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2008年09月11日

鉄舟の新婚時代・・・貧乏生活その一

鉄舟の新婚時代・・・貧乏生活その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

安政二年(1855)に、鉄太郎(鉄舟)20歳と山岡英子16歳は結婚した。まだ少女からぬけ出たばかりの面影を残す英子と、ボロ鉄、鬼鉄と称された無骨な大男、その二人の新婚生活は尋常一様でなかった。
初夜の翌朝、鉄舟は、昨夜の初めての経験で、夫の前で恥ずかしく顔をあげられない気持ちの英子に向かって、やさしい情緒的な言葉をかけるのでなく、懐からお金を差し出した。
「俺はこれしか持っていない。これで何とか次の禄米が出るまで頼む」と投げ出したのが、僅かのお金であった。

飛騨高山の代官であった父を亡くし、その際に鉄舟に残された遺産は三千五百両という大金であった。この三千五百両という金額、これについては、いろいろ条件をあげて試算した結果、今の金額に換算し、億円単位となる大金であることは既に述べた。(2007年8月掲載号) 

この大金は、剣術師範の井上清虎の勧めもあって、弟たちを養子に出す持参金に使った。当時の旗本・御家人は生活に困窮している者が多く、身元確かで多額の持参金のある子どもは、引き取り手が多く、五人の弟に各五百両をもって養子に出し、兄の小野鶴次郎にも渡し、鉄舟は残り百両だけ手許に置いた。

したがって、百両というお金が、英子との結婚に際し持参金として、ある程度使ったとしても、まともならば相当額残っていたはずである。だが、初夜の翌朝ぶっきらぼうに投げ出したお金はほんの僅かであった。

弟達の世話から解放された鉄舟は、剣に、女に、そのお金と若さをぶつけてしまい、結婚する時にはもう僅かしか残っていなかったのである。

一生を金銭に恬淡として生きた鉄舟であるから、これは考えられる事態ではあったが、これからの生活を暗示させる初夜の翌朝の事件であった。

鉄舟は粗雑な人物ではなく、家庭では大声をたてるようなこともなく、英子をいたわり、やさしく接するので、この点では申し分なかったが、金銭と家庭内経営については、全く無関心、無責任ともいえる人物であった。

山岡静山も金銭には欲がなかった。槍一筋の道を貫いて、道場の束脩(入門料)と僅かな指南料で、細々と家計を維持してきた山岡家である。

山岡家は本来、元高百俵二人扶持であるが、鉄舟の弟子であった小倉鉄樹は、その著書「『おれの師匠』島津書房」で、当時の山岡家の経済状況について「山岡家はその当時は没落してたしか二人扶持金一両という足軽身分である」と述べ、注釈として「鉄舟先生長女松子刀自は当時五十人扶持だったかと聞いていると言われた」とも記している。

このような経済状況下の山岡家に入婿した鉄舟は、静山に輪をかけた金銭に無頓着さであったので、日に日に生活は困窮化していった。

ここで少し気になるのは、鉄舟は御城勤めをしなかったのかと言うことである。静山は勘定方として御城勤めをしていた。その後を継いだのであるから、普通ならば勘定方の一員となったはずである。

しかし、鉄舟に関する文献の数々を調べても、勘定方として御城勤めをしていたとの記録はどこにもない。ただ一つだけ南條範夫の小説「山岡鉄舟」に「鉄太郎が山岡家当主として、御勘定方に隔日勤務をすることとなった」と記されているだけである。

鉄舟が一度も御城勤めなきままに過ごしたとすれば、結婚した翌年の安政三年(1856)に新しく設置された講武所の世話役に就任した時、これは実質的には準教官であるが、この時が始めて公的な仕事としての勤務となる。

ここで講武所について少し触れたい。講武所とは、幕末に幕府が設置した武芸訓練機関である。旗本、御家人とその子弟が対象で、剣術をはじめ洋式兵学、砲術等を教授した。

相次ぐ外国船の来航や、列強の近代的軍備に刺激された幕府が、幕政改革の一環として開いたもので、最初築地に講武場として発足したが、まもなく講武所として改組し、万延二年(1861)に現日本大学法学部図書館のある水道橋三崎町の地に移転した。慶応二年(1866)には廃止となり、陸軍所に吸収されて砲術訓練所となった。

講武所は総裁の下に、教官としてその道の大家がずらりと並んだ。

剣術は、男谷精一郎、榊原健吉、伊庭軍兵衛、井上清虎など。槍術は、勿論、高橋泥舟など、砲術は、高島秋帆などであったが、ここで名前を挙げるとキリがないほどの人材が投入された。

鉄舟を講武所世話役として推薦したのは、飛騨高山時代からの剣術の師井上清虎であった。講武所での鉄舟は、すぐに例の強烈な突きで鬼鉄と恐れられる存在なった。

それを証明する逸話が残っている。講武所の稽古が形式的で生ぬるいのに憤慨した鉄舟は、あるとき木剣を構え講武所道場の一寸ばかりの欅羽目板めがけ「えいっ」と、得意の諸手突きを入れた。すると、木剣は一寸欅板を突き抜けるというすごい話が伝えられている。正に「鬼鉄」と言われる所以であり、玄武館の鬼鉄から、講武所の鬼鉄となり、同時にこの異名が江戸市中に広まった。

この当時、鉄舟が講武所の中で、師として尊敬したのは教授頭の男谷精一郎と言われている。
男谷精一郎は直心影流の達人で、当時、剣神と呼ばれていた。直心影流は本来他流試合を禁止いたが、男谷はその禁止を破って、盛んに他流試合を行い、諸国の剣士との試合を一度も拒んだことがないと言われているほどである。

この男谷精一郎と勝海舟は従兄弟同士である。海舟の父小吉は男谷家の三男として生まれ、小吉は勝家に養子に行き、海舟が生まれたのである。海舟はこの男谷精一郎の高弟である島田虎之助から剣を学んだが、一介の剣士から開明政治家として名を成した始まりは、男谷からの忠告からであったと言われている。

その忠告とは「これからは蘭学を学び、西洋の事情に通じなければダメだ」という一言で、赤坂溜池の福岡藩屋敷内に住む永井青崖に弟子入りし、必死の勉強を行って、幕府に海防意見書を提出し、老中阿部正弘の目にとまり、幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから念願の役入りを果たし、人生の運をつかむことができたのである。

その後、江戸無血開城時に鉄舟が勝海舟と交わることになった背景に、鉄舟が講武所世話役として男谷精一郎に私淑したことも無縁ではない。

鉄舟は男谷から剣を学んで鬼鉄の名を世に知らしめ、海舟は男谷の忠告で蘭学を志したことから世に出た。その男谷と絡む因縁の二人が、江戸から明治への橋渡しに協力しあったことを考えると、人は何か見えない縁で結ばれていると考えざるを得ない。

さて、鉄舟の新婚時代に話を戻したい。

鉄舟は金銭に恬淡として、収入も少ない。熱心になるのは自分の修行だけであり、その上、修行仲間が山岡家に食客として訪れてくるので、その食事の負担が英子の肩に掛かってきて、貧乏生活は日に日に深刻になっていった。

この当時の貧乏話はいくつも伝わっているが、その一つを紹介したい。

ある日、鉄舟の友人である関口隆吉が訪ねてきた。

「御免、御免」
と声をかけたが、誰も出てこない。狭い家なので声は通っているはずだし、気配から見て、家の中に誰かいる様子なので、さらに、大声で声をかけると、
「はい」
と、襖の陰から英子が顔だけ出したが、頬を赤らめて、うつむく。
どうしたのか、何かあったのかと、覗き込んだ関口が、慌てて首を引っ込め、
「や、また来ます」
と、逃げ帰ったことがある。英子はたった一枚の浴衣を選択して、乾く間、襦袢一枚だったので、玄関に出られなかったのである。

夏冬一枚きりの着物で、冬は夏物の裾にボロ綿を縫いこんで、冬物に見せかけたこともあったらしい。とにかく酷い貧乏であったことは事実である。

しかし、鉄舟という人物は極貧の生活に負けず、明るく、どこか子どもっぽい、つまらぬことにやせ我慢をはるという、自分の性格を正直にごまかさずに生きていた。

そのエピソードの一つを小倉鉄樹が次のように紹介している。(『おれの師匠』島津書房)

若い時のこと・・・たぶん二十一歳頃のこと、友人と某氏に招かれてご馳走になった。その席上主人が一杯機嫌で自分の健脚を自慢し、
「おれは明日下駄履きで成田さんにお参りして来るつもりだが、誰か一緒に行くものはないか」
と、一座を見回した。
江戸から成田までは十七、八里ある。それを下駄で一日に往復しようというのだから誰も辟易して返事する者がなかった。

主人はそれと見て、
「どうだ、どうだ」と一人一人訊くのであった。
師匠は主人の傲慢さが癪に障ったので、主人から訊かれると、
「成田なんかなんでもない」
と言った。

「むゝ? 貴公行くつもりか、そいつは面白い。それじゃ明日の朝夜が明けたら直ぐに出発するからそれまでおれのところに来い」
と、約束した。

それからまたいろいろと話がはずんで解散したのは夜の一時過ぎであった。

翌朝山岡が眼を覚ますと、雨がざつゝと雨戸を打って風も加わっている。けれども乗りかかったら屹とやる主義なので、天候なんか眼中に置かず、足駄を履いて、某氏を訪問した。

ところが某氏は昨夜の飲み過ぎで、手拭で頭を縛り、
「とても頭が痛くて行かれぬ」
と閉口していた。

「そうですか、そんなら私だけ行って来ましょう」
と、すたゝ雨の中を出て行った。

其の日の夜十一時頃に再び某氏を訪れた山岡は、足駄の歯がめちゃゝに踏み減って、全身泥の飛沫にまみれていた。

「今、帰って来ました」
と、玄関で挨拶した時には、某氏もさすがに恥ずかしくて、まともに山岡の顔が見られなかった。

今の時代、このような無茶をする人はいないだろうし、バカな行いだと批判するだろう。
だが、鉄舟のこういう捨て身でやりぬく気概があったからこそ、江戸無血開城という一大業績を成り立たせたのだと思う。

人間力の差といってしまえば、それまでだが、今の時代に鉄舟がいたとすれば、どのような気持ちで現代の状況を判断するだろうか。次号もエピソードを続けたい。

投稿者 Master : 2008年09月11日 10:18

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