« ジョン万次郎講演会開催のお知らせ | メイン | 2009年5月例会のご案内 »

2009年04月13日

尊王攘夷・・清河八郎編その一

尊王攘夷・・清河八郎編その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

尊王攘夷論が日本国中に跋扈したのは、嘉永六年(1853)から明治維新(68)が成立するまでの十五年間であり、その後はピタッと消え失せたのであるが、この尊王攘夷の風雲の始まりは「清河八郎の九州遊説から開幕したといってよい」と述べるのは司馬遼太郎である。(幕末・奇妙なり八郎 文春文庫)

さらに、司馬遼太郎は同書で「幕閣老から八郎奇妙なり」と評せられたと述べ、清河が天子に上書したことをもって「奮怒せよ、と無位無官の浪人のくせに天子まで煽動した幕末の志士は、おそらく清河八郎をおいていないだろう」と書いている。

この点を突いて評論家の佐高信は「言葉尻をとらえるようだが、私は『無位無官の浪人』を賛辞としてしか使わない。私自身もその一人であることを誇りに思っている。ものかきは本来そういうものだと思うが、司馬は違うようである」と批判した。(山岡鉄舟 小島英煕著 日本経済新聞社)

清河八郎を主題に取り上げたものに「回天の門」(藤沢周平著 文春文庫)があり、この中で同郷の想いもこめて藤沢周平は次のように語っている。

「清河八郎は、かなり誤解されているひとだと思う。山師、策士あるいは出世主義者といった呼び方まであるが、この呼称には誇張と曲解があると考える。

おそらく幕臣の山岡鉄舟や高橋泥舟などと親しく交際しながら、一方で幕府に徴募させた浪士組を、一転して攘夷の党に染め変えて手中に握ったりしたことが、こうした誤解のもとになっていると思われる。
しかし、それが誤解だということは、八郎の足跡を丹念にたどれば、まもなく明らかになることである」と。

このように清河の評価は分かれるが、幕末の複雑化・混沌化した尊王攘夷の中、清河はどのような役割を果たしたのか。また、その果たすまでの経緯はどのようなものであったのか。それを今号と次号で追ってみたい。それが鉄舟の理解にもつながるからである。

山形新幹線の終点駅新庄から陸羽西線に乗り換え、三四十分で清川駅に着く。駅から歩くと十数分のところに一つの神社がある。清河神社である。鳥居近くに縁起が掲示されていて、これによると創立は昭和八年(1933)で、御祭神は「清河八郎正明公」、由緒沿革に「幕末の激動期に尊皇攘夷を唱え、天下に奔走し維新回天の先覺者として大義に殉じ、明治四十一年特使を以って正四位を贈られる」と書かれている。

清河は天保元年(1830)出羽(山形)庄内・清川村の酒造業斉藤家の長男として出生した。名前を斉藤元司といい、同家は大庄屋格で士分として十一人扶持を与えられている。

余談となるが、清河八郎が亡くなり、妹辰の息子正義が跡を継ぎ、正義は七男四女の子沢山で、四女栄の夫が作家の柴田錬三郎である。(山岡鉄舟 小島英煕著)

元司は七歳で祖父から孝経の素読を受け、ついで論語の素読も受け、十歳で鶴岡の母の実家から清水郡治の塾と伊達鴨蔵の塾に学ぶ。しかし、従順な子どもでなく、十三歳で退学し、清川に戻って関所の役人畑田安右エ門に師事したが、十四歳ごろから酒田の遊郭通いを始めるという早熟な子どもであった。

元司の性格は「ど不敵」であったと藤沢周平が「回天の門」で解説している。

「ど不敵とは、自我をおし立て、貫き通すためには、何者もおそれない性格のことである。その性格は、どのような権威も、平然と黙殺して、自分の主張を曲げないことでは、一種の勇気とみなされるものである。しかし半面自己を恃(たの)む気持が強すぎて、周囲の思惑をかえりみない点で、人には傲慢と受けとられがちな欠点を持つ。孤立的な性格だった」

元司の頭脳は明敏で、師の畑田安右エ門を驚かせたが、この頃、斉藤家に藤本鉄石が立ち寄り、長逗留することになった。

藤本鉄石(1816-63)とは岡山藩士、脱藩して長沼流軍学を学び、一刀新流の免許を受け、諸国を遊歴し、私塾を伏見に開き、文久二年(1862)に真木和泉ら尊攘派と倒幕を計画、翌年天誅組を組織し挙兵したが惨敗、和歌山藩陣営に斬りこんで戦死した人物であって、鉄舟とも後日縁が生じた人物である。

その縁とは飛騨高山時代の鉄舟が、嘉永三年(1850)十五歳の時、父の代参で異母兄の鶴次郎(小野古風)とお伊勢参りに出発したが、その旅の途中で鉄石と出会い、林子平(1738-93)「海国兵談」の写本を借り写し終え、海外情勢を説いてくれた人物であった。

その鉄石が弘化三年(1846)、元司が十七歳のときに斉藤家に滞在したのである。鉄石が鉄舟と出会う四年前である。元司も鉄石から大きな影響を受けた。それはアヘン戦争のことであり、世界には大国の清を簡単に打ち負かす力を持った国々があるという国際情勢であり、長沼流軍学・一刀新流の免許を持つという文武二道の鉄石の生き方であった。

これらの影響もあって、江戸遊学の願いをもち、父に申し出たが、当然ながら跡取りであることから激しく叱られ、とうとう十八歳で家出をして江戸に向った。

元司はいいにつけ、悪いにつけ徹底しなければやめない性格であり、自分自身が押し流されるまでもの集中力をみせ、それが学問にも、遊蕩にもあらわれるのだが、鉄石から広い世界を知った結果は、江戸へという家出になったのである。

江戸で神田お玉が池の儒者、東条一堂塾に入門する頃になって、ようやく事後承諾という形で遊学を認められ、故郷から訪ねてきた伯父たちと一緒に旅に出た。京都、大坂から中国路を岩国まで行き、四国の金毘羅参りし、奈良、伊勢を回った。元司はその後も全国各地を歩き回ることになるが、その最初の旅であった。

最初の江戸遊学中に、斉藤家の跡継ぎを予定した弟の熊次郎が突然に病死となり、帰郷を余儀なくされ、しばらく家業を手伝うことになったが、ここでまたもや放蕩の虫が騒ぎ始め、酒田の遊郭通いが激しさを増し、それがゆきつくところまでいくと、突然の如く、再び学問への望みを志し、父から三年間の許しを得て、今度は京都に向った。だが、京都では良師に巡り会えず、九州の旅に出た。

九州では小倉から佐賀へ、長崎でオランダ船を見物し、オランダ商館に入って異人を近くに見るという経験を踏み、島原、熊本、別府、中津を経て小倉から江戸に戻ったのである。

江戸では、東条一堂塾に入りなおし、東条塾と隣り合わせの玄武館千葉周作道場に入門した。当時、江戸で有名な剣術道場としては、北辰一刀流・千葉周作の玄武館、鏡新明智流・桃井春蔵の士学館、神道無念流・斎藤弥九朗の練兵館、この三道場を称して江戸三大道場と称し「位は桃井、力は斎藤、技は千葉」と評されていた。これに心形刀流・伊庭軍兵衛の練武館を加え、四大道場という場合もある。
元司は二十二歳という当時の剣術修行としては晩学であったが、その分熱心に千葉道場で汗を流して東条塾に帰ると、深夜まで学問に励んだ。

その頃、元司はひそかに、諸国から英才が集まる、幕府の昌平黌に入りたいという気持ちを強く持ち始めた。昌平黌に入るためには、昌平黌の儒官をつとめる学者の私塾に入って推薦を受けなければならない決まりがある関係上、安積(あさか)良(ごん)斎(さい)塾に入った。また、千葉道場の初目録を受けることができ、これは通常三年掛かるところを一年で受けたもので、千葉周作から非凡との誉め言葉を貰うと共に、心中に江戸で文武二道を教授する塾を開けたら、という望みを浮かべたのであったが、ここで父と約束した三年という期間が過ぎ、故郷清川村に戻ったのである。

だが、嘉永六年(1853)のペリー来航から始まった幕末の複雑化・混沌化世情の中で、元司はまたもや江戸へという気持ちを抑えきれなくなり、父へ申し出、ペリーが再来航した安政元年(1854)に江戸に戻り、元司は二十五歳になっていたが、念願の昌平黌にはいることができた。

このときに斎藤元司から「清河八郎」に名前を変えている。清河とは、勿論、故郷清川村の地名をわが名としたのである。なお、この名前については神田三河町に私塾を開設したときに改めたという説もある。

しかし、氏名を改め、気持ちを新たに入った昌平黌は、清河にとって意外に収穫の少ない学問所だった。諸藩から集まった秀才たちは、あまり勉学に力を入れず、集まると天下国家を論ずるという風で、遊びも激しかった。清河はこの雰囲気に馴染めなかった。

さらに、昌平黌の講義そのものが期待するほどのレベルではないことに気づき、失望を味わい、再び東条塾に戻って、昌平黌は自然退学という形になり、東条塾を手伝う、つまり、通い門人に素読をさずけるということを行いながら、自分の中に何かが醸成し、形つくられていくのを感じた。それは、自分の塾を開くことであった。

故郷の父に相談し、開塾の許しを得ると、神田三河町に武家の貸地があったので、ここに建坪二十一坪の新築を行って「経学、文章指南、清河八郎」の看板を掲げた。安政元年十一月であった。

いざ開塾してみると、いたって評判がよく、清河を慕って昌平黌からも、東条塾からも転じてくるものがいて、賑やかな好スタートを切ったのであった。

この評判のよさは容易に推測がつく。当時の儒学者は書籍上の講義だけであったろう。ところが清河は違った。十八歳の家出から始まり、既に日本各地を回っており、長崎では異人オランダの状況も見聞きしたという実践行動は、清河の語り口に従来の儒学者を超えたものがあったはずである。

これは吉田松陰の松下村塾も同様である。松蔭と清河は同年である。松蔭は二十歳まで長州を出たことがなかったが、二十一歳のときの九州半年間の旅に続いて、江戸、東北、ついには安政元年三月、下田に停泊中の黒船に乗り込もうとするほどの行動力をみせた。松蔭の方針は「飛(ひ)耳(じ)長目(ちょうもく)」(遠方のことを見聞することができる耳や目)で「ただ情報を集めるだけでなく、行動せよ」と門下生に教示したことが、明治維新の志士達を育てたのである。

なお、松蔭の松下村塾開設は二十七歳であったが、清河塾は二十五歳での開設という早さであった。
だが、好事魔多しである。この塾は年末の二十九日に、神田三河町一帯を襲った火事で、あっけなく消滅してしまった。

これが今後の清河の姿を暗示する事件であったが、本人は不運とも思わず、父への金策願いも兼ねて故郷に戻ったのである。

戻ってみて、十八歳の家出から二十五歳までの七年間、両親に孝養を尽くさなかったことを悔やみ、母を連れて半年間、周防岩国まで旅をした。北陸から名古屋に出て、お伊勢参りをして、関西から四国、周防を回って江戸を経て戻る大旅行であった。

江戸滞在中、訪ねてくる友人・知人が皆、清河塾の再開を奨めるのを聞いた母は、自分の息子の出来映えを理解し、塾開設にむけて資金援助を申し出たので、早速に薬研掘に売家を見つけ手金を払って、三月二十日から続いた旅を終えるべく九月十日に清川村に戻った。

ここで読者の方々が、少々不思議な感じをもたれかもしれない。清河の旅の道程について詳しく述べたからである。清河は記録を詳細に記していた。鉄舟にはこのような記録はなく、それが研究者に苦労を強いるところだが、清河は違った。

なぜなら、清河は少年時代からよく日記を書き、それが現在でも「旦起私乗(たんきしじょう)」三冊、「私乗後編」三冊、「西遊紀事」一冊、計七冊が遺っていて、「旦起私乗」は生年より十七歳頃までの父母より聞いたこと、十八歳からは日録となっていて、清河八郎記念館に保管されている。また、「西遊紀事」は母を連れた旅の半年間の記録であるが、これが「西遊草」(清河八郎著 小山松勝一郎校注 岩波文庫)として出版されている。

もうひとつ大事な特徴は、清河の旅の多さである。この時代、基本的に目的のない旅は本来許されていなかったはずで、それは農民の離散を招く恐れから農業生産の低下をもたらすことに通じ、年貢の減少につながるからであった。商工業者にとっても同様であり、また、住所不定の輩が増えることは治安の問題を引き起こすことにつながるので、江戸では無宿人狩りが頻繁に行われていた。とにかく人の移動を自由にするということは、住所不定の人間を増やすことにつながるからである。

だから旅は本来難しいはずだが、清河が旅した回数は当時としては異常に多い。例外的であろう。松陰も旅をしたが、松蔭は武士であった。清河は士分とはいえ出自が異なる。その出自を埋め合わせるような旅の多さであり、その旅の記録を残すという勤勉な行為、その結果は清河の頭脳に各地の実態が刻み込まれ、それと学問と剣術が加わり、攪拌され、多分、清河は当時の最先端人間になっていたであろう。

つまり、時代の動きを体現していたのであり、それが、幕臣として動きの不自由な鉄舟や泥舟をとらえた真因であろう。次回も清河分析がつづく。

投稿者 Master : 2009年04月13日 11:40

コメント

コメントしてください




保存しますか?