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2008年04月05日

山岡静山との出会い・・・その二

山岡静山との出会い・・・その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

嘉永六年六月四日(西暦七月九日)の朝、鉄太郎は内藤新宿の女郎屋で目を醒ました。と南條範夫の小説「山岡鉄舟」にある。

鉄太郎は十八歳、弟たちの身の振り方をつけ、生活に不自由がなくなり、ようやく自らの修行に突き進むことができる環境となった。ここでいう修行とは、剣のみでなく、禅でもあり、もうひとつは色道修行であり、いずれの修行も猛烈であった。その色道修行の一端を示すものが冒頭の南條範夫の小説の一文である。小説ではあるが、鉄太郎の性格から見てありえることであると思う。

朝帰りで異母兄の小野鶴次郎屋敷玄関は入り難い。だが、鶴次郎は江戸城に出仕していて留守である。すぐに玄武館道場に向った。道場にはいつになく、稽古もなく、片隅で頭を寄せて何かを話している。「どうしたのだ」という鉄太郎の問いに「鬼鉄は知らないのか」
「何を」「昨日の夕方、アメリカの黒船が四隻、浦賀沖に来たのだ。沿岸警備の各藩は総出動だ」「うーむ。知らなかった」「みんな知っているぞ。どこかにしけこんでいたのだろう」 その通りなので鉄太郎は何も言えない。
 
今日は稽古が休みだと、鉄太郎は井上清虎のところに向った。高山時代からの剣道師範である井上清虎なら、詳しい経緯が聞けるだろうと考え、場合によっては浦賀沖まで出かけ、アメリカの黒船をこの目で見たいと思ったのだ。

この頃の鉄太郎の行動については、高山の岩佐一亭に次のような手紙を、日付が不明ながら書いている。
 「アメリカの一件で、あちこちへ軍学などの用向きで出掛け、忙しくて困ります」(『山岡鉄舟』小島英熙「日本経済新聞社」)
 
鉄太郎もペリー来航を国難と受け止め、いろいろ行動していたのだと推察される。多分、玄武館道場の仲間達と、攘夷論、開国論を、口角泡を飛ばして論じていたのだろう。眼前に黒船という外国勢力が現れたのであるから、それに対して幕府は、日本はどうするか、そのことに関心が向くのは当然であり、やむをえないことである。

だが、この国家戦略議論に熱中しすぎると、必然的に剣の修行が疎かになりやすい。そのことを危惧した井上清虎は、ある日、鉄太郎に注意を与えた。
 「まだ修行中の身だ。みんなと一緒にバタバタするな。このような時こそじっくり構えることが大事だ。自分づくりの時だぞ」

鉄太郎は井上清虎の言葉に、ハッと気づいた。このハッと気づくことはなかなか出来ない。目前に夢中になることが発生し、そこに没入しているときは、殆どの人が忠告を聞かない。逆に忠告する人を煙ったがり、行動に反対する敵として忠告者を捉えやすい。

ところが、鉄太郎は違った。気づいたのである。地頭がいいともいえるが、このところが肝心要の人間力の差である。

実は、鉄舟は一生の間に一人も殺したことがないのである。人を斬る目的でつくられた剣の修行、それもきちがい呼ばわりされるほど熱中し、無刀派をつくりあげた腕前なのに、誰も斬らなかった。

それは何故か。その解明をいずれ行っていくが、かいつまんで言えば、鉄舟にとって命がけの修行であった剣と禅は、自分磨きのため、自分つくりのためであり、その自分とは23歳(安政五年 1858)のときに記した「宇宙と人間」(2006年10月号参照)に明示されている。

すなわち、世界を諸外国と日本国に分け、日本国は天皇のもとに公卿・武門・農工商民・神官僧侶学者等の四区分臣民は皆平等であるということと、その平等下にいる臣民の行うべきことについて以下の如く記している。

「蓋(けだ)し本邦の天子は萬世一統にして、臣庶は各自世々禄位を襲ひ、君主庶民を撫育(ぶいく)して以て祖業を継ぎ、忠孝を以て君父に事へ、君民一體忠孝一揆なるは、独り我が皇国にあらざるか。是れ余が昼夜研究を要するところにして他日其極致に達せんことを期す。図の如く、唯だ我の感ずる所を署すと雖も、敢て他人に示すものあらず。これ自ら戒むるの目標のみ」

意味は「天皇は万世一統、つまり、祖先から長く同一の系統が続いて、庶民をやさしく育んできているし、臣民は忠孝のこころで君父である天皇に仕え、天皇と臣民・庶民が一体であるべき姿になることが日本国の姿であるから、自分はそのようになるよう日夜研究し、これが実現することを期する」であり「これは他人に説明するために記したものでなく、自らの目標を記したのみ」とある。

つまり、人間修行の目的を明確に国家レベルにおいていたことと、その達成手段が剣であり禅であったことを、井上清虎の言葉によって、ハッと気づいたのであった。

眼前に現れた黒船は確かに国の行く末を左右させる大事件である。しかし、この大事件に自分が囚われていけば、自分の目的を達成することが遅れる。勿論、日本人として、幕府旗本の一員として、ペリー来航に対して対処し、疎かにはできない、だがしかし、自分の人生修行上位目的は何のためであったのか、そのことを考えると今は剣の修行に戻るべきだ。現状の問題点対応という目的と、自らが達すべき修行目的との比較、つまり、自分のおかれた立場に戻り冷静に考えれば、どちらが目的として上位概念・レベルに位置するのか。そのことを暗黙のうちに鉄太郎は気がついたのだ。

このような気づきは、行動指針としての目的概念が明確になっていないとできない。

鉄舟の生き方から学ぶ点はここにある。常に自分の生きる目的を明確にし、そこに向って修行を続けたのであるが、その目的を国家レベルの高次元においたことである。高次な目的を持ちえたこと、それが鉄舟の生涯修行を支えた真の要因であった。いずれこれについても詳細検討してみたい。

さて、鉄太郎は井上清虎の言葉を素直に受けとめ、さらに修行に猛進していった。その頃の逸話が小倉鉄樹の著書「『おれの師匠』島津書房」にある。

「山岡が撃剣を熱心に稽古している頃は殆ど狂気のようなもので厠でも、褥中でも、不断に試合の勢を擬し、又途中何処でも竹刀の音を聞けば直ぐに飛び込んで試合を申入れ、又自邸の訪客には誰彼れの区別なく、直ちに稽古道具を持出し『サア一本』と挑まれた。早朝出入商人が来ると、自分は素裸になって『俺の身体中どこでも勝手に打て』『サアモウ一本』『モウ一本』と際限なく打ちかからせるので御用聞きが来なくなったと云う話もある」
 
このような猛烈な修行の結果、もはや、玄武館道場において、鉄太郎と五分で立ち合える者がいないという状態になった。師の井上清虎も敵わないほどであった。
 
こうなってくると、如何に鉄太郎といえども、剣の腕前に驕慢な感じが表れてくる。自信が態度に表れてくる。このあたりの状況について南條範夫の小説『山岡鉄舟』は次のように述べている。

 「鉄太郎。武芸は剣のみに限らぬ」
「は?」
「例えば、槍だ。お前は槍を剣ほど使えるか」
「槍術は知りません。しかし、先生・・・」
「しかし、何だ」
「特に槍術を学ばなくても、剣の道で奥義を極めれば、相手が何で来ようと、立派に対応できると思います」
「本当にそう思うか」
「はい」と鉄太郎はきっぱり言い切った。
 
 多分、このような会話が鉄太郎と井上清虎の間で交わされたのだろう。
 
その会話の結果は鉄太郎を山岡静山のもとへ連れて行くことになった。
 
山岡静山の屋敷は小石川鷹匠町にあった。近い将来、この屋敷の主として住み着く身とは知らず、鉄太郎は井上清虎とともに向った。

 山岡静山の屋敷は高橋泥舟の屋敷とつながっていて、現在の地図で説明すると、東京メト丸の内線の茗荷谷駅から春日通りに出て、後楽園方向に向って歩くと小石川四丁目のバス停があり、そのすぐ先が播磨坂である。春は桜並木で美しい公園通りとなっているが、その播磨坂を春日通りから入ったすぐのところ、そこに山岡静山と高橋泥舟の屋敷があった。茗荷谷駅から歩いて五分である。今はマンションとなっていて昔の面影はないが、文京区教育委員会が平成17年3月に住居跡の説明文を掲示してくれ、現住所は小石川五丁目である。
 
井上清虎が山岡静山の屋敷へ連れて行った理由は明白である。剣の腕前に驕慢な感じが表れてきた鉄太郎に、上には上がいることを教え、高慢な鼻をくじいてもらおうというのである。
 
当時の山岡静山、槍をとっては天下無双の名声を得ていた。そのことは鉄太郎も知っていた。ただ、いままで一度も面識がなく、手合わせしたことがなかった。
 
井上清虎と山岡静山は旧知である。まず、玄関先で静山に鉄太郎を紹介すると、さすがに静山は玄武館の鬼鉄の名は知っていて、井上清虎が鉄太郎を連れてきた目的を直ちに察し、道場へ案内してくれる。
 
道場は静山の外祖父高橋義左衛門の屋敷にある。つまり、静山の弟の泥舟が養嗣子になって家督を継いだ高橋家の庭に建てられていたが、高橋家も元高四十俵二人扶持の下級旗本であったから、玄武館とはとうてい比較にならない狭くみすぼらしい道場である。山岡家と高橋家は自由に行き来できるように塀の一角から通れるようになっていて、道場内からは激しい稽古の声がしている。まだ、道場主の高橋泥舟はまだ城から戻っていないが、静山はつかつかと道場内に入り、そこで稽古していた弟子の一人に鉄太郎との立合いを指名した。
 
玄武館の鬼鉄の名は知れ渡っているから、指名された弟子も鉄太郎の腕前を承知している。鉄太郎は支度をして竹刀を持った。相手は当然に槍。鉄太郎にとって始めての槍との立合いである。
二人は道場の中央に相対した。

鉄太郎はいつものように眼光鋭く相手をにらみつける。
たが、相手も静山が指名するほどの遣い手、その上、玄武館の鬼鉄であるから警戒して慎重に構えた。
果たしてこの勝負はどうなったか。

次回に続く。

投稿者 Master : 2008年04月05日 14:52

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