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2009年03月28日

2009年3月例会報告 その1

山岡鉄舟研究会 例会報告 その一
2009年3月18日(水)
「宮本氏の先祖・川井文蔵研究」宮本英勝氏

今月は、当会参加者、宮本英勝氏に、ご自身のご先祖である「川井文蔵」について、これまで調査されてこられたことをご発表いただきました。

宮本氏は、ご先祖・川井文蔵について、鉄舟との関係から何か情報が得られないだろうか、ということで当会の門をたたかれました。川井文蔵について何かご存じのことあらば教えてほしい、と願っていらっしゃるのです。
その経緯についてご紹介しましょう。

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川井文蔵は、宮本氏の母方の曾祖父にあたられるそうです。
宮本家の言い伝えによれば、川井文蔵は鉄舟の弟子で、全生庵の創建にも関わる人物と伝わっており、以前より興味を抱いておられたのだそうです。

きっかけ

宮本氏がご自身の先祖、川井文蔵に興味を持たれたのは、ある資料がきっかけだったといいます。
それは、「福田会(ふくでんかい)」という会に関する資料でした。
福田会とは、児童養護施設を運営する仏教系の社会福祉法人で、現在も渋谷区広尾で施設を運営されております。
→「福田会」http://www.fukudenkai.or.jp/
福田会の資料によると、会の主旨はこう記されています。

「本会の創立及び沿革概要
 明治9年3月6日、今川貞山、杉浦譲、伊達自得の三氏創めて、仏教上、慈悲の旨趣に基づき、汎く貧困無告の児女を収養すべき社団を建設せんことを発議す…」
(福田会ホームページより)

この福田会の資料の中に、会の発起者として、山岡鐵太郎とともに川井文蔵の名前が挙がっているのを発見されたのです。

「当時創業の際、本会の発起者として幹旋せられし人、固より少なからずと雖も、中に就き最も力を致し、本会今日の基礎を定めしは、…(中略)…。
在家に於ては山岡鐵太郎、高橋精一、川井文蔵、島田蕃根、山内瑞圓、渋沢栄一、福地源一郎、益田孝、三野村利助、渋沢喜作、大倉喜八郎、三遊亭円朝等の諸氏なり」
(福田会ホームページより)

宮本氏は、これほどそうそうたるメンバーの中に名を連ねている我がご先祖は、一体どういう人だったのだろうという興味に駆られ、研究を始められたというわけです。

調査

(1)戸籍
まず宮本氏は、川井文蔵を戸籍から辿ってみようと思い、江東区で戸籍の調査をされました。しかし、時の流れが宮本氏に立ちはだかります。
戸籍というのは、本人の死後80年が経過すると保管義務がなくなるのだそうです。川井文蔵の戸籍は破棄されていました。
(2)各種書物
次に宮本氏は、国会図書館で、書物によって川井文蔵の足跡を辿りました。
川井文蔵は深川で商売をしていたらしいことを聞き知っておられたので、『日本紳士録』第一版(明治22)に名前の掲載がないか調べました。
そこには
「川井文蔵 雑業 深川区西六間堀」
とありました。
また、『諸問屋名前帳』という資料を見つけられました。これは当時の商人の名前が列挙されている史料なのですが、この膨大な名前の羅列の中から、
「地廻米穀問屋 四十七番組 和泉屋文蔵 深川六間堀町 家主」
という記述を見つけました。
どうやら「和泉屋文蔵」という名前で米の問屋を営んでいたらいいことが出てきたのです。
しかし、「和泉屋文蔵=川井文蔵」であることを確認しなければなりません。
(3)都立多摩霊園
ここに川井家のお墓があるそうです。
ここの墓石に、こう記してありました。
「明治二年 深川南六間堀町 俗名和泉屋文蔵」
これで、「和泉屋文蔵=川井文蔵」であることが確認できました。
(4)東京都公文書館
宮本氏は公文書館に何か資料がないかと足を運ばれました。
そこには、川井文蔵の名前が記載されている書類がいくつか存在していました。
公文書ですので、例えば下水工事で寄付をしたので賞状を出します、という稟議書のようなものや、借地一覧に借主で名前が出ていたりといったものがありました。

が、川井文蔵が直接出てくる史料はここまでで、これ以上は行き詰まってしまったのです。

伝聞

ここで、宮本氏が代々伝え聞いておられる伝聞を整理してみましょう。

(1)鉄舟の弟子であった
鉄舟の弟子であり、全生庵の創設にも関わっていたらしい。
(2)三遊亭円朝と友達であった
『三遊亭円朝子の伝』(明治24年刊)に川井文蔵の名前が出てきます。
(3)千葉立造と兄弟以上の仲であった
墓石を半分にして、それぞれの墓を建てたとの伝聞が残っているそうです。
(4)深川六間堀に借地・借家を所有していた
このあたりの土地の差配は「川名文具店」で、このお店は今も森下町交差点の角で営業されているそうです。宮本氏が訪ねて行かれたそうですが、昔のことは分からないそうした。
また、深川は震災と空襲で書類が全部燃えてしまっており、この地に関する史料がほとんど残されていないのが現状なのだそうです。

糸口

ここまでが、宮本氏がいままでに調査された川井文蔵の足取りです。
しかし、これまでの史料では、川井文蔵がどんな人物であったのか判然としません。
そこで、山岡鉄舟研究会らしく、鉄舟と川井文蔵の接点を少し考えてみることにしましょう。

冒頭に登場しました、宮本氏が川井文蔵を研究するきっかけとなった「福田会」の資料を今一度見てみます。
宮本氏が入手された資料には、福田会発起人として3名の名前が挙げられています。ところが、すぐに、それらの人物に代わり、4名の人物が登場します。

「明治9年丙子3月6日、今川貞山・杉浦譲・伊達自得の三名同盟して本院創設の議を起こす。
10年丁丑5月9日、山岡鉄太郎・高橋精一・今川貞山・川井文蔵四名同盟す」
(宮本氏資料『渋沢栄一伝記資料 第24巻』より)

当初3名で福田会を興したが、翌年すぐに4名にとって代わっているのです。
そこに、鉄舟、泥舟とともに川井文蔵の名前が登場するのです。
これには理由があります。
発起人のうち、杉浦譲、伊達自得の両名は、明治10年に亡くなっているのです。そのため、残る今川貞山に、鉄舟、泥舟、川井文蔵を加えた4名で会合を開いたのです。
このあたりに、鉄舟と川井文蔵の接点があるように思えます。

ここで、福田会の発起人に名を連ねる「伊達自得」について見てみましょう。
伊達自得は、陸奥宗光の父親で、深川に住んでいたそうです。
明治9年6月ごろから「和歌禅堂」という私塾のような集まりを催し、そこに三遊亭円朝、高橋泥舟らが出入りしていたのだそうです。泥舟は陸奥宗光との縁でここに関係するようになったようです。
同じ深川に住む川井文蔵とは、この会がきっかけで、泥舟と、さらには鉄舟と交流が始まったのではないか、と宮本氏は推測されています。
となると、鉄舟と川井文蔵との交流が始まったのは明治9年あたりということになります。
明治9年、鉄舟は41歳、明治天皇の扶育係(宮内大丞)でした。
ちなみに、全生庵創建は明治16年、鉄舟48歳の時です。

明治9年ごろ、鉄舟と川井文蔵は出会い、文蔵はその後、鉄舟を師と仰いだということになるのでしょうか。
渋沢栄一、陸奥宗光、三遊亭円朝、高橋泥舟、そして、鉄舟の他の弟子たちあたりが、鉄舟と川井文蔵を繋ぐヒントを持っているようにも思えます。

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山本会長の弁に、ものごとは間接的に繋がることがある、直接、川井文蔵のことを調べては浮かんでこないことが、他の事を調べているうちにパッと繋がることもあるのだそうです。そして、それが、調べることの喜びなのです。

皆さん、よいお知恵、情報がございましたら、事務局までご連絡ください。
お礼はできませんが(笑)、パッと繋がる喜びを、皆さんで分かちあいたいと願っています。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 2009年03月28日 21:27

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