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2013年01月25日

鉄舟県知事就任・・・その六

鉄舟県知事就任・・・その六

鉄舟は明治四年(1871)十二月二十七日に、伊万里県に単身赴任した。この当時、伊万里県の県庁は円通寺に設置されていた。
この円通寺、JR伊万里駅から徒歩10分に位置する伊万里城山公園麓陣内にあって、臨済宗南禅寺派であり、この地を四百年間治めた伊万里氏の守護寺で、寺伝では至徳年間(1384~1387)に創建されたとある。

話は脱線するが、伊万里駅から市内を歩いていると妙な事に気づいた。それは伊万里JR駅舎と千葉県館山市のJR駅舎とがそっくりなのである。両方ともオレンジ色で二階に改札口があって、高齢者にとってはちょっと不便なところも共通している。

多分、スペインのコスタ・デル・ソル太陽海岸をイメージしたものであろう。館山のホテル経営者に駅舎のイメージを尋ねたら、その通りでスペインの明るい海岸のイメージで造られたとの説明を受けた後、「どう思うか」というので「あまり感心しない。他国の観光地を真似る発想は貧弱だ。自らの土地を掘り下げたイメージで造るべきだろう」と答えたところ、大きく頷いていたので地元でも違和感を持っているのだと推測し、伊万里も同様だと思っている。

また、伊万里市はマキが市の指定樹木という理由で、マキの木の並木道があり街並みをしっとりとさせ、落ち着きを与えている。館山市では、冬場に強く季節風が吹き荒れるので、昔から風除けに屋敷をマキの生け垣で囲った家が多く、美しい道並みをつくっている。

このマキの木で駅舎を建築した方がよかったのではないか。つまらない感想だが、鉄舟研究で各地を歩いていると妙な事に気づく。

鉄舟が県知事として赴任した伊万里県は、明治四年(1871)7月佐賀藩が佐賀県になり、この佐賀県と厳原県(旧対馬藩)を9月に合併させ伊万里県とし、11月に蓮池、小城、鹿島、唐津の四県を伊万里県に編入させた。

しかし、明治五年(1872)5月には県庁を佐賀城下町の旧佐賀藩庁に移し、佐賀県と改称した。正式な県庁も建設されない、わずか9カ月間の伊万里県であった。いかにも短い。

県庁を旧佐賀藩庁に移し佐賀県とした理由はいくつかある。それを佐賀県の百年(県民百年史41)では以下のように述べている。

①伊万里は海上交通に便利だからといっても、陶磁器の積出し以外には使用されず、また、西に片寄りすぎている事。

②佐賀の方が筑後川に近く、多くの船がこの川に集まり、物価の相場がよくわかる。

③伊万里の人達は役人に慣れていなく、役人達が住む事を恐れ、嫌って、迷惑と思っている。

④佐賀から通う役人達は不便である。

⑤つまり、県庁を嫌う伊万里、県庁が欲しい佐賀、どちらにも好都合。

⑥伊万里に県庁を新たに建築すると費用が嵩むが、佐賀であれば新築しなくても城跡にすぐに使える建物がある。
 
これらの背景から県庁都市となった佐賀市は、明治5年に戸数が3481戸であったが、明治8年(1875)に商人その他増が影響し4088戸に増えているから、伊万里県から移って成功したといえるだろう。

ところで、明治5年8月には、厳原県を長崎県に合併させ、佐賀県から分離させているが、この厳原県分離については鉄舟が進言したと思われる経緯を後述する。

 鉄舟の伊万里での動向を探るために、市役所・図書館などで調べてみたが、なかなか史料は見当たらなかったが、その中で「佐賀県知事物語」(読売新聞佐賀支局編)が次のように述べている。

「明治五年二月初旬のある日、伊万里県の県庁があったいまの伊万里市の街頭に深編みガサの偉丈夫が姿をみせた。鋭い眼光、スキのないわらじばきの足取り、ビンにむらがる剛毛――は、武者修行の武芸者を思わせた。これが初代伊万里県権令の山岡鉄太郎。天下の剣豪を目のあたりに見て、ひそかにタメ息をつく娘たちもあったが、肩書きに似合わない身づくろいやしぐさから、いつしか、町人たちに『馬鹿県権令』とうわさするようになった」

「さて山岡鉄舟。町中の、ありがたくないうわさを気にするでもなく、毎日深編みガサのパトロールを続けたが、やがて無実の囚徒を放免したり不必要な書類は焼き捨てたり――など、思い切った施策をやってのけ、間もなく口さがないうわさも消えてしまった。“ボロ鉄”と異名され前任地の静岡県権大参事のころは侠客清水次郎長とも親交があっという変わりダネ。その官僚ばなれした人間的魅力が県民にうけた――ともいえそう。ただし、赴任後間もなく免官になったので、赴任旅費だけは支給したが、月給はどう取り扱うかが問題になったから『雇われ県権令』のつらさも味わった」

「伊万里県のみならず、当時の地方長官の人選は、政府が常に頭を痛めた問題だった。旧肥前国は――と見るに、藩主鍋島直大(鍋島閑叟の次男)が大納言に登り、大隈重信、副島種臣、江藤新平らの旧藩士が参議に名を連ねるなど維新政府をささえる一方の旗頭だった反面、旧唐津藩主小笠原明山が幕閣の元老だったように、佐幕的な気風も根強く、人脈は複雑だった。地理的にも辺境地であり、無気味な“噴火山”のイメージはぬぐいきれず、ここに、旧幕臣の傑物だった山岡鉄太郎を、初代県権令に起用した必然性があったといえそう」

 また、鉄舟邸の内弟子として、鉄舟側近くにいた小倉鉄樹著「おれの師匠」によると

「伊万里権令となったときの話を聞くと、伊万里県は九州で最も難治のところなので鉄舟をやれと、云ふことになったのださうである。旧藩の頑固士族は此の新令の人となりを知らずして窃(ひそか)*に軽侮する様子があった。
 師匠は毎日深編笠を冠り、供一人を召連れて市中を放吟闊歩したので、益々新令を軽侮してあからさまに『馬鹿県令』と呼ぶに至った。
 師匠は一向に介せず数旬の視察に、民情を詳知し、難治の病根を究めて、忽ち賢を抜き不能を汰し、山積の書類を焼き、無実の罪に囚われている囚徒を放ち、一刀両断、日ならずして廓清(くわくせい)*の実を挙げ、さしも難治の県も、其の剛明果断に服して昔日の観をあらためたとのことだ」とある。

 伊万里県での鉄舟の動向が書かれた史料は、上記の「佐賀県知事物語」と「おれの師匠」のみであって、他には史料が見あたらない。

しかし、鉄舟は伊万里県で活躍したのは事実であり、それらの状況を2011年10月号でも紹介した「山岡鉄舟 幕末・維新の仕事人」(佐藤寛著)から紹介したい。

「鉄太郎が辞令を受け取り単身赴任したのは、明治四年の年の瀬が迫った十二月二十七日だった。県令の単身赴任に職員は驚いたと思うが、残念ながら今回は県庁内に人がまばらだった。県庁はその日を半休として、正月五日まで閉庁するのだという。

居残っていた役人から県内の様子を聞き、その日は退庁して宿舎に戻った。普通ならば、新任の県令人事が発令された時点で鉄太郎の茨城県での噂が走り、迎える側は緊張するはずなのにその様子はなかったようだ。その原因として、鉄太郎が徳川の旧幕臣であることだけが伝わり、自分たちの佐賀藩は勤皇方であるという安心感があったかもしれない。あるいは前回派遣された参事を追い出した実績に油断していたのだろう。茨城県の役人のように着任の知らせに走り回ることもなかった。

鉄太郎は宿舎に戻ると、荷物を置いたまますぐに出かけた。県内情勢を聞いたとき、対馬の様子が緊急を要すると判断したのである」

ここで対馬について少し補足したい。対馬は鎌倉時代から平家の落人と称する宗氏で、江戸時代には朝鮮との国交窓口であった。

対馬藩も幕末時には尊王攘夷派と佐幕派の対立も深刻で、尊王攘夷派が江戸詰家老を暗殺し、国元では佐幕派が尊王攘夷派の家老を獄死させ、その国元家老も対馬藩最後の藩主重正によって殺されるというはてしないテロが藩内を混乱させていた。

幕末、対馬には諸外国船の来航が盛んで、文久一年(1861)にはロシア艦隊が軍艦難破したと偽り、その修理を理由にして半年あまりの期間、対馬に居座った。その間、勝手に建造物を造り始めたり、島民から略奪を繰り返したり、島を不法に占領しようとしたので、幕府が抗議すると、ロシア側は幕府との直接交渉を避け、与しやすい対馬藩との直接交渉をして「我々の条件をのめば、そのお返しに朝鮮をくれてやる」などと、嘘を平気でついて、対馬を乗っ取ろうとした。

結局はライバルのイギリス海軍に追い払われて、ロシアの陰謀は失敗に終わったという事件もあったが、このような緊迫した最前線外交問題等を通じ当時から出島があった長崎とは関係が深かったのである。

幕末時に混乱した対馬藩であったが、慶応四年(1868)には勤皇派に一本化し、同年四月に藩主重正が自ら大坂に出向き、天皇に拝謁している。この時、天皇から朝鮮に対して王政復古を伝達するよう命を受けた。ところが、この伝達した際に朝鮮側が示した「礼を失した態度」が、後の征韓論への導火線につながっている。

さて、対馬の人々にとっては、今まで関係が薄かった佐賀藩中心の伊万里県に編入されてしまい、元々お互い人情も異なっている上に、廃藩置県に伴う手続き変更などで煩わしく、いろいろ不便な実態となったのに、本土から派遣された県庁役人、特に佐賀藩出身者が幕末時の薩長土肥としての功績を笠にきて、むやみに威張り散らし、規則を盾にうるさく干渉し、これに反感もつ士族たちが、問題をさらに煽り立てるという事態になっていたのである。これが着任早々の鉄舟が正月休みもせず対馬に向かった理由であった。

再び「山岡鉄舟 幕末・維新の仕事人」から紹介する。

「対馬に着くと、旧対馬藩の不穏な情勢に、厳島支所の役人たちは正月休みどころではなかった。事情をヒアリングするとさっそく活動を開始。領内をくまなく歩き、不平分子とされる人たちと話し合ったのである。彼らが、着たきりの粗末な服装で正月返上で歩きまわる新任の県令に驚いたことは推測できる。残念ながらこのときの詳細は史料に残されていない。おそらく、対馬藩は朝鮮外交の出先として徳川とゆかりが深いことから、存分に大酒を酌み交わしながら、相手の話をじっくりと聞いたに違いない。彼らは勤皇方だった旧佐賀藩の役人たちの思い上がった姿勢に強い反感を持っていたのである。

対馬は、距離的には長崎より佐賀の方が近いが、歴史的に見て、対馬を伊万里県とすることには無理があると鉄太郎は思った。その場で鉄太郎は、県支所の役人たちには新時代の役人として横柄にならないように厳重に訓示し、不平分子サイドには伊万里県として不満のない行政施策を約束した。これで一触即発の事態は回避されたのである。

そして、正月六日朝、対馬に渡ったことは誰にも告げずに鉄太郎は出勤した。その後の展開は茨城県のときとまったく同じである。お屠蘇気分で昼近く出勤する幹部職員を叱り飛ばしたうえで、表情をガラリと変え、懸案事項のヒアリングに入る。そこで正月休みに対馬に行ったことを打ち明け、驚きの一同の前で、問題がおおむね解決したことを説明しただろう。そうなれば鉄太郎のペースである。その日以降、懸案事項の処理を進める軸を、派閥抗争の芽を摘み取る方向に合わせ、次々と指示を出していった。

居たたまれなくなったのは旧権力を笠に着た幹部連中である。この先も、彼らが考えることがいつも同じであることに驚かされるが、大酒を飲ませて失態を演じさせようとした。伊万里の製陶業者の集まりに照準を当て、あわよくば大酒に酔った帰りを襲ってケガをさせようとも考え、実行に移した。

ところが、大ケガをしたのは襲撃した側だった。その翌日、誰が鉄太郎を襲撃したのかは一目でわかった。鉄太郎に反感を持つ包帯姿の幹部連中は、典事の河倉をはじめ、観念して辞表を出してきた。
しかし鉄太郎は自分に不満を持つ連中を追い出して悦に入る行政トップではなかった。河倉派を追い出して、敵対している一派を県庁に呼び戻したりはしない。追い出されている一派を復帰させることを条件に辞表を受け取らないことにした。罷免を覚悟していた彼らは、意外な申し出に驚き、喜んで同意した。この鉄太郎の処置で、役人たちは新しい地域行政のあり方を理解した。

狭い世界で対立している場合ではない。多くの優れた能力が必要である。また、藩主を中心にした忠誠の構図が廃藩置県で緩みがちだが、時代は違っても私心をなくして勤務に励むという忠誠の心は変わらない。口では言わないが、鉄太郎は自らの行動で生きた手本を示したことになった」

このような状況で、赴任から二カ月後、鉄舟は東京に戻り、井上馨に伊万里県の内紛が解決した事を伝え、伊万里県令を辞任したのである。

人は物事に当面した際に、その人間の本質が顕れる。また、人間本質とは生来の性格に加え、今日までの生き方が重なって脳細胞に習慣化されたものであるが、鉄舟を見ていると「人から頼まれると引受ける」という生き方によって偉大な人物像をつくりあげたと思う。

鉄舟は六百石取りの旗本小野家に生まれ、二十歳の時に百俵二人扶持御家人の山岡家に養子に入った。師であった山岡静山の突然逝去によって、静山の妹英子が鉄舟を強く懇望し、情熱を示したことによって結婚したわけだが、当時の封建社会での身分の差を考えると、あり得ない事態であった。

後年、鉄舟は英子との結婚について次のように語っている。

「おれも若い時、今の家内に惚れられて、おれでなくちゃならぬというから、そんなら行こうと山岡へ行ったんだ」(おれの師匠)

ここに鉄舟の人物が顕れている。人から頼まれると引受ける。その端的な事例が揮毫数である。(おれの師匠)

「明治十九年五月、健康が勝れぬ為、医者の勧告で『絶筆』といって七月三十一日迄に三萬枚を書き以後一切外部からの揮毫を謝絶することが発表された。すると我も我もと詰めかける依頼者が門前市をなして前後もわからぬので、朝一番に来たものから順次に番号札を渡した云ふことだ。(明治十九年六月三日東京日日新聞)

其後は唯だ全生庵から申し込んだ分だけを例外としてゐたが、其の例外が八ヶ月間に十萬千三百八十枚(この書は全生庵執事から師匠に出す受取書によって知る)と云ふから驚く。或る人が『今まで御揮毫の墨蹟の数は大変なものでせうね』と云ふと、『なあに未だ三千五百萬人に一枚づつは行き渡るまいね』と師匠が笑われた。三千五百萬と云へば、其の頃の日本の人口なのだ。何と云っても、桁はづれの大物は、ケチな常人の了見では、尺度に合わぬものだ」

この揮毫が全部無料で書いたというのであるから、正に「金もいらず」という西郷隆盛発言通りの人物であるが、この「頼まれると引受ける」という生き方精神が、茨城県と伊万里県の知事として赴任した背景にもあった。

また、その際に短期間で示した見事な行政手腕は、駿府での西郷との会談と、静岡という難治県で体験したものの集積から体得したものであろう。

このような鉄舟に次の大仕事が待っていた。明治天皇の教育であって、それを頼みに来たのは西郷であった。いよいよ鉄舟が国体の中枢に位置する立場に入っていくのである。

投稿者 Master : 2013年01月25日 09:18

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