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2013年05月25日

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の五

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の五 
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

慶応三年(一八六七)から明治初年までの明治天皇は、その後の偉大な治世を重ねるために必要な、政策策定と推進の準備期間であったことを、5項目に整理して前号で紹介したが、その補足としていくつか加えたい。

まず、慶応三年十二月九日、王政復古の大号令によって、慶長八年(一六〇三)に家康によって始まった徳川将軍家の系統が終りを告げ、建武中興以来五百余年ぶりに天皇親政が復活したことを、日本駐在の外国使節に対し、翌慶応四年(一八六八)戊辰正月十日(太陽暦一八六八年二月三日)の日付で表明した。

「日本の天皇(エンペラー)は各国の元首および臣民に次の通告をする。将軍徳川慶喜に対し、その請願により政権返上の許可を与えた。今後われわれは国家内外のあらゆる事柄について最高の権能を行使するであろう。したがって天皇の称号が、従来条約締結の際に使用された大君(タイクーン)の称号に取ってかわることになる。外国事務執行のため、諸々の役人が我らによって任命されつつある。条約諸国の代表は、この旨を承知してほしい。」睦仁(印)

この文章は、英国が授受した漢文原文をアーネスト・サトウが訳し、その著書「一外交官の見た明治維新(下)」に記したものだが、この公式外交文書は少年明治天皇による明確な指示で書かれたとは思えなく、当然に明治新政府に関与する政策推進者によって意図されたと理解するのが妥当であろう。

同様に、慶応四年三月十四日の国是五箇条御誓文の発布から、その後に続く諸改革・政策の数々と、生活スタイルの変化は、若き明治天皇に対する教育の意図を含めたものであって、その結果として明治天皇は徐々に近代ヨーロッパ君主のように、国民の前に姿を現す方向に向かっていった。

その一つの変化は天皇に対する尊称変化である。それまでは天皇に対しては「お上」と申し上げていた。だが、明治維新後は公私の文書に「陛下」が尊称として使われだした。

この「陛下」の陛とは中国では宮殿の階段を意味し、そこを家来が戟(ほこ)を持って守っていた。奏上のおり、直接天皇に声掛けるのは畏れ多いとして、この階段の下にいる家来に取り次いでもらうのが例式で「陛下」の尊称が起こり、秦の始皇帝の時に、この尊称は天子を指すものと決められたという。

この「陛下」が維新頃から多く使われだし、「お上」「天子様」と併用されていたが、日露戦争後には「陛下」に定着した。

次の準備は、明治天皇の外見容姿と、所作・挙止の矯正であった。それまでの天皇は、大奥の暮しで身についたと思われる一種独特の歩き方であり、着ている衣装と化粧を施した顔は、一般的に見て少し異形といえ、その指摘は大久保利通などの重臣たちからも、ヨーロッパ人によっても指摘されていた。

例えば、駐日イギリス大使であって、イギリスきっての日本通であるヒュー・コータッツィは「ザ・ファー・イースト」誌の1872年(明治五年)の記事から引用し「まだブーツを履き慣れていないせいか、足取りが幾分おぼつかない」と書き、1873年(明治六年)に天皇を見たブラッシー男爵夫人の「脚は、まるで彼の持ち物ではないかのように見えた。察するに、ふだんあまり使っていなくて、正座していることが多いからだろう」についても引用指摘している。(Victorians in Japan)

もうひとつ重要な指摘事項は、明治初期における一般民衆の天皇に対す理解レベルであった。ほとんどの平民は、天皇に対して何も関心を示さなかったのである。

武門が天下を掌握し、その後の徳川幕府時代を通じ、天皇という存在は幾重にも囲まれた御所奥深く隠された神秘の中に永くあったから、その存在すら民衆には認識されていなかった。

それが、突然、明治維新を期に国民の前に天皇が君主として顕れたわけで、理解されるための対策が急務であって、それが明治五年四月二十八日に布告された中国地方および西国地方への巡幸計画であった。

この巡幸は、やがて天皇が日本全国を回ることにつながったのであるが、それは一般民衆へ天皇が姿を見せる始まりであり、それは後日に達成した「日本国民にとって厳格かつ慈愛に満ちた天皇」というイメージ像へのスタートであった。

最後にもうひとつどうしても述べたいことがある。それは、天皇がその治世で図らずも若さを露呈させたと考えられる事例である。

明治二年(一八六九)一月五日、参与横井平四郎(小楠)が駕籠で退朝の途次、寺町を過ぎた時、凶徒数人が駕籠を襲い、横井は凶刃に倒れた。

横井暗殺の報せが届いた時、天皇は大いに驚き、直ちに使いを横井のもとに遣わし、事の真偽を確かめさせ、負傷した門弟、従僕等に治療手当て、翌日熊本藩主の細川韶邦(よしくに)に横井を手厚く葬るよう命じ、祭資金として特に三百両を賜った。

この明治天皇の敏速かつ心温まる措置は、後年、横井以上に親しい存在だった人達が暗殺された時に見せた天皇の冷静さ、それは個人的な感情は絶対に見せなく、公平無私な態度を貫くことが天皇である、ということを示す行為とはいかにも対照的であって、横井暗殺時の対応は若さがそうさせたと考える。

しかし、横井小楠は偉大な人物であったのは事実で、勝海舟は、維新後にこんなことを言っている。
「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲 だ」「横井の思想を、西郷の手で行われたら、もはやそれまでだと心配して居たに、果たして西郷は出て来たワイ」(勝海舟全集21「氷川清話」講談社)

この横井が何故に暗殺されたのか。捕まった犯人達は以下のように述べている。

「横井は外国人と通じ、キリスト教を日本に流布させようとした軽蔑すべき売国奴である」「暗殺者の一人上田立夫が特に激怒したのは、横井が洋服を着て外国製の帽子をかぶり、築地の外国人地区を散策していたのを目撃したからだった」(明治天皇 ドナルド・キーン著 新潮社)

言うまでもなく、横井の意図するところは日本人をキリスト教に改宗させることは全く考えていなかった。もともと横井は熱心な儒学者であった。だが、実学へと転向し、洋学輸入の奨励、すなわち西洋の経済思想、政治思想を取り入れることに気づいた点で、当時の思想家として希有の存在だった。

「横井にとってキリスト教は、いわば実用主義ないしは合理主義を支える倫理のようなものだった。西洋の科学技術ならびに経済力と、キリスト教との間に密接な関係があることを見出した点で、横井は後年の日本の思想家より洞察力に富んでいた。つまり横井は、近代性とその裏にひそむ倫理との関係を理解したのである」「横井は、普遍的な平和と友愛の観念を説くまでに至り、一種の『一つの世界』説を提起したのである」(ドナルド・キーン)

徳川時代末期に生きた武士達は、いずれも儒教の教育を受けていた。横井もそうであった。しかし、暗殺犯の儒教と、横井の儒教では、時代の動き変化を理解し、取り入れたかどうかに、その差があった。儒教を狭く考えるか、広く考えるかということに通じ、それが横井暗殺犯の処刑が、一年十カ月後になされた背景にもつながっていた。

暗殺犯は福岡藩邸に監禁されたが、暗殺犯はやがて、藩邸内で同情の対象となった。福岡藩主は下手人に寛大な処置がとられるよう請願し、他にも藩邸内で特赦を嘆願する者が多かった。

これは明らかに明治新政府の開化された外観とは裏腹に、昔ながらの外国人嫌いが根強く残っていることを示したもので、儒教精神を持った国民が、世界に視野を広げることが如何に難しいという実態を顕していると判断できる。

この横井を師としたのが元田永孚であって、明治四年(一八七二)五月、明治天皇の侍読に就いたのである。

元田の侍読は、大久保利通の強い推薦によって決定した。当時、天皇の新しい侍読を探していた大久保は、元田の書いた建白書を見る機会があった。この建白書は、熊本県藩知事の意見として朝廷に提出された草案文であった。

「維新に際して天子のお膝もとで凶徒が暴威をむさぼるのは、すなわち朝廷の威光が発揮されていないからである。朝廷の威光が発揮されないのは、王政が実際に行われていないからである。願わくば今後は、天皇陛下が南殿(紫宸殿)に臨席し、その御前で諸大名が奏議し、その公儀を採用して天皇自ら裁断を下すならば、公明正大の政治が行われ、人心も始めて感服することになるだろう。地方に中央の政治教化が及ばないのは、地方官に人を得ていないからである。適宜人材を登用し、広く全国に政治教化を徹底させるべきである。自分のように世襲で地位を得た知事は排除されなければならない。よって、自分はここに謹んで罷免を請願する」

元田の提言の一つは、立法に関する議論は天皇の前で行い、天皇が裁断すべきというものであり、その後の明治天皇が閣議その他多くの会議に熱心に顔を出したのは、元田の感化によるものではないかと思われる。もう一つの提言要旨は、要職官吏の世襲はやめるべきという、この当時では思いきった意見であって、この建白書が大久保のところに渡って、大久保は熊本県知事に元田の人物像を問いただしたのである。

答えは「果たして元田がその任に適するかどうかはわからない。しかし、その人物は間違いなく保証する」であり、この推挙によって元田が侍読に就任したのである。

この元田永孚に対する明治天皇の信任は厚く、政府の重臣達も元田のことは無条件に認めていた。推薦者である大久保利通は、めったに他人をほめないが「この人さえ君側に居れば安心だ」と言い、副島種臣は「君徳の大を成すに一番功労のあったのは元田先生である。明治第一の功臣には先ず先生を推さねばならん」と言った。(ドナルド・キーン)

この元田が最もよく知られているのは明治二十三年(1890)、「教育勅語」の作成に関与したことであるが、その教育勅語の第一次草案を書いたのは中村正直(敬宇)である。

中村は明治三年(一八七〇)、サミュエル・スマイルズの『Self Help』を『西国立志篇』(別訳名『自助論』)で出版、100万部以上を売り上げ、福澤諭吉の『学問のすすめ』と並ぶ大ベストセラーとなった人物である。

この中村の草案は、ついに陽の目を見ず、次に書かれた元田と井上毅案とが折衷されて教育勅語が完成されたと言われている。

この教育勅語と鉄舟の関係が、巷間、論議されることがある。その理由は、鉄舟が明治二十年(一八八七)に自宅で「武士道講話」を行い、この講和の聴講者に中村正直と井上毅もいて、教育勅語に鉄舟の発想が組み込まれているというものである。この件については後日の課題として検討したいが、元田と鉄舟は明治天皇の侍読と侍従として、お互い十分に理解しあっていただろう。

司馬遼太郎が、明治天皇の好きな人物として「山岡鉄舟、元田永孚、西郷隆盛、乃木希典」(司馬遼太郎対話選集4 近代化の相克)を挙げているように、鉄舟、元田共に信頼厚き関係だったが、侍読とは、天皇の側に仕えて学問を教授する学者のことであり、その職務は明快であるが、侍従という職務は漠然としていてよくわからない。

その上、侍従という立場を経験した人物はほんのごく僅かで、特殊な職業であるから、簡単には侍従について解説できない。

だが、この侍従という職務を検討しないと、江藤淳がいう鉄舟は明治天皇の「扶育係」(勝海舟全集11巻 講談社)であるという実態に辿りつけないだろう。

そこで、侍従を経験した人物の著書から、その職務内容を推定してみたいと思う。

昭和天皇の侍従であった入江相政著として「侍従とパイプ」(昭和三十二年 毎日新聞社)と「城の中」(昭和三十四年 中央公論社)があるので、ここから侍従職とは何をするものかを検討してみたい。

最初に、「侍従とパイプ」に興味深い記述があるので、侍従職検討に直接結びつかないが、巡幸時の宿泊場所について紹介したい。

明治天皇は一般民衆へ姿を見せる目的から巡幸が始まり、昭和天皇は戦後の国民慰撫目的から巡幸がなされたが、その際の宿泊場所はどこであったのか。

「いったい御旅行の時に、陛下が宿屋にお泊りになるということは、戦前にはなかったことである。まだ皇孫さまのころ、したがってごくお小さいころ、修善寺の菊屋にお泊りになったのが、たった一つの例外というのだから」

とあるように昭和天皇は、明治天皇の孫の時、つまり、明治時代に一度だけ宿屋に泊った経験のみであり、ここから推定すると明治天皇も宿屋には泊らなかったと思われる。

では、どこに宿泊されたのか。それを明治神宮発行の「代々木 聖蹟を歩く」から見てみたい。代々木の平成二十四年新年号で、明治十一年(一八七八)九月十五日に新潟県へ巡幸された様子が以下のように記述されている。

「雨の中、地元有志の尽力によって開削された新道を通って、天皇は彌彦神社を目指されました。弥彦行在所(五十嵐邸)は、彌彦神社のすぐ前です。現在、跡地の美しい庭園には記念碑が残されています」

このように宿泊された施設は、その土地の素封家と思われる一般人屋敷や、小学校であり、宿屋には宿泊されていない。現在は、ホテル・旅館が主であるから、昔はとは状況が随分異なっている。 

さて、侍従という職務において、天皇と関わりと思われる記述を拾ってみた。

1.昭和十年の夏のことである。そのころ世間は少し異常であって、皇室に関することで、なにか失言したりすると、すぐ不敬よばわりをされ、そのために地位を失ったりすることがしばしばだった。とろがこの根元のような君側においては言論の自由は徹頭徹尾保たれていた。太平洋戦争中もそれは完全に保たれていて、吉田元総理が憲兵隊につかまったころも(注 昭和20年4月)、われわれは敗戦必至を論じて合ってはばからなかった。(侍従とパイプ)

2.私たちは、陛下とお話をする時にも、なにもそんなに、大袈裟な語法を使いはしない。第一そんな特別な語法が、日本語の、ことに口語にあるわけもないし、それに敬語というものは、さあそれではこれからひとつ使うことにしよう、というような性質のものではないのだから。私はだいたい、私にとって大事な、老先生と話す時のと、あまりかわらない言葉でお話ししている。(侍従とパイプ)

3.昭和十年の暮に、経済視察団がブラジルから帰って来た時、その団長のH氏の進講があった。話がいちおう終わったところで、陛下がいろいろおたずねになったら、H氏は「そんなこというたかてあんた、ブラジルのような広い国では・・・」とやった。つまり土地の広さがけたちがいなので、陛下の御質問のようなことは、ブラジルにおいては問題にならない、というわけなのだが「そんなこというたかてあんた」という天衣無縫の表現の美しさは、陛下もふくめたその一座を強く打ったもので、それゆえに私も今もってその時の楽しさを忘れることができない。こういうことをだんだん考えてくると、敬語法というものよりもっと手前に、あるいはもっと上に、より大切なものがあるわけで、当然のことだが、誠意とか親愛感とかいうものが、満ちあふれていさえすれば、敬語法などというような瑣末な手続は、どうでもいいということになる」(侍従とパイプ)

4.二十何年の間には、御意見と意見が合わなくて、激論になったこともある。陛下も元来非常に大きな声だし、私も決して小さいほうではない。わきで冷静にきいていたら、さだめし相当な騒音だっただろう。私はほとんど遠慮なんかしていない。ずいぶんふてぶてしいやつだとお思いになったろうし、今でもおもっていらっしゃるかもしれない。しかしそういうことがあっても、全くただその場かぎりのことで、後までひっかかりになったようなことは一度もない。(城の中)

これによると侍従とは、特に決まった業務があるわけではないが、常に天皇と親しく接し、遠慮なく天皇に物事を発言できる職務であることがわかる。

それと天皇は、直言を受け入れる度量の大きさをお持ちであったことがわかるが、驚くのは昭和二十年四月時点で、侍従が敗戦必至を唱えていたことである。これの意味するところは、玉音放送の数か月以上前から、ご聖断の覚悟があったことへつながるだろう。

侍従に定まった業務がないことは、鉄舟の内弟子だった小倉鉄樹著「俺の師匠」(島津書房)に、鉄舟が宮内省を辞めた明治十五年五月に

「これで伸々した。宮内省にいたって何の用もないのだ」と述べ、さらに、
「陛下は色々の事についてよく臣下と御議論なされた由であるが、其の折阿諛(あゆ)迎合する者を、お嫌いになり、假令(たとい)どんなにお言ひ負けになっても、それがために其の臣下を遠ざけられるようなことはなかった由に拝聞する」とある。

また、渡辺茂雄著「明治天皇(時事通信社)」では、侍従である高島鞆之助の回想として「天皇の御身辺には、いつも剛健廉直の士風をもって忠勤をはげんだが、中でも山岡鉄太郎のごときは誠忠無比の士で、ことに少年時代から心身を錬磨しているので、躬行(きゅうこう)もって君に善をすすめることを以て臣子の分とこころえ、直言してはばかるところがなかった」とある。

この中で「躬行もって」とあることに注目したい。「躬」は自分でという意味であり、「躬行実践」とも言うが、どんなに立派なことを言っても、実践躬行が伴わなくては人がついて来ないという意味である。

鉄舟がその生涯をかけて追究したのは「剣の道」であって、「剣の道」を通じてその人間の完成である大悟境地に至り、明治二十年の「武士道講話」につながったのであるが、この講和の最初で次のように述べている。

「拙者の武士道は、仏教の理より汲んだことである。それもその教理が真に人間の道を教え尽くされているからで、これらの道を実践躬行する人をすなわち、武士道を守る人というのである」

では、この実践躬行する鉄舟はどのようにして明治天皇を扶育したのか。そのためには明治五年以降の明治天皇治世の分析が必要となる。次号に続く。

投稿者 Master : 2013年05月25日 11:02

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