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2004年10月26日

西郷との会見時における鉄舟の身分・・最終回

1.鉄舟の抜擢昇進
鉄舟が百俵二人扶持の身分では、幕末の混乱期とはいえ、当時の封建体制下では、絶対、将軍に御目見えできない。しかし、鉄舟は慶喜に拝謁している。
この解明を二回にわたって研究してきたが、山田義信氏の「江戸開城論」に書かれている「鉄舟は高級旗本である」という身分になっていれば、当然拝謁できることになる。
 この拝謁できる身分になったのは何時か。その究明が次の研究となるが、江戸時代には抜擢昇進事例も数多くあり、鉄舟が慶喜護衛としての「精鋭隊歩兵頭被申付」に就任している事実から、作事奉行・大目付もありえると考える。

この時代、新撰組の近藤勇は一万石の大名になり、土方歳三は寄合格であるから三千石であるので、幕末当時は混乱時でもあり、当時の常識から離れて、多くの異例状況が発生し、その中で近藤・土方のように直参に採り上げられ、また軽輩旗本身分の鉄舟が異例の抜擢昇進したとしても不思議はない。
 特に鉄舟は将軍の地位を降りたとはいえ、15代将軍であった慶喜の護衛隊頭であったのであるから、大事な職務であるから抜擢昇進はありえると考える。
 また、幕府の昇進制度として足高制度、養子制度、御家人株の売買などがあり、それらを考えると意外に幕府時代は弾力的な人事制度が存在していたと思われるので、鉄舟が慶喜から直接指示を受けたことも不思議でないと判断する。

2.視点を変えて、慶喜側から鉄舟への直接指示があり得るかを検討してみる
参照 小説 渋沢栄一 曖々(あいあい)たり 津本陽
      (曖々・・・薄暗い様 おぼろなさま)
 津本陽の小説に曖々たりがある。渋沢栄一の生涯を描いたものである。
その主人公である渋沢栄一は一橋慶喜の家来であったのであるが、農民であった渋沢栄一が一橋家に採用される経緯が書かれている。
当時、将軍徳川慶喜は一橋家の主であった。一橋家とは御三卿の一つである。御三卿とは八代将軍吉宗の子供と孫が立てたもので、吉宗の二男宗武が創始した田安家、三男宗尹が創始した一橋家、九代将軍家重の二男重好が創始した清水家である。
 小説の中に
「この頃の一橋家では時勢の紛糾にそなえ、浪人、百姓を問わず相当の学問、武芸をそなえる人物であれば、新規召抱えをおこなっていた。
渋沢栄一は現在の埼玉県深谷市の百姓であったが、江戸に出て千葉周作の玄武館道場に入塾し、多くの人物と知り合いとなった。その中に一橋家用人の平岡円四郎がいて知遇を得た。その縁で一橋家の家来になるのである。
 家来になるにあたって、渋沢栄一は慶喜に意見書を提出し、拝謁を願い出た。この拝謁は前例がなく、御目見以下の身分の者を殿様に会わせることはありえないことであったが、平岡は遠乗りする慶喜のところについていく機会を渋沢に与え、慶喜から内々の御目見を仰せつかり、意見を述べたのである。慶喜は黙って聞いていたが、その後無事に渋沢栄一は家来になることが出来た」
とある。

 これを見ると慶喜は権威ということについて恬淡とした人物であったことが解釈できる。
とすると、鉄舟の身分が御目見以下であったとしても、自らの立場が孤立している状況では、身分という権威を超えて行動できるという個性を発揮して、鉄舟に対して直接指示をすることもあったと考えられる。
また慶喜護衛隊頭であれば当然に指示したといえる。加えて、警護責任者として信頼している泥舟の義弟であるということも、信用して直接指示した要因であると思う。

以上、三回にわたって鉄舟が慶喜から直接指示された背景について検討してきた。まだ不十分であるが、この検討内容については今回で一応の区切りをつけたい。検討内容についてご見解があればご連絡をお待ちしています。

投稿者 Master : 2004年10月26日 21:12

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