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2008年01月07日

泥舟と鉄舟武士道

泥舟と鉄舟武士道
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

 世上、「幕末三舟」と称されるのは勝海舟、山岡鉄舟、それと高橋泥舟である。

 頭山満はその著「幕末三舟伝」(島津書房)の中で「幕臣中に、三舟あり。官軍中に南洲のごとき大器あり。相俟ってはじめて時局を収拾し、外侮をふせぐことが出来たので、もし凡人庸才が、この活舞台に登場したとすれば、維新の終局は、あれほど円満な解決をつげずして、いっそう混乱したかもしれない」と述べ、続けて「主家の安全を期し庶民の困苦を救い、すすんで尊王の至誠を披瀝しようとしても、周囲の守旧派がこれをさえぎっている。この際、一死を賭して、白刃の間を往来した態度は、尋常人の企て及ぶべきところでない」と、三舟によって明治維新の偉業が成り立ったことを高く評価している。

 この「幕末三舟」の一人、高橋泥舟について、この連載で触れることが少なかった。今回は泥舟について触れ、鉄舟との意味合いを考えてみたい。

 ところで、「幕末三舟」と称されるようになったのは、いつごろからであろうか。三舟が実際に活躍した幕末維新の変革・動乱時には「幕末三舟」と称されていなかった。もっとずっと時代が過ぎた頃と思われるが、その時期を松本健一氏はつぎのように推測している。

 「明治体制が憲法の発布や帝国議会の開設を終えて、いちおうの安定をむかえたあとで、さてそれでは、このように変革・動乱の時代をうまく乗り切れたのはだれのおかげか、と回顧的な眼差しを社会がもったときのことではないか、と推測される」(「高級な日本人」の生き方『新潮選書』)

 この推測の通りと思う。日清・日露戦争に勝利し、明治時代の体制が固まった頃に、改めてペリー来航から混乱時代を振り返ってみて、日本が躍進出来た最大の要因は、幕末・維新時に江戸無血開城という偉業を成し遂げたことだ、という共通の歴史観、それが定着したからこそ、維新の功績者として「幕末三舟」が再認識されたのだと思う。

 さらに付け加えれば、鉄舟が世を去り(明治二十一年)、一番年長の海舟が亡くなり(明治三十二年)、追うように泥舟が終えて(明治三十六年)、棺を蓋いて事定まる例えの通り、三人の働きを称え、幕末三舟と称されるようになったものと思われる。

 また、昭和三年(1928)、この年は明治維新から六十年にあたり、当時の東京日日新聞が「戊辰物語」の連載を始めたが、この時には「幕末三舟」の名声は既に知れ渡っていて、冒頭の頭山満著「幕末三舟伝」が出版された昭和五年(1930)あたりで、さらにしっかりと日本中に確立したと思われる。

 「幕末三舟」の一人泥舟は、幕末維新でどのような功業を挙げたのか。それを一言でいえば、将軍慶喜に対し、駿府の西郷への使者として鉄舟を推薦したことである。泥舟の推薦がなければ、歴史に鉄舟の登場はなく、鉄舟の駿府駆けがなければ、官軍と幕軍は戦火を交えて日本は混乱の極に達し、国が二分され、外国に占領されたかも知れない。

 つまり、泥舟の鉄舟に対する目利き力が、江戸無血開城の偉業を成し遂げた背景に存在していたのである。

 しかし、鉄舟の駿府掛けを海舟が鉄舟に命じたという説もある。その根拠は時の軍事総裁として、徳川側の実権を一手に握っていたことと、海舟が西郷に宛てた手紙を鉄舟が持参したということからである。

 だが、この海舟説には問題がある。その理由は、駿府駆け直前の海舟日記(慶応四年3月5日)に「旗本山岡鉄太郎に逢う。一見その人となりに感ず」とあるように、海舟は鉄舟とそれまで一面識もなかったわけで、突然に鉄舟を選ぶということには無理がある。また、鉄舟も自らの評判を「安房(海舟)は余が粗暴の聞えあるを以て少しく不信の色あり」(西郷氏と応接之記)と自ら記しているのであるから、時代を分ける重要な使者に、よく知らない鉄舟を海舟が指名することは難しいであろう。

 そこで、慶喜に鉄舟を推薦したのは泥舟であるという説になり、その根拠は慶喜と泥舟との信頼関係である。当時、泥舟は上野寛永寺大慈院に恭順・蟄居した慶喜の護衛頭として任命されていたように、当時の慶喜は泥舟の武道と忠誠心を高く評価し信頼していた。その上、ひたすら一室で恭順姿勢を示している孤独の立場であるから、この慶喜と会い接する人物は限られるわけで、当然、隣の部屋に護衛として詰めている泥舟との関係密度がさらに深まり濃くなっていく。このような状況下で泥舟が鉄舟を駿府駆け使者として慶喜に推薦し、信頼している泥舟からであったゆえに、鉄舟が選ばれたと考える。

 次に、泥舟が何故に慶喜から信頼され、護衛頭となったのかついて検討してみたい。実は泥舟は当時の幕府内で「異例の速さの出世」を遂げた人物だった。その要因の一つは人格識見が際立って優れていたことと、二つ目は講武所槍術師範役として天下無双名人であったということからであった。
泥舟は天保六年(1835)に小石川鷹匠町の山岡家に生れた。幼名山岡謙三郎、長じて忍斎と号し、泥舟と称したのはずっと後のことである。山岡家は禄高百俵二人扶持、この隣家の高橋家も禄高四十俵二人扶持、お互い下級旗本であった。高橋家は刃心流の槍術道場を兼ねていて、そこへ十七歳で養子に入って、安政二年(1855)二十歳で高橋家を継ぎ、勘定方に就いた。

 なお、鉄舟は泥舟の兄、山岡家当主靜山の死去により、小野家から婿養子に入って、泥舟の妹英子と結婚したので、泥舟と鉄舟は義兄弟となる。

 その泥舟は二十一歳の時、講武所が発足した際に槍術教授方となり、同年に新御番、二十二歳で御書院番として足高三百俵、二十五歳で講武所槍術師範役、二十六歳で御書院番と御小姓番の両御番の上席となり足高は千石。この地位は従来上流旗本の子弟に限られていた役職で、高橋家の家柄を考えると抜群の出世であった。さらに、講武所上席槍術師範役となり、二十七歳の時に奥詰之者取締御心得、これは桜田門外の変の時に増やした江戸城泊り武芸者の取締役であるが、この時に十四代将軍家茂の後見職一橋慶喜の警護頭にもなった。この時点で忠誠を励む泥舟との信頼関係が出来たと思われるが、さらに留守居役から徒頭上席へ進み将軍家茂の警護役となり、とうとう「従五位下伊勢守」という勅許を受け作事奉行上席に昇ったわけである。禄高四十俵二人扶持貧乏微禄旗本が、槍一筋で「従五位下伊勢守」である。戦国時代とは異なる封建階級体制下では、とても考えられないほどの出世であるが、これは泥舟の人格と槍とがいかに高く評価されていたかを示すものである。

 このように泥舟は破格の出世を遂げたのであるが、清河八郎が暗殺される事件があり、清河と親交深かった鉄舟の黒幕に泥舟がいたはずだと疑われ、二人は蟄居・閉門となった。だが、江戸城二の丸炎上時における火消し活動の働きによって本来の忠誠心が認められ、再び遊撃隊副頭として復帰したのであった。このあたりの経緯は、大変込み入っているので後日詳しく別号で展開したい。

 その後、将軍慶喜は大政奉還、鳥羽伏見の戦いの敗戦を経て、上野寛永寺大慈院に恭順することになり、選ばれて泥舟は慶喜の警護頭となり、結果として、鉄舟を官軍西郷への使者に推薦したわけであった。

 泥舟が破格の出世を遂げる一方、鉄舟は出世とは全く無縁であった。剣の道では「鬼鉄」と恐れられる武道修行、私生活では放蕩とも誤解される色道修行、対外的には清河八郎等の浪士との交わり、その上、出世と無縁のため収入は増えず極端な貧乏生活、これが泥舟の義弟で隣に住む鉄舟の実態であった。

 ところが、このような生活状態でありながら、既に見たように基礎的な人間修行のための考察をし続けていた。即ち、十五歳の時の「修身二十則」に始まり、二十三歳の時に「心胆練磨之事」「宇宙と人間」「修心要領」、続いて二十四歳の時に「武士道」を認め記しているのであって、ここが一般人とは人間の出来が違うところである。

 鉄舟は晩年、亡くなる一年前の明治二十年(1887)、門人らの求めに応じて武士道に関する講義をし、それが「山岡先生武士道講話記録」となり、明治三十五年(1902)に「故山岡鉄舟口述、故勝海舟評論、安部正人編纂、武士道」として出版された。これは現在「山岡鉄舟の武士道」(勝部真長編 角川ソフィア文庫)として見ることが出来るもので、一般に「山岡鉄舟の武士道」という場合は、この口述版を意味している。

 一方、武士道に関する書籍としては新渡戸稲造の「武士道」があまりにも有名である。この本は原題を「Busi-do,Soul of Japan」と言い、1900年(明治三十三年)にアメリカにおいて英文で出版された。その後日本語版が出版され、今日では世界中で読まれ学ばれている状況であって、日本の「武士道」と言えばこれを指し示すほどである。

 だが、この新渡戸稲造の「武士道」より十三年前に、鉄舟の武士道が口述されていることを見逃してはいけない。出版は確かに明治三十五年であるので、新渡戸稲造より遅いが、武士道を述べたのは鉄舟の方が早いのである。

 では、何故に明治二十年に講義したものが、十五年後に改めて出版されたのか。この疑問については、後日、新渡戸稲造の「武士道」との比較で詳しくその共通点と相違点について論じたいが、簡単に言えば新渡戸稲造が日本的道徳観を中心に述べているのに対し、鉄舟武士道は「エートスとしての日本武士道」を論じていること、つまり、武士ではない新渡戸稲造に対し、本物のサムライが語った「武士道」としての対比、それを意図した出版であったと推測する。また、その背景には明治時代の体制がほぼ固まり、「幕末三舟」のイメージも定着したタイミングであったことも影響していたと思う。

 しかしながら、もっとすごいことは、既に鉄舟は二十四歳の時に「武士道」を認め記していたという事実である。それは、晩年に講話した内容に遡ること二十七年前の万延元年(1860)であるから、新渡戸稲造の「武士道」が出版された時より四十年前にあたる。

 その上、「武士道」という文言表現を始めて名付けたのは鉄舟である、と自ら述べていることである。武士道ということは鉄舟が言い始めたのである。原文が読みづらいので口語体で以下ご紹介する。

 「わが国の人びとのあいだには、一種微妙な道の思想がある。それは神道や儒教でなく、また仏教でもなく、その三道が融和してできた思想であって、中古の時代から主として武士の階層においていちじるしく発達してきたのである。わたしはこの思想を武士道と呼ぶ。しかし、この思想が文書としてまとめられたり体系化されて伝えられているものは、これまで一度も見たことがなかった。要するに、人の世の移り変わりや、いろいろの歴史的経験によって、われわれの物の考えのなかにつくられた道徳の一種であるといえばよいだろう」(山岡鉄舟 剣禅話 『徳間書店』)

 全文は長いのですべてを紹介できないので、ご関心ある方は同書を御覧いただきたい。

 鉄舟は「修身二十則」から、この「武士道」に到達するまでの一連の基礎的努力と、その後の命を削るような修行によって明治十三年(1880)に開眼し、悟りの境地に達することによって、武士道精神を完成させ、その考察結果を講義したのであるが、正に鉄舟の一生は修行であった。

 鉄舟は、明治十三年に開眼し悟りの境地に達した際、このことを泥舟へ報告した。

 「それはお目出度い」と泥舟は膝を打った後

 「しかし、禅に引っかかってだいぶお手間をとられましたな」と言った。

 既に、泥舟は若き時代の必死なる槍術修行によって、はっきりと禅の道を究めていたという自負が、この泥舟発言背景であり、この会話に泥舟と鉄舟の人物像が示されている。

 泥舟は年若くして完成された人物であり、鉄舟は一生を通じて完成した人物であった。

 なお、泥舟は明治維新を機に一切の官職を断って、世間に埋もれてその後を生き、鉄舟は江戸無血開城を機に世に出、明治天皇の師父とも謳われるようになった。二人は明治維新を境に対比的な生き方をしたのであった。

 今、泥舟は谷中の長昌山・大雄寺の樹齢二百年の大くすのきの根本に眠っている。

投稿者 Master : 2008年01月07日 09:55

コメント

幕末の時代背景とても好きです。興味があります。

投稿者 pakira : 2008年01月10日 19:17

山岡鉄舟いいですよね。
また読ませてもらいますね。
よろしくお願いします。

投稿者 ミズノゴルフ : 2008年01月12日 14:31

明治維新の立役者山岡鉄舟の研究会はじめて知りました。更新頑張ってください。

投稿者 飲食店経営者 : 2008年01月17日 11:51

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