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2010年08月20日

大きな壁

山岡鉄舟 大きな壁
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

「下駄はビッコで 着物はボロで 心錦の山岡鉄舟」

時は明治の中ごろ、往来で女の子たちが鉄舟を謳う手まり歌で遊んでいる。
今は子供が戸外で遊ぶことが少なくなったが、戦前までは路地で手まり歌を歌いながらまりをつく少女の姿が見られたものだ。手まりは、当初は、芯にぜんまい綿などを巻き、弾性の高い球体を作り、それを美しい糸で幾何学的に巻いて作られた江戸時代からの玩具。
これが明治の中期頃からゴムが安価になり、よく弾むゴムまりがおもちゃとして普及し、正月だけでなく通年の遊びとなっていた。

その手まり歌に鉄舟が登場したという意味は、鉄舟の人気が民衆の間で、いかに高かったということを証明するものであり、多分、時期は明治十五年(一八八二)、宮内省を辞し、翌年、邸内に春風館道場を開いた四十六・七歳ころであろう。

この当時、赤坂離宮に仮皇居が置かれていた。明治六年五月五日の火事により皇居は丸焼けになったことから移転し、鉄舟邸から仮皇居は至近距離であった。

鉄舟邸について「今の赤坂離宮のあるところが舊紀州家の屋敷跡、其の横の大きな榎のある所に、明治七八年頃から師匠の邸があった。紀州家の家老の家なので宏大なものであった」(『おれの師匠』小倉鉄樹)とあるように、鉄舟の屋敷は四ツ谷仲町3丁目、今の学習院初等科のある新宿区若葉一丁目あたりである。
 
さて、文久三年(一八六三)十二月、鉄舟は謹慎宥免となった。二十八歳。八ヶ月間の謹慎中を、鉄舟はわが身の修行と受け止め、自らの奥底を訪ねる旅を送ってみて、改めて分かったことは「自分の道は剣だ」ということへの再確認と、それを続けてきた今までの生き方への得心であった。

顧みれば以前、槍の山岡静山に師事し、ひととき槍術を志した頃にも、確認したことがあった。
「おれはな、御隠居(高橋義左衛門)にも紀一郎(山岡静山)どのにもいわれたのだ。お前はずいぶん稽古するが槍よりは先ず剣をやれ、槍はやっても免許から奥にはすすめんとな。はっはっ、その通りだ、その言葉をおれがこの頃井上先生(井上清虎)から血嘔吐を出す程にひっぱたかれてな、やっと解りかけて来ているんだ。凡そ武芸は技ではねえ、だから稽古だけではどうすることも出来ねえものがあるんだ。おれは今になってはじめて剣を遣うのが面白くなってきた」(『逃げ水』子母澤寛)

 この鉄舟の語りは、自分の無意識にあるもやもやとしたものに、はっきりとした輪郭を与えられたことを示している。静山という稀有の槍の名人に出会うことによって、槍への限界能力を悟らされ、もともと潜在的に剣に志向していたのだと、改めて思い知らされ、目覚めさせてくれ、それ以来一直線に剣に励んできた。

改めて、これを謹慎によって確認できたタイミングに、またもや高山以来の師である井上清虎が、鉄舟の生涯を決めた剣客と会わせてくれた。小野派一刀流の浅利又七郎であり、立ち合って静山以来の惨敗を喫することになった。

井上清虎が最初に導いてくれたのは山岡静山であった。安政二年(一八五五)鉄舟二十歳、すでに千葉周作の玄武館道場において、鉄舟と五分で立ち合える者がいないという状態になって、鉄舟に驕慢な感じが表れ、自信が態度に表れ、それを嗅ぎ取った井上が、静山と立ち合わせてくれた。

静山に竹刀を構えたものの、足が一歩も出なく、間合いが詰められず、身動きできず、逆に、たんぽ槍の穂先が真槍の鋭さをもって、にじりじりと迫り、とうとう背中が道場の羽目板につくところまで圧された。何んとか打開したいと「エイー」と諸手突きを、静山の喉元めがけ打ち込んだ。

その瞬間、息が止まった。体が反転した。自分の体がどうなったか分からない。気がつくと道場の床に這いつくばっていた。しかし、必死に立ち上がり、低い姿勢から静山に向って体当たりしようとした瞬間、再び、穂先が喉元に突き刺さった。どうしようもできない速さの突き。巨体がのぞけり、どうと倒れ、道場内に大きく響き渡った。

「参りました」意識が朦朧で、喉を突かれ、声にならない声で、両膝を折った。完膚無き負け。敗北感が全身をおおった。

それまでこのような徹底的な敗北感、その感覚を味わったことはなかった。九歳のときに真影流久須美閑適斎の道場で剣術を習い始め、高山に移ってから井上に師事し、江戸に戻って玄武館道場に入門し、すぐに鬼鉄と称される腕前になっている。その自信が完全にたたき落とされた。

この立ち合いによって、静山に傾倒・心酔し、結果として静山亡きあと山岡家の養子となったのであった。

この静山以来の惨敗を喫した人物が、小野派一刀流の浅利又七郎であり、鉄舟が長い年月目標とした人物である。

さて、その浅利又七郎とはどのような剣客であったのか。
浅利又七郎には二代あって、初代は浅利又七郎義信、次代が又七郎義明であり、この二代目の義明が鉄舟の前に大きな壁として立ちはだかったのである。

初代の義信から述べたいが、この浅利又七郎を調べてみて、鉄舟に関する書籍・資料に必ず登場する重要な人物であるのに、意外に研究がなされていない。初代義信は、若狭小浜藩酒井家に仕えたので、先日、福井県小浜市の教育委員会・文化遺産活用課に伺い、小浜市のパンフレットに掲載されている「剣豪・浅利又七郎」について説明を受けようとしたが、学芸員と思える若い担当者があらわれ、詳しい資料はない、このパンフレットに記載されている以外のことは分からないということ。

そこで、国会図書館などでいろいろ調べてみたが、確かに明確に書かれた資料は少ない。しかし、いくつかの資料を検討していくと、次の通り分かってきた。因みに、小浜市のパンフレットは重大な誤りがあり指摘した。

初代浅利又七郎義信は、安永七年(一七七八)下総松戸宿の農家に生まれ、少年時代は又七といい、家が貧しかったので、毎日のように江戸に出て、浅蜊を売って生計を立てていた。その帰途、下谷練塀町(今のJR秋葉原駅近く)の中西忠兵衛道場に立ち寄り、剣術の稽古を見るのを楽しみにしていた。

そのような光景を見ていた三代目中西忠兵衛子啓が内弟子にした。又七はみるみるうちに腕を上げ、並いる先輩剣士たちを追い越して、中西道場の高弟にのしあがり、若狭小浜藩酒井家江戸屋敷詰師範として任じられ、その際に、初心忘れるべからずと、浅蜊の虫偏を取って、浅利又七郎義信を名乗ったという。

しかし、もうひとつ説があって、又七郎は浅蜊屋の息子として生まれたが、浅蜊屋を嫌って紺屋の奉公に行き、この頃から剣術に熱心となり、剣術が道楽の米問屋を営む糠屋の手代に代わり、主人の相手をしながら腕を上げ、主人の計らいで江戸の中西道場に入門したという。どうもこちらの方が信憑性あるらしい。

なお、この初代義信はかの北辰一刀流・千葉周作と深い関係がある。幕末当時、江戸で有名な剣術道場としては、北辰一刀流・千葉周作の玄武館、鏡新明智流・桃井春蔵の士学館、神道無念流・斎藤弥九朗の練兵館、この三道場を称して江戸三大道場と称し「位は桃井、力は斎藤、技は千葉」と評されていた。

千葉周作は奥州出身で、父に連れられて江戸に向かう途中、松戸に住みつき、浅利又七郎義信の道場に入門し剣を修行し、気に入られて義信の姪と結婚し、夫婦養子となったが、組太刀について独創の組型を案出し、それに反対する義信と意見が衝突し、親子の義を絶って、江戸で新たに北辰一刀流・玄武館道場を開き大成功した。

剣法に「守・破・離」ということがある。「守」はまもる(・・・)で、その流派の極意を守ること。「破」はやぶる(・・・)で、必ずしも極意になじまず、定法を一段破って修行すること。「離」ははなれる(・・・・)で、破よりさらに一段も二段も立ち勝った、新境地に達するをいう。

すなわち、未熟は守り、連熟は破り、新境地は当然離れることで、周作は工夫熱心で独創の組型を案出したのだが、古法を守る義父に反対され、別れ江戸に向かったのである。

だが、これを浅利家側の話によると、周作はいかにも才物で、あらゆる方面に如才なく、養父の妾まで籠絡したので、浅利家を不縁になり、中西道場からも破門された。そこで江戸に出て、奥州生まれであり、千葉家の守り本尊が北辰妙見であることから、新たに北辰一刀流と名付けたとのこと。

何れが真実かは分からないが、周作の玄武館は、簡易な言葉を使い、合理的な練習法を編み出し、それまで八段階に定められていた一刀流の修行段階を初目録、中目録、大目録の三段階に簡略化するなどの工夫をしたので「他流では目録を取るまで三年かかるところを、北辰一刀流では一年でもらえる」と評判になり、多くの門弟を獲得し、当時、門人三千余人といわれたことから敷衍して考えれば、組太刀の見解相違が真実ではないだろうか。

 なお、鉄舟は千葉周作の玄武館道場で修行し、周作の後に浅利家の養子となった二代義明に負けたことから、後日詳述するが大悟に達することができ、明治中期「民衆に最も高き人気」という存在になれたのであるから、初代義信と周作の別れが鉄舟人生につながっている。人との因縁は分からないものである。

義信は嘉永六年(一八五三)七六歳で死去したが、千葉周作を離縁した後、四代目中西忠兵衛子正の次男を養子とし、二代目浅利又七郎義明とした。鉄舟と立ち合った当時、義明は四十二歳の男盛りであった。

義明の試合ぶりというのは変わっていることで有名であった。じっと竹刀を構えていて、相手の隙を見つけると、静かに

「拙者の勝ちですな」
と言う。できる相手は、大抵、その時に頭を下げる。

しかし、相手が「何を、バカな」と反発すると、容赦なく打ち込み、突きを入れてくる。
鉄舟も突きが得意技である。鉄舟と義明の立ち合いは、少し違った形をとった。
義明が下段につけて構えた。鉄舟は正眼に構え、得意の突きで打ち込もうとした、その瞬間、義明の竹刀の先がさっと上り、鉄舟の喉元に向けられ、その形のままに、義明は、
「突き・・・」
と言った。

実際に突きを受けたわけでない。だが、鉄舟は一歩も前に出られなくなっていた。喉元に竹刀が食らいついていて、切っ先を外そうと右に回ると、右についてくる。左に避ければ左についてくる。後ろに退くと、またもぴったりついてくる。

いつの間にか、じりじりと押され、羽目板まで追い込まれ、押し返すことができない。
「参った」
鉄舟が叫んだ。

面当てを取ると、実際には竹刀が全く当たっていないのに、喉首が激しい突きを喰ったかのように痛む。
これは、到底、自分なぞが敵う相手でない。二十歳で山岡静山に完膚なき敗北を期して以来の完敗である。上には上があるものだ。鉄舟は完全に頭を下げ、

「弟子にしていただきたく、入門をお許し願います」
と、浅利道場に通うことになったが、このことを明治十三年に記した「剣法と禅理」で次のように述べている。

「果して世上流行する所の剣術と大に其趣きを異にするものあり。外柔にして内剛なり。精神を呼吸に凝(こら)し*、勝機を未撃(いまだうたざる)*に知る。真に明眼の達人と云ふ可し。

是より試合をするごとに遠く其不及(そのおよばざる)*を知る。爾後修業不怠(おこたらず)*と雖も、浅利に可勝(かつべき)*の方法あらざるなり」

以後、鉄舟は、浅利又七郎と立ち合うたびに、遠く及ばざるを確認するだけの日々が続き、浅利が大きな壁として聳え立ち、それを克服するために次の修行段階に入ることになる。

投稿者 Master : 2010年08月20日 10:55

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