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2009年02月24日

2009年2月例会報告 その2

山岡鉄舟研究会
2009年2月例会報告

山本紀久雄会長の研究発表です。
今回は、清河八郎暗殺の真相に迫ります。

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山本紀久雄会長

清河八郎はなぜ殺されねばならなかったのか。
その裏側には、必然とも言うべき情勢と、周到な計画があったのです。

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今回の発表報告は、山本会長の配付資料をもとに構成しています。
■印は山本会長の資料から抜粋したものです。

清河暗殺の周到な下準備

重要なのは、清河暗殺は、幕府が周到な下準備をしていたということでした。

■清河八郎は、文久三年(1863)4月13日の午後3時ごろ、江戸麻布の出羽三万石上山藩の上屋敷を退出し、一の橋を渡りきったところで暗殺された。佐々木只三郎以下の暗殺チームによってである。幕府はその翌朝には、残された浪士組の宿舎を取り囲むため、荘内、小田原等六藩の兵2,000名を動員した。この時を待つように周到な準備をしていた。

何故に京都から江戸に戻る中山道筋で斬れなかったのか

この部分は、従来の鉄舟関連の書籍ではほとんど語られていません。山本会長はいくつかの文献を紐解き、次の理由を挙げられました。

■理由その1
道中で清河を斬った場合、一緒に江戸まで戻りつつある清河を頭と仰ぐ仲間たちが、おとなしく帰順し、捕縛され、そのまま江戸に戻るとは考えられず、凄絶な死闘が繰り広げられることになり、幕府側もかなり傷を負うことになる。

■理由その2
清河を斬った後、残りの浪士組メンバーがどのような行動にでるか、それが向背不明であって、反乱ということも予想される。確実に相手を抑えつけ、反攻の戦意を失わせ、混乱を起こさないためには、通常相手の3倍から5倍の人数を要するだろう。

■理由その3
当時の諸藩における兵の動員力は、10万石大名でもせいぜい1,000人であった。家康から家光の戦国気分がさめやらぬ時代では、10万石大名で2,000名の兵を優に動員できたが、250年も続いた天下泰平の結果、各藩動員兵力は半減してしまっている。

■理由その4
浪士組に対応する兵力の動員には、一藩では無理で、数藩に依頼することになり、実際に兵士が動員されるまでには時間を要するであろうから、その間、騒乱は続き、かえって幕府の権威を落とすことにつながる。

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清河の暗殺を急いだ新たな背景

清河の暗殺は、一刻を争う火急の事態でした。それは、生麦事件で外国と大変微妙な交渉関係にあったこの時期に、火に油を注ぐ如き計画を、清河は立てていたからです。
これ以上外国との摩擦を生ずることは何としても避けなければならない。幕府にとっては緊急事態であったのでした。

■清河の狙う実行内容は「大挙して横浜に押し出し、市中に火をつけて、そのごたごたに乗じて、外国人を片っ端から斬りまくり、黒船は石油をかけて焼き払い、すぐに神奈川の本営を攻めて、軍資を奪い、厚木街道から、甲府城に入って、ここで、攘夷、しかも勤王の義軍を起こそうというのである」であった。

■これが実行されていたらどうなったか。結果を最小限に見積もっても、生麦事件の解決は賠償金支払いというレベルを超える。

横浜の外国人の対応(アーネスト・サトウ著「一外交官の見た明治維新」)

■「イギリスとフランスの代表から、攘夷派の横浜襲撃に対する防御策を講ずることを申し入れて、日本側の承諾を得た」と記されている。

■「この時分は、浪人という日本人の一種不可思議な階級がいだいている目的と意図について、よほど警戒すべきものがあった。この浪人というのは、大名へ仕官をせずに、当時の政治的な撹乱運動へととびこんできた両刀階級の者たちで、これらは二重の目的を有していた。その第一は、天皇を往古の地位に復帰させること、否むしろ、大君を大諸侯と同列まで引き下げること。第二は、神聖な日本の国土から『夷狄』を追い払うことであった。彼らは、主として日本の西南部の出身者であったが、東部の水戸からも輩出していたし、その他のあらゆる藩からも多少は出ていた。5月の末には、浪人が神奈川襲撃をたくらんでいるという風説があったので、神奈川にまだ居残っていたアメリカ人も何がしかの『騒動に対する補償金』をもらって、余儀なく住居を横浜に移さなければならなくなった」

■「6月の初めに、六人の浪人どもがこの土地に潜伏しているという情報があったので、別手組(江戸の公使館に護衛兵を出す団体)が、訓練された若干の部隊とともに横浜へやってきて、野毛山の下に新築された建物内に駐屯した。その時から1868年の革命(注:明治維新)のずっと後まで、われわれは断えず日本の兵士の厄介になっていた」

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幕府は清河の行動を熟知していた

■アーネスト・サトウがいう「5月の末」を、5月31日と考えれば、旧暦4月14日(庚寅)となり、同じく「6月の初め」を、6月1日と考えれば、旧暦4月15日(辛卯)となる。清河が横浜襲撃と予定したのは4月15日である。幕府は清河を危険人物として十分に監視していたからこそ、その動向について詳しく把握していたのである。

清河を正式に逮捕・勾留できず暗殺しなければならない理由

■それは朝廷からの達文である。
「イギリスからの三カ条の儀申し立て、いずれも聞き届け難き筋につき、そのむね応接におよび候間、すみやかに戦争に相成るべきことに候。よって、その方引き連れ候浪士ども、早々帰府いたし、江戸表において差図を受け、尽忠粉骨相勤め候よう致さるべく候」

■清河八郎という一介の素浪人は、この当時、幕府にとって国の行方を左右するほどの国際関係問題上の重要人物になっていた。

ゆえに、幕府にとっては、清河を暗殺せしむる以外には方法がなかったのです。
清河の暗殺は、必然性と周到な計画に裏打ちされた、避けられない事態であったのです。

清河の暗殺は、日本の政治情勢が攘夷から開国へと大きく舵を取っていく分岐点になったのではないでしょうか。

次回もお楽しみに。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 2009年02月24日 22:26

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