟と西郷隆盛の会談が行なわれ、結果は、徳川の家名を残して慶喜の死罪が許され、いっぽうで慶喜の水戸での謹慎および開城と旧幕臣の退去・謹慎などが命じられた。開城交渉の際には、彰義隊などの旧幕臣の一部が上野に立てこもり、榎本武揚がひきいる旧幕府海軍が江戸湾から新政府側に圧力をかけた。関東各地で一揆や打ちこわしが激化し、イギリス特派全権公使ハ-リ-・パ-クスらも江戸城攻撃に批判的な姿勢をとったのである(石井孝『増訂 明治維新の国際的環境』)」・・・119ペ-ジから120ペ-ジ。

これによると、江戸無血開城は勝海舟と西郷隆盛の会談だけで、それも世間に周知されていることになっている。鉄舟の働きはどこにも表現されていない。

次に、前述の田中彰編者で、松尾正人著で引用された石井孝氏の別の著書「明治維新の舞台裏 岩波新書」からみてみたい。同書のⅦ章「徳川政権の終末」の中で次のように書いてある。

「徳川政権の『軍事取扱』として軍事上の実験を掌握した勝は、駿府の西郷のもとへ使者として山岡鉄太郎(鉄舟)を派遣した。三月九日、西郷が山岡に交付した徳川処分案も、やはり軍議決定のものと同じ線で、つぎのとおりである。
1.慶喜は備前藩へお預けとする。
2.江戸城を明渡す。
3.軍艦・兵器をすべて渡す。
4.城内居住の徳川家臣は向島に移り謹慎する。
5.慶喜の暴挙を助けたものをきびしく調査し、謝罪の途を立てる。
6.暴挙をくわだてるものがあり、手に余れば、官軍の力で鎮定する。
山岡は、慶喜の備前藩お預けに強く反対したほか、政府軍が江戸に入らないように請い、軍艦・兵器の引渡しにも難色を示したという」・・・196ペ-ジ。

これにみるように、鉄舟は勝海舟の使者としての取扱であり、将軍慶喜から直接指示を受けたとは認識していない書き方である。

更に、もう一人松本健一氏(麗澤大学国際経済大学部教授 2000年当時)の「幕末の三舟 講談社選書」をみてみたい。同書の第三章「江戸無血開城」には次のように書かれている。

「三月十三日に東征軍大総督府参謀の西郷隆盛と幕府の陸軍総裁--陸軍大臣であるが、このときはすでに臨時首相といってもよかった--の勝海舟が無血開城、江戸城攻撃中止の交渉をするために、高輪にある薩摩藩の江戸藩邸で会見することになった。
その交渉の行なわれる前、三月五日の段階で、海舟は西郷に手紙を書いている。海舟には幕府を追討し「朝敵」徳川慶喜を血祭りに上げる東征軍の動きがわかっており、『江戸の幕府は恭順の意を表しているし、慶喜は謹慎している状態だから、江戸攻撃はやめてくれ、それは国内を大混乱に陥れる』という内容の手紙である。これを総督府の西郷に届ける使者として、海舟はまず高橋泥舟を選んだ。
このとき高橋泥舟三十四歳・・・以下中間省略・・・・
ところが選ばれた泥舟は、『それは大変ありがたいが、もし自分が慶喜の護衛を離れると、謹慎した将軍慶喜を守るという幕府の秩序形態が崩れ、恭順反対派の侍たちが騒ぎだす(じじつ、寛永寺の僧侶・義観が彰義隊を結成するイデオロ-グとなり、渋沢栄一の従兄である渋沢成一郎や天野八郎らがそう動いた)。いってみれば自分は慶喜を守っているだけでなくて、徳川家全体の治安を守る役割を果たしているので、護衛長である自分は慶喜のそばから離れることはできない。実は自分より一つ年下だが、山岡鉄舟という者がいる』と推挽したのが山岡鉄舟であった。
そこで、三月六日に山岡鉄舟がその手紙を届けることになった。そのとき、すでに西郷が参謀を務める東征軍は静岡で十五日の江戸城総攻撃の命を発していた。鉄舟は品川のさき、六郷川(多摩川の下流)まで到着していた東征軍の先鋒部隊をかきわけながら、『朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎、大総督府へ通る』と、敵の陣営の中をずんずん進んで行った。・・・以下中間省略・・・
こうして山岡鉄舟は一人で、いや海舟が供につけてくれた益満休之介とともに、敵陣のなかを歩いて、西郷のいる総督府大本営までたどりつくのである」・・・64ペ-ジから67ペ-ジ

この松本健一著でも、鉄舟は海舟の手紙を預かった使者として扱われているが、駿府に交渉に行くという指示が誰から発したかということには触れていない。

もう一人の学者の著書からひろってみたい。松浦玲氏(桃山学院大学教授 1997年当時)の「徳川慶喜 中公新書」である。以下、同書のⅥ章「壮年閑居」から関係するところは次のとおりである。

「大慈院での生活は二ヶ月ほどだった。その真ん中の三月十四日に、翌十五日の予定であった江戸城総攻撃が回避され、無血開城が決まる。槍の高橋伊勢守(泥舟)が身辺警護の留守を引き受け、精鋭隊頭で泥舟義弟の山岡鉄太郎(鉄舟)が、勝安房守(海舟)と相談の上で駿府まで赴き、三月十日西郷隆盛と談判した」・・・186ペ-ジ

この内容でも、鉄舟が駿府に向かったのは慶喜からの指示とは書かれていない。また、鉄舟が海舟の指示を受けて、海舟の使者として手紙を持って西郷隆盛のもとへ向かったとも書いていない。海舟と鉄舟とが相談して駿府に向かったという見解である。したがって、誰が西郷隆盛へ交渉をするということの意思決定したかが明確になっていない書き方である。

今回は鉄舟が西郷隆盛との会談・交渉に向かった基の指示が誰から出されたのか、という視点から学者の文献を整理してみた。
その結果は「鉄舟は慶喜から指示を受けた」とは明示していないことが分かった。鉄舟の業績を無視した見解、海舟の使者という見解、泥舟の推薦という見解、誰が決めたか明確でない書き方、これが学者が鉄舟に対する理解・認識である。このような学者の見解もあることを今回整理してみた。

投稿者 Master : 2004年06月26日 11:00

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