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2012年04月08日

「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の四

「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の四
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

江戸無血開城以後、恭順一筋で押し通した徳川藩は、慶応四年(1868)五月二十四日に駿府藩として禄高七十万石と新政府から通告され、藩主家達も八月十五日に駿府に到着、何とか安泰となって一応ホッとしたタイミングに大事件が発生した。

それは、藩の命令を無視し脱走した榎本武揚艦隊の咸臨丸が、損傷激しく満身創痍で航行不可能となり、駿府に近い清水港に九月二日たどりついたことである。

咸臨丸艦長の小林文次郎から、駿府藩に「脱走の途次、清水港へ漂流」の旨届けがあり、器材が陸揚げされ、咸臨丸は港内に停泊し、乗員は三保の民家などに宿泊した。

これは困ったことだと思案に暮れているところに、さらに、清水港を血染めにする大惨劇が勃発した。
九月十八日、新政府が追捕のため派遣した軍艦富士山・飛竜丸・武蔵丸の三隻が、柳川藩士他数十名乗せて、午後二時ごろ清水港に入ってきたのである。

この日、艦長の小林は駿府藩に出向き留守、咸臨丸には副長の春山弁蔵と弟の鉱平、長谷川徳蔵ら少人数が留まっていた。

新政府追捕隊は咸臨丸を確認すると、10間(18メートル)の至近距離から各艦5~6発撃ちはなった。咸臨丸は駿府藩からの命もあって、戦うつもりはなく、降伏のしるしに白旗を上げた。それを見た追捕隊士達は、小艇に乗り移り小銃を撃ちながら漕ぎよせ、抜刀し咸臨丸に上ると、まず、長谷川徳蔵を血祭りに上げ、春山兄弟に銃を向けた。

「待たれい。駿府藩からこの咸臨丸を大総督府に献上するよう厳命を受けております」
副長の春山弁蔵は穏やかに対応しようとしたが、
「何を申す。この大泥棒め!!。朝廷の軍艦を盗むとは不埒千万、罰は万死に値する」
と猛り立つ追捕隊士の暴言に怒った弟の鉱平が抜刀、乱戦となって春山兄弟が斬られる。
それを見た原秀郎は艦を爆沈させ追捕隊士達を道連れにしようと、同様に考えた加藤常次郎と一緒に火薬艙へ降り向かった。だが、火薬艙の鍵は艦長の小林が持っていて、仕方なく二人は散らばっている火薬を集め、扉の下隙へ入れて点火したが失敗。中の火薬まで火が届かない。
火薬庫が爆発することを怖れて、いったんは本船に逃げた追捕隊士が、火が出ないことを見て、また戻って咸臨丸の甲板に上がった。

そこに駿府で用事を終えた艦長の小林が、何事かと小舟で咸臨丸まで来て名乗ると、甲板に引き上げ、両手を縛って殴る蹴る踏みつける乱暴狼藉。小林は倒れ気絶し、十数人とともに捕らわれ追捕軍艦に運ばれた。

だが、春山弁蔵は首を打ち落され、他の死骸と一緒に海に投げ捨てられ、新政府追捕軍艦飛竜丸が咸臨丸を曳き清水港を出ていったのが午後五時であった。

この惨劇については海舟も「幕末日記」の九月二十一日に記している。
「駿州より早追にて御目付来る。咸臨丸を取巻たる官兵、肥前、土佐、柳川藩士、甚手荒く、風聞にては、春山弁蔵刃傷に及び、切害に逢ふ。経雄殿(中老服部綾雄であろう)、目付等、散々罵られ、既に害に逢はむとするの勢也と。是、去月己来(いらい)、脱艦御届も遅々、亦修覆に取掛等、其他種々不都合を御咎めこれ有という。嗚呼、諸役因循(いんじゅん)、身を致さずして私営に苦しむ。我輩百方之を言うといえども、内破かくの如し。また如何せむ」

新政府追捕隊による一方的な惨劇の一部始終を、清水の人々は陸からみていたが、終った海には血潮と死屍が漂う凄惨な状態で、船の出入りも途絶え、漁に出るものもない。

また、賊兵の死体を埋めることは慰霊したことになり、賊の片われとみなされる。だから後難を恐れて誰も始末をしない。

しかし、侠客の清水次郎長は次のように述べた。
「人の世に処る賊となり敵となる悪む所、唯其生前の事のみ若し、其れ一たび死せば復た罪するに足らんや」と。

要するに、死ねば仏だ。仏に官軍も賊軍もあるものか、国のために死んだ屍を見棄ておくのは、次郎長の任侠が許さず、港の機能が止まっていることも放置できず、子分を動員して浮屍を引き上げたのであった。

屍は七体。春山弁蔵、春山鉱平、加藤常次郎、長谷川徳蔵、長谷川清四郎、今井幾之助、他一名。これを巴川のほとり古松の下に懇ろに埋葬した。

この経緯はたちまちのうちに駿府城内に伝わり、城中の物議となった。そこに登場するのが鉄舟で、小倉鉄樹は「おれの師匠」で次のように述べている。

「藩政に参與していた師匠(鉄舟)は役目柄次郎長を呼んで糾問した。
『仮初にも朝廷に対して賊名を負うた者の死骸をどういう料簡で始末したのだ』
もとより覚悟の次郎長は悪びれた景色もなく、
『賊軍か官軍か知りませんけれども、それは生きている間の事で、死んでしまえば同じ仏じゃございませんか、仏に敵味方はござりますまい。第一死骸で港を塞がれては港の奴らが稼業に困ります。港の為と思ってやった仕事ですが、若しいけないとおっしゃるなら、どうともお咎めを受けましよう』
ときっぱり言い放った。

『そうか、よく葬ってやった奇特な志しだ』
あまり簡単に賞められてしまったので、次郎長もいささか拍子抜けだ。
『それならお咎めはございませんか』
『咎めどころか、仏に敵味方はないという其の一言が気に入った』
『有難うございます。そう承れば私も安心、仏もさぞ浮かばれましょう』
喜んで帰った次郎長は、更に港の有志を説いて自分が施主となり盛大な法要を催した。師匠は求められるままに墓標をも認めてやった。大丈夫も及ばぬ次郎長の侠骨に喜んだとは言え此の際の処置として到底小人輩の出来る芸ではない。

現在清水市の中央を貫流する巴河畔に祀られてある「壮士之墓」は即ち之である」

この「おれの師匠」記述には補足が必要である。写真で分かるように「壮士墓」は石造り、建立は次郎長である。この墓碑が咸臨丸惨劇事件の屍埋葬後直ぐに建立されるはずがない。

その通りで、鉄舟から誉められ感謝された次郎長は、港の有志を説いて自分が施主となり盛大な法要を催したが、その時は次郎長の菩提寺である不二見村の梅蔭寺、現在、この寺には次郎長の墓をはじめ、妻のお蝶、子分の大政、小政の墓や遺品があり、また、侠客としては全国で唯一人、次郎長の銅像が建てられている。この梅蔭寺住職に頼んで法要を開いたのであって「壮士墓」が建立されたのは明治三年(1870)三周忌の際で、墓標は鉄舟が書いたといわれている。

なお、鉄舟と次郎長との出会いは、この咸臨丸惨劇事件がキッカケといわれ、その後の次郎長は鉄舟の影響を受け、人間的に脱皮し明治時代の社会事業家として名を残すことになるが、全国の一般大衆にまで知られるようになったのは「東海遊侠伝」からである。

「東海遊侠伝」とは、天田愚案によって明治十二年(1879)に「次朗長一代記」が書き残され、それが鉄舟宅に預けられていたが、明治十七年(1884)に「東海遊侠伝」として題画は鉄舟自身が描き、題字は勝海舟が担当するという豪華さで公刊され、後に神田伯山によって講釈(講談)化となり、伯山の車引きをしていた広沢虎造によって浪曲となって、昭和初期に「旅ゆけば~」で爆発的な人気を誇ったのは二代目広沢虎造で、当時は寄席のオーナーが虎造をひと月呼ぶことができれば別荘を持てたという。

それほど次郎長は有名になったわけであるが、そのブームを起こした「東海遊侠伝」と鉄舟の関係については後日詳しく触れたい。

さて、鉄舟と次郎長の最初の出会い、一般的に認識されているのはこの咸臨丸惨劇事件であるが、もう一つの説がある。

それは、静岡県庵原郡由比町西倉沢「藤屋・望嶽亭」に代々口承伝承されているもので、現在の口承伝承者は望嶽亭・松永家23代当主、故松永宝蔵氏の夫人である松永さだよさん、その内容が「危機を救った藤屋・望嶽亭」(若杉昌敬編)で明確にされている。

また、この説を紹介している歴史学者に高橋敏氏(国立歴史民俗博物館名誉教授)がおられる。「鉄舟は勝海舟と相談のうえ、勝が江戸焼打事件の際、捕らえ助命した薩摩藩士の益満休之助を同道し、急遽駿府に派遣した。東海道を西下途中益満が腰痛のため三島で脱落、単身駿府を前に難所の薩埵峠まで来たところで官軍の銃撃を受け、間宿倉沢の茶屋望嶽亭の松永氏に隠れた。駿府潜入した鉄舟を助けて道案内したのが清水次郎長であった」(『清水次郎長と幕末維新』岩波書店)とあり、西郷と鉄舟による駿府会談に纏わる時が、次郎長との出会いであったという。(参照 本誌2006年1月号)

この説に立ち、鉄舟と次郎長との関係を深読みすれば、咸臨丸惨劇の浮屍を引き上げたのは、鉄舟の指示によるものではないかと思われる。

旧幕臣であり、かつては同志であった屍を海に放置しておくことは、鉄舟の真情として許せない。しかし、鉄舟が表だって動けない。駿府藩の立場がある。そこで考えついたのが望嶽亭で世話になった侠客次郎長である。次郎長に万事やらせ、そのあと詰問するという体を装って駿府藩の面目を保ち、自らの気持ちの整理をする。

このように鉄舟の立場から推測してみたが、ここで疑問を持つのは次郎長の立場である。いくら強気をくじき、弱気を助ける侠客であっても、一介のアウトローであるのだから、何も権力背景もなく、時の新政府に逆らうことになりかねない屍を引き上げる作業をするであろうか。次郎長が侠気を超える、何かの権力を保持していないと取り組まないだろう。また、それがなければ鉄舟とて旧知の間柄であっても、指示し難いだろうと思う。

そこで次郎長の権力との結びつきを調べてみると、驚くべきことが分かった。次郎長は時の警察署長の職に任命されていたのであって、その経緯は次のとおりである。

慶応四年三月はじめに官軍が駿府に陣をおき、西郷が東征軍参謀として滞在した。これに先立ち二月に官軍の先鋒隊として浜松藩家老の伏谷如(ふせやじょ)水(すい)が駿府町差配役、今でいう民政長官に任命されていた。

浜松藩は元々格式高い譜代藩で、天保の改革を行った老中・水野忠邦は浜松藩主。水野は元々九州唐津藩の藩主であったが、唐津藩では老中になれないので、実封二十五万三千石の唐津から実封十五万三千石の浜松藩への転封を、自ら願い出て実現させ老中になったほどである。

この水野忠邦が失脚し出羽山形藩へ転封、浜松藩は井上家に代わって、幕末には井上正直が藩主で、この時の家老が伏谷如水であった。

その如水が駿府一帯の治安を司るために白羽の矢を立てたのが次郎長。如水は次郎長を登用するにあたって、事前に十分調査したらしく、この男なら大丈夫と指名、断る次郎長に対し超法規的処置により、過去の罪科はすべて帳消し、帯刀を許したのである。

これで次郎長は駿府一帯の治安を預かる警察署長になったわけで、この状態が徳川家の駿府藩なっても同様職務を務めていた。

という意味は、次郎長が警察署長であるならば、事件の処理を担当するため、鉄舟から機密費を受取り、それで清水港内の屍を拾い上げ埋葬するのは当然の業務となる。しかし、これが表面に出ては、新政府に対して申し開きが立たないので、鉄舟と次郎長とで芝居を打ったというのが本当のところではないだろうか。

また、鉄舟の駿府掛けで、望嶽亭主人が官兵から鉄舟を救い、次郎長に連絡取って、西郷への会談へ結びつけたという説も、次郎長が駿府一帯の警護役としての警察権を掌握しているという前提で考えれば頷けられる。

ところで、鉄舟は巴河畔の「壮士墓」墓碑を次郎長に書いたが、その際に次の詩も与えている。
砂濶(ひろ)くして孤松秀(ひい)ず
空しくとどむ壮士の名
水禽(みずとり)何をか恨むところぞ
飛んで夕陽に向かって鳴く
また、別に唐紙に髑髏(どくろ)を描き、「生無一日歓、死有万世名(生きて一日の歓びなく、死して万世の名有り)」と賛し贈った。

さて、この咸臨丸惨殺事件から二十年、巴川の「壮士墓」建立から十七年後の明治二十年(1887)、清見寺(せいけんじ)(静岡市清水区興津)に榎本武揚が揮毫した「咸臨丸殉難諸氏記念碑」が建てられたことは既にふれた。

また、この〈人の食(禄)を食(は)む者は人の事に死す〉という意味の揮毫、これを福沢諭吉が見たことから「痩せ我慢の説」を書くキッカケになったのではということもふれた。

では何故に、榎本は「幕府から家禄をもらっていた者は幕府のためなら死をも辞さない」という意味になる文言を揮毫したのか。榎本も幕臣であった。常人感覚なら書けないし、書かないであろう。福沢が怒るのが当たり前である。この解明は次号へ。

投稿者 Master : 2012年04月08日 14:38

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