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2010年03月10日

山岡鉄舟 清河暗殺その二

山岡鉄舟 清河暗殺その二
  山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

清河八郎は、文久三年(1863)四月十三日の午後三時ごろ、江戸麻布の出羽三万石上山藩の上屋敷を退出し、一の橋を渡りきったところで暗殺された。

佐々木只三郎以下の暗殺チームによってである。その経緯は別途述べたいが、幕府はその翌朝には、残された浪士組の宿舎を取り囲むため、荘内、小田原等六藩の兵二千名を動員した。この時を待つように周到な準備をしていたのである。

この頃、浪士組は京都から戻った二百数十名に、江戸で新たに加わった百六十名程、計約四百名となっていたが、浪士組人数の五倍にあたる二千名を動員したこと、これが京都から帰ってくる途中の中山道で、清河を暗殺できなかった理由を意味している。

京都を出る直前、清河暗殺隊として、旗本の中で屈指の使い手である佐々木只三郎他六人が投入されたのであるから、一対一でも、また、策を弄し、取り囲み、斬ることは可能であった。だが、それを実行し得ず、暗殺したのは江戸に戻ってからであった。

理由は、清河を道中で暗殺することは危険性が高い、と幕府が判断したからである。

その一つの理由は、道中で清河を斬った場合、一緒に江戸まで戻りつつある清河を頭と仰ぐ仲間たちが、おとなしく帰順し、捕縛され、そのまま江戸に戻るとは考えられず、凄絶な死闘が繰り広げられることになり、幕府側もかなり傷を負うことになる。

さらに、清河を斬った後、残りの浪士組メンバーがどのような行動にでるか、それが向背不明であって、反乱ということも予想される。確実に相手を抑えつけ、反攻の戦意を失わせ、混乱を起こさないためには、通常相手の三倍から五倍の人数を要するだろう。

仮に、その人数を動員しようとするならば、道中であるゆえに、幕府の名において中山道筋の藩から兵を出させることになるが、浪士組二百数十名を考慮すると、最低でも千人余の兵が必要になる。

しかし、当時の諸藩における兵の動員力は、十万石大名でもせいぜい千人であった。家康から家光の戦国気分がさめやらぬ時代では、十万石大名で二千名の兵を優に動員できたが、二百五十年も続いた天下泰平の結果、各藩動員兵力は半減してしまっている。

したがって、浪士組に対応する兵力の動員には、一藩では無理で、数藩に依頼することになり、それも騒ぎが起きてから老中に報告、それから街道筋の藩主に動員協力を指示することになり、そのための手続きが煩わしく、かつまた、実際に兵士が動員されるまでには時間を要するであろうから、その間、騒乱は続き、かえって幕府の権威を落とすことにつながる。このような見通しを持ったのであった。

結局、中山道において清河暗殺は無理であった。高橋泥舟浪士取扱いの役目は道中の乱暴狼藉を少なくし、無事に江戸に着くことを目的とし、暗殺隊の佐々木只三郎他六人は、江戸に戻ってから、その時のための念入りな計画をつくるため、中山道を清河と共に歩いたのであった。

ところで、この当時幕府には、この清河をどうしても暗殺しなければならない、新たな強い背景が発生していた。

清河が幕府に対し浪士組献策を行い、そこから進めて来た一連の行動は、結局、体制と権力は利用するが、幕府を無視して朝廷から勅諚を賜ったことを含め、成果は自分の益にするものであって、結果として清河の存在自体が憎しみをもたれ、それが清河の身に翳してくるのは当然で、暗殺命令が幕府体制側から出され、京都出発時に六人の刺客が放たれた理由であった。

だが、しかし、江戸に戻ってみると、もっともっと重要な外交問題が関係しており、清河暗殺は焦眉の急となっていた。

それは、清河を生かしておくと、生麦事件から発した国際的な大問題にもつながっていくからであった。

生麦事件とは、島津久光が幕政改革を目指し、勅使大原重徳とともに江戸に向かい、その目的をほぼ達し帰国の途中、東海道生麦村を通りかかった際に発生したイギリス人殺傷事件である。文久二年(1862)八月のことであった。

イギリス本国は激怒し、文久三年の年明け早々イギリス外務大臣ラッセルから賠償金支払いと、これを拒否する場合は横浜港の艦隊が武力行動に出るなどの厳しい通告がなされ、幕府は進退窮まっていた。

というのも、朝廷からは攘夷実行を督促され、生麦事件に関するイギリスからの要求は一切拒否すべき
と朝議されたほどであったから、イギリスに賠償金を支払って艦隊からの攻撃を避けることもできず、しかし、イギリスに賠償金を支払わなければ、イギリス艦隊の攻撃に対し、勝算はないものの応戦することになる。

イギリス艦隊との戦力差を知る幕府は、結局賠償金の支払いを受け入れることになったが、支払い条件などで頑強に抵抗し、期限を延ばしに延ばし、イギリスも延期に応じたが、戦争開始の噂が巷間に流れ、幕府も一方では勝算なきものの、諸藩に合戦準備を命じ、家族たちを国許や知行地に避難させ始め、その動きに江戸市中や横浜は大混乱に陥っていた。

この当時の外交交渉について「幕末・維新」(井上勝生著)は次のように表現している。

「外国奉行は、要求に応じられない『真の問題』は攘夷派大名の反対があるからだと説明する。英仏の外交部は、攘夷派大名を倒すために軍事援助の用意があると申し出た。外国奉行竹本正雅は、即座に『幕府は自分の手でかれらを屈服させたいし、且つ屈服させるつもりである』と拒否する。

激しい応酬があった日英仏の外交交渉の様子は、英仏外交文書を駆使した萩原延壽の大作『遠い崖』に再現されている。江戸と横浜を往復し、戦争回避の外交交渉に孤軍奮闘した外国奉行竹本は、当時は目立たなかったが、有能で誠実な幕臣であった。そのころ、江戸での外交の現場にいた旧幕府外国掛出身で、のちに明治政府の外交官になる田辺太一は『幕末外交談』で、そのように回顧している」

もう少し苦しい幕府の外交交渉をつづけたい。

「一八六三(文久三年)五月、ようやく賠償金支払い交渉が分割払いでまとまってゆく。そこに朝廷から届くのが攘夷実行の勅であった。そのため、突然、償金支払い停止が、幕府からイギリス側に通告される。イギリス外交部は、海軍の手に事態をゆだね、横浜は緊張の極に達した。幕府側は、事態をありのままに説明し、イギリスは、事態の解決の見通しと期限を問い、再度、英仏共同の軍事援助を提案するが、幕府はやはりことわった。

攘夷実行期日の前日(五月九日)、幕府は、朝廷の制止を無視して賠償金全額を一度に支払い、そして、横浜鎖港の外交交渉にはいることを宣告した。

生麦事件償金支払いを知った京都の孝明天皇が『震怒(しんど)』し、自筆の勅書を幕府に発する。『皇祖神に対したてまつり、申し訳これなく』、『たとえ皇国、一端、黒土になりそうろうとも、開港交易は決して好まず』、と。開港交易は、皇祖神(天皇の先祖)に対して申し訳ないという。日本の一部(江戸)が『黒土』(焼け野原)になっても、開港は拒めと。続く文章では、『不心得の儀、唱えそうろうもの』には、『きっと沙汰』あるべしと。『不心得』とは、江戸の外国奉行竹本らのことである。ついで、戦争が始まることを予期し、風(かぜ)日祈宮(ひのみのみや)(伊勢市。蒙古襲来に神功があったとの伝説をもつ)に神助を祈った。かつて堀田が言った『正気の沙汰とは存じられず』という事態が繰り返されたのである。

イギリス艦隊七隻が、本国外務省訓令に従って、鹿児島湾に入る。七月初旬、暴風雨のなか二日間、砲撃戦がつづいた。旧式砲ながら薩摩藩砲兵は、実戦を想定しなかったイギリス側に戦死者十三名という損害を与えた。

一方、イギリス側は、110ポンド・アームストロング砲を含む砲撃で圧倒的威力を示し、鹿児島市街を焼失させる。アームストロング砲は後装施条式の巨砲で、イギリス海軍は、薩英戦争で初めて実戦に使用した。戦況自体は、イギリス軍の被害も大きく、勝敗不明という評価も出るほどである」(幕末・維新)

文久二年八月に突発した生麦事件は、一年経過後の文久三年には、上記のように激しく、苦しい、厳しい外交交渉の連続となっていたが、まさに、その途中に浪士組が京都から江戸に帰着したのであった。

江戸に戻った清河の目的は明確である。それは「虎尾の会」の盟約書に記していた横浜の外国人居留地の焼き討ちであり、その先に攘夷挙兵という壮大な企みであった。

ここで冷静になって考えてみたい。幕府は生麦事件の後始末で苦しい外交交渉を強いられている。朝廷からは賠償金の支払いは拒否するよう勅命があり、一方では戦争回避をしなければならない。結局、幕府は賠償金支払いの方向で解決しようとしているとき、清河が目的としている「横浜焼き討ち」がなされたら、その成否は別として、外国人に被害が発生したとしたら、どのようなことになったであろうか。

清河の狙う実行内容は「大挙して横浜に押し出し、市中に火をつけて、そのごたごたに乗じて、外国人を片っ端から斬りまくり、黒船は石油をかけて焼き払い、すぐに神奈川の本営を攻めて、軍資を奪い、厚木街道から、甲府城に入って、ここで、攘夷、しかも勤王の義軍を起こそうというのである」(「新撰組始末記」子母澤寛)であった。

もし、これが実行されていたらどうなったか。結果を最小限に見積もっても、生麦事件の解決は賠償金支払いというレベルを超え、他のこと、それは日本側が不利になり、さらに外交関係の紛擾と軋轢が激しくなったであろうことは容易に予測つく。

次に、清河が狙うターゲットとした横浜に住む外国人からみた情勢を、アーネスト・サトウ著「一外交官の見た明治維新」(第七章 賠償金の要求)からいくつかひろってみたい。

まず、賠償金の交渉で英仏と会談時に「イギリスとフランスの代表から、攘夷派の横浜襲撃に対する防御策を講ずることを申し入れて、日本側の承諾を得た」と記されているが、これは幕府から何かの事前サインがあったことを意味している。

さらに、「この時分は、浪人という日本人の一種不可思議な階級がいだいている目的と意図について、よほど警戒すべきものがあった。この浪人というのは、大名へ仕官をせずに、当時の政治的な撹乱運動へととびこんできた両刀階級の者たちで、これらは二重の目的を有していた。

その第一は、天皇を往古の地位に復帰させること、否むしろ、大君(タイクーン)を大諸侯と同列まで引き下げること。

第二は、神聖な日本の国土から『夷狄』を追い払うことであった。彼らは、主として日本の西南部の出身者であったが、東部の水戸からも輩出していたし、その他のあらゆる藩からも多少は出ていた。五月の末には、浪人が神奈川襲撃をたくらんでいるという風説があったので、神奈川にまだ居残っていたアメリカ人も何がしかの『騒動に対する補償金』をもらって、余儀なく住居を横浜に移さなければならなくなった」。

これは外国人たちが襲われることを予期しており、その情報が幕府から伝えられたことを意味している。

また、「六月の初めに、六人の浪人どもがこの土地に潜伏しているという情報があったので、別手組(江戸の公使館に護衛兵を出す団体)が、訓練された若干の部隊とともに横浜へやってきて、野毛山の下に新築された建物内に駐屯した。その時から一八六八年の革命(注:明治維新)のずっと後まで、われわれは断えず日本の兵士の厄介になっていた。私は、この別手組の中に数名の顔なじみの者がいるのに気がついたが、それは前述のように、私が江戸に行っていた間に親しくなった者たちであった」と、幕府が護衛をつけた事実を述べ、清河を頭とする「横浜焼き討ち」情報を、事前に幕府はつかんでいたことを証明している。

アーネスト・サトウがいう「五月の末」を、五月三十一日と考えれば、旧暦四月十四日(庚寅)となり、同じく「六月の初め」を、六月一日と考えれば、旧暦四月十五日(辛卯)となる。清河が横浜襲撃と予定したのは四月十五日である。幕府は清河を危険人物として十分に監視していたからこそ、その動向について詳しく把握していたのである。

しかし、ここで幕府にとって困る厄介な問題があった。清河の動向はつかんで警戒し、身柄を拘引逮捕したいのであるが、表向き難しいのである。

それは、清河には朝廷・関白鷹司輔煕から達文が下されていたからである。

「イギリスからの三カ条の儀申し立て、いずれも聞き届け難き筋につき、そのむね応接におよび候間、すみやかに戦争に相成るべきことに候。よって、その方引き連れ候浪士ども、早々帰府いたし、江戸表において差図を受け、尽忠粉骨相勤め候よう致さるべく候」というものである。

清河は忠実に朝廷の指示を実行しようとするのであるから、正規の召し捕りを行って、勾留することは難しいのである。従って、当然の策として秘密裏に抹殺するしかなかった。しかし、この抹殺は権力によるテロ行為であって、テロは本来国家権力がとるべき手段ではないが、朝廷に絡んでいる場合はテロしかなかったのであろう。その分だけ幕府は慎重に実行計画をつくりあげていた。

それが清河を斬った翌日には、直ちに浪士組人数の五倍にあたる二千名、それも幕府直轄兵の多くが京都に駐留していたので、計画的に荘内・小田原等六藩から動員された状況から判断できる。

清河八郎という一介の素浪人が、幕府にとって国の行方を左右するほどの国際問題上重要人物になっていたのである。

次号では幕府の手堅い動きと、それに対する鉄舟の動向、清河暗殺の状況についてふれたい。

投稿者 Master : 2010年03月10日 16:21

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