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2010年06月17日

新たなる環境化へ

山岡鉄舟研究 新たなる環境化へ
   山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
 

清河八郎が暗殺された翌日に、幕府当局は関係者の処分を行った。主な処分者の内容は以下であった。
高橋伊勢守(泥舟)・・・御役御免の上蟄居
 山岡鉄太郎・・・・・・   同じ
 松岡 万・・・・・・・   同じ
 窪田冶部右衛門・・・・御役御免の上差控・・・後に小普請入り
いずれも御役御免であるが、泥舟、鉄舟、松岡は蟄居、窪田は差控えである。

蟄居とは「自宅の一室に謹慎、外出は許されない」処置であり、差控は「自宅に謹慎ではあるが、行動はあまり制限されない、外出も可能」というもので、蟄居よりは処罰が軽く、加えて、小普請入とは御役御免なのであるから当然で、窪田に対する処罰は実質無罪と同じであった。

それを証明するように、窪田は二カ月後函館奉行に再登用され、その後すぐに神奈川代官となり、続いて西国郡代に就任している。

このような窪田の登用を考えると、やはり「村摂記」(『未刊随筆百種第三巻』 編者三田村鳶魚 中央公論社)に記されていたように、清河暗殺は窪田冶部右衛門の協力によって行われたものであり、同じ浪士組幹部であったため、表面上一時的に処罰めいた処分をしたが、実際は論功行賞としての人事が行われたと考えるのが妥当であろう。

ここで今まで分析がなされず、書き残した事を追記したい。窪田の息子の泉(千)太郎についてである。神奈川奉行所で奉行の次の組頭という幹部である泉太郎が、何故に清河暗殺の場面にいたかということである。

横浜には外国施設が集中し、長崎の出島のごとき対応になっているので、横浜に通じる道筋には関門・番所が設けられ、通行人改めや荷物の検査を行っている。したがって、簡単には横浜を事前視察することはできない。そこで、清河は窪田冶部右衛門を通じ、泉太郎への紹介状を書かせ、清河と鉄舟他二名で横浜視察に出かけることができた。四月十日のことであった。

この視察で鉄舟がひとつの事件を起こしたが、それは鉄舟から泉太郎に送ったサインであったとの推察はすでに触れた。

そのサインとは「清河は頑強な攘夷派の大物である」というものであったが、それを受け泉太郎は父親冶部右衛門に通告し、具(つぶさ)に清河について調べ抜いた結果、清河の視察目的が「横浜焼き討ちを」であることを知り、驚愕した。

仮に、これが実行された場合、親子共々処分は免れなく、罰せられ、お家断絶になる可能性大だ。ならば、積極的に防止策に参加するしかない。幕府が計画している清河を亡きものにすることへの協力、それが「村摂記」に記された内容であった。

さらに、泉太郎には、より確実に事前視察させた失点を挽回させるため、組頭という要職でありながら、清河に手を下すことへ直接参加させたものと推察する。

因みに、清河を横浜に入れてしまったことを比喩して考えれば、パレスチナの過激派リーダーを、イスラエル側陣地に入れてしまったことと同じだと思えば、事の重大さが理解できる。

さて、清河暗殺の犯人が、佐々木只三郎他であったと判明するのは、ずっと後のことであるが、不思議にこれら暗殺参加者は、終わりを全うしていない。

そのことを泥舟が次のように書きのこしている。(『泥舟遺稿』島津書房)
「因みに記す、正明(清河)を要撃したる連類者は、一も其終を克(よく)したるものあることなし、金子與三郎は、薩邸打拂の時流(ながれ)丸(だま)に当たりて死し、佐々木只三郎も、伏見の役に流丸に斃(たお)れ*、速見又四朗も同じく流丸に当たり、一時その瘡(きず)平癒せしと雖も(いえども)其後その跡瘡と変し、之れが為めに死す、高久某(高久保二郎)は公用を帯び、早追(昼夜兼行で早駕籠を飛ばした使者)にて凾嶺(箱根)を越ゆる時、俄然背に疼痛を覚え、日ならずして死し、永井某(永井寅之助)は自宅に於て頓死す、獨(ひとり)窪田冶郎(部)右衛門は幸ひに天壽を以て終るが如しと雖も、子孫先だちて死し、今は一家斷絶して、祀らざるの鬼となれり、古来有為の士冤(うらみ)を呑んで死する者皆曰く、死して知ること無くんば則ち己む、苟(いやしく)も知ることあらば、要(かならず)唯獨り死せずと、此言信ずるに足らずと雖も、匪(ひ)謀(ぼう)を遂ぐるものゝ終を克くせざる事、今古一轍に帰す、亦以て殷譼(いんかん・戒めとする前例)(鍳となすべき而巳(のみ)」

また、窪田泉太郎も鳥羽伏見の戦いにおいて最後を遂げている。(『窪田冶部右衛門の賦』西沢隆治)
 上記のように、泥舟が清河暗殺者の境遇について語っている背景には、清河という人物を高く評価していたという事実がある。そのことを清河との初対面での印象を次のように記していることで分かる。(『泥舟遺稿』)

 「鐵太郎(鉄舟)正明を率ひ来りて予に見へしむ、予初めて正明に面し、其風采を熟視するに、天性猛烈にして、義気強邁、身材(体)堂々として、威風凛々たり、音聲鐘の如くにして、眼光人を射る、予一見して超凡の俊傑なるを知る」

 いずれにしても泥舟と鉄舟は、清河暗殺を機に謹慎蟄居となった。

 しかし、この謹慎蟄居に関して泥舟と鉄舟が別なる見解を遺していることについて触れておきたい。どちらも通説とは異なるが・・・。

 まず、泥舟遺稿によれば、泥舟は様々な局面で幕府に建言したが、いずれも用いられず辞職したが、逆心の疑いありとして無期限の幽閉を命じられたとある。

 次に、鉄舟については「おれの師匠」(小倉鉄樹)に次のように書かれている。

 「どうして山岡が謹慎申し付けられたかといふと、それはかういう譯なのである。
 御殿山にどこかの公使か忘れたが(多分英国だったと思ふが)公使館が設けられた。ところが世の中が物騒なので、麾下(きか)*の旗本三百人程にその守護を仰付けた。攘夷熱の盛んな折柄、毛唐人の警護は心外千萬であるといふので、一同申し合せて公使館の警衛に行かなかった。すると「幕府の命令を聴かぬ不届き者は切腹を申付ける」という厳命があった。それをきくと一人減り二人減って段々残る人数が少なくなって来た。『愈々明日は切腹である』となったらその前夜まで残ったのが僅か六十人ぎりになってしまひ、切腹当日は山岡一人になった。

『愈々おれ一人か』と山岡は朝から身を淨め、衣装を着替へて上使の来るのを待ち受けた。やがて上使が見えた。山岡はそれを上座に招じ、慇懃に挨拶して断罪の旨を承った。切腹と覚悟をきめていたところ、案外にも『殊勝に付き切腹を免じ謹慎を仰付ける』とのことであった。かうして山岡の門前は青竹で囲はれ、山岡は一歩も外へ出ることが出来なく、同志の連中は夜陰を図って裏口から出入していた」
 
 さて、泥舟と鉄舟は謹慎蟄居となり、行動は制限された。勿論、外出は厳禁。日課の剣にもふれない。月代も髭を剃ることも遠慮しなければならないので、たちまちのうちに二人とも頭髪はぼうぼうとなり、髭は伸び放題となった。 

こういう逆境におかれた時、人はその本性が出るものである。
どうしてこのような境遇になったのか、そのことを嘆き、憂い、そうなったことを自分以外の要因に求め、不満を述べ続け、挙句の果てに自暴自棄に陥り、酒浸りとなる。

また、得てしてこういう生活状態になると、いつも気持ちが落ちつかないので、心中穏やかならず、不満がさらに講じ、結局は身体の変調となって、自分自身を失っていく。

しかし反対に、今の逆境に立ちいたったのは、何か自分自身へシグナルを送ってくれたのだと受け止め、だからこそ、それに正しく対応することが必要だと気づき、今までできなかったことをしてみようと考えつくと、順調時に見えなかった自分のことが分かっていく。つまり、自分自身を内観視することにつながるのである。

鉄舟は当然に後者であって、少年時代から思考と行動を一致させようと修行してきた人間であり、そのプロセス経緯を記録として次のように書きのこしてきた。

① 嘉永三年(1849)十五歳  修身二十則
② 安政五年(1858)二十三歳 心胆錬磨之事
③   々            宇宙と人間
④   々            修心要領
⑤ 安政六年(1859)二十四歳 生死何れが重きか
⑥ 万延元年(1860)二十五歳 武士道
⑦ 元治元年(1864)二十八歳 某人傑と問答始末
⑧   々            父母の教訓と剣と禅とに志せし事
⑨ 明治二年(1869)三十三歳 戊辰の変余が報告の端緒

この後、明治に入ってからも記録は続くが、上記の⑥「武士道」から⑦「某人傑と問答始末」の間、約四年間であるが、この期間何も書きのこしていない。

この空白の期間は何を意味しているか。それは、清河と知り合い、清河を中心として結成した尊王攘夷党、別名「虎(こ)尾(び)の会」ともいう勤王鎖国論者同士の秘密結社をつくった以後、清河が暗殺された期間までと一致している。

つまり、この四年間は攘夷運動の中で行動の期間であったのであり、謹慎蟄居を受けて再び思惟の時間になって、最初に書き示したのが「某人傑と問答始末」であったのである。

ということは、この「某人傑と問答始末」の内容が、清河暗殺に関する総決算的な心情を述べていると思われる。

その通りで、「某人傑と問答始末」の中で鉄舟が議論している相手は、氏名を明示していないが、清河であると推察されているが、その概要は以下である。

「このごろ、人傑として名声の高まっている人物がいて、その人物が鉄舟に向かって、貴君の心が君のため、国のため、人のために身命を賭している覚悟になっているかどうか疑わしいと迫ってきた。
これに対し、君のため、国のため、人のために尽くすということは、自負心であり、自惚れに過ぎないと答えると、彼の先生は大いに怒って、それはどういうことだと問い詰めてきたので、次のように答えた。
人間にはこの世において行わなければならない仕事がある。そのことについて、君のため、国のためなどと、もったいをつけるのは、ただの口実に過ぎない、もっともっと踏みこみ、虚心坦懐にその理の意味を理解すれば、君のため、国のため、人のためなどと洒落ごとを言う気にならないはずだ。

こう述べると、彼はうなずいた。さすが名士といわれるだけのことがあり、何か大事なことを悟って、それ以後はずいぶん親切な対応に変わった。
だが不幸なことに、抱負が遠大に過ぎ、また勝気な精神のため、俗世界から非難され、ついに刺客によって殺されてしまったのである」

この記録から考えられることは、清河という人物を高く評価しつつも、さらに深く清河を考察すれば、やはり何か無理があったと言いたいのであろう。

いずれにしても、謹慎蟄居の日々が続いた。

しかし、鉄舟のような人物には、逆境から這いあがらせる事件が顕れて来るものであって、その事件に対してどういう態度で対応するか。それは鉄舟が持っている本来の判断力にかかってくる。

事件は文久三年(1863)十一月に発生した。江戸城二の丸炎上である。お城が燃えているのであり、直参旗本であるならば、直ちに火消しに馳せ参じなければならない。

だがしかし、今は謹慎蟄居を命じられている身であった。屋敷から一切外部に出られない環境下、鉄舟と泥舟はどう対応したのだろうか。人は事件時の対応でその本性が出るものである。次号に続く。

投稿者 Master : 2010年06月17日 10:48

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