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2009年09月20日

2009年9月例会ご報告 その2

山岡鉄舟研究会 例会報告 その2
2009年9月16日(水)
「本格的な参禅へ」
山岡鉄舟研究会会長/山岡鉄舟研究家 山本紀久雄氏

山本氏の発表は、「本格的な参禅へ」と題し、鉄舟が剣の修行に加え、禅を本格的に学び始めたことについての発表でした。

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鉄舟は浅利又七郎との立ち会いに敗れ、精神面を鍛えることの重要性を痛感しました。
鉄舟の参禅はそこから始まるわけですが、このことが、後の江戸城無血開城を成し遂げた鉄舟の人間力醸成へとつながったのです。

しかし、山本氏はひとつの疑問をここで呈します。
人間力だけで、一介の下級旗本であった鉄舟が、突如として蟄居謹慎している将軍慶喜に謁見し、西郷との談判を一任されるものでしょうか。
この点について、山本氏はかねてより疑問を抱いていたそうです。しかし、解決へのヒントとなる史料が出てこなかったため、今後の課題としておいたのです。
が、ここへきてその解決の糸口となるかもしれない史料を発見されたのです。
それを今回、私たちに紹介されました。
その史料とは、仙台藩士・小野清の『徳川制度史料』です。

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山本紀久雄氏(左)/発表風景

従来、将軍慶喜が上野寛永寺にて蟄居謹慎し朝廷に恭順の意を示していたが容れられず、万策果てたところへ突如として山岡鉄舟がその交渉人として抜擢されたようになっています。しかし、ここの部分がどうにも不自然で腑に落ちなかったと、山本氏は語ります。高橋泥舟が鉄舟を推薦したとき、慶喜は鉄舟をすでに知っており、あの男なら任せてもよいと判断したと考える方が自然です。
慶喜と鉄舟は事前に接点がなかったのでしょうか。

仙台藩士・小野清著『徳川制度史料』から引用します。
「…正月十二日巳の刻頃、八代洲河岸林大学頭の楊溝塾を出て、芝口仙台藩邸に行く。幸橋門に至れば、武家六騎門内に入り来る。
 近寄りて見れば、その先駆者は知り合いの山岡鉄太郎なり。これに継ぐところの五騎は、いずれも裏金陣笠、錦の筒袖、小袴の服装なり。とりわけ、その第二騎の金梨子地鞘(きんなしじざや)、金紋拵(きんもんこしらえ)の太刀を佩(は)きたる風貌、目送これを久しうす。
 後に知る。これ、徳川慶喜公。六日夜大坂天保山沖にて開陽艦に乗じて東帰し、遠州灘にて台風にあい、黒潮付近まで航して今暁浜館に上陸し、今、鉄太郎に迎えられて江戸城に還入するものなるを。
 しかしてその六騎なる者、曰く、先駆・出迎者山岡鉄太郎、これに継ぐところの五騎の第一、前京都守護職会津藩主松平肥後守容保。第二、前大将軍徳川内大臣慶喜公。第三、前所司代桑名藩主松平越中守定敬。第四、老中松山藩主板倉伊賀守勝静。第五、老中唐津藩主小笠原壱岐守長行なり。勝安房守義邦は、鉄太郎浜館に先発せしのち、西丸大手門外下乗橋に出て、ここに公一行を迎うという…」

将軍慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れ、早々に江戸に引き揚げてきたとき、鉄舟が先頭となって護衛を務めたというのです。これが事実だとすれば、慶喜は鉄舟と事前に会っていたということになります。

もうひとつ、資料をご紹介します。
東京日日新聞が、戊辰戦争から60年経った昭和3年に『戊申物語』と題した連載を掲載しました。これは明治維新の動乱を経験した高村光雲たちからの聞き書きをもとに、当時の庶民感情などを紹介したものです。

東京日日新聞編『戊申物語』から引用します。
「…海上遠州灘でひどい暴風に遭って苦しみつつ、十一日開陽丸は浦賀へ入った。翌日将軍は金子二百両を出して小舟を雇い、これで浜御殿へ入り、ここで一先ず休憩。その日は青空ではあったがひどく寒い。将軍家は直ちに馬上江戸城へ向かった。勝安房守が御殿まで、次いで山岡鉄太郎が馬を飛ばして出迎えた。丁度巳の刻頃、つまり今の午前十時、立派な武士が六騎肥馬をつらねて芝口近く幸橋門へかかった。劈頭(へきとう)、駒の轡をしめて眼光炯々四辺をにらめ廻しつつ来るのが山岡鉄太郎。ついで第二騎、少しおくれて第三騎、錦の筒袖に、たっつけの袴、裏金の陣笠をかむり金梨地鞘に金紋拵えの太刀をはき、風貌おだやかな武家、また少しおくれて第四騎、第五騎、六騎とも実に立派なる武士ばかりであった。
…いずれも京都を落ち、淋しく江戸入りの人々であった。勝安房守はこの時はじめて伏見鳥羽の戦報を聞いた。なお詳細の説明を願ったが、すべて顔色土の如く、ただわずかに板倉伊賀守のみが、ぽつりぽつりとそれを語り得るにすぎなかった(目撃者、旧仙台藩士小野清翁)」

出所は同じ仙台藩士・小野清ですが、新聞連載の記事だけに当時は割と有名な出来事であったのではないかと思われます。

『徳川制度史料』の中で、小野清は、鉄舟と知り合いであったと書かれています。
これについても、『戊申物語』に記述があります。

その部分を引用します。
「…あさり河岸の桃井(もものい)道場士学館の先生は、春蔵直一の長男で、家芸の鏡新明知流(きょうしんめいちりゅう)よりは小野派の一刀流をよく使った(小野翁談)。左右八郎直雄(そうはちろうただお)、三十そこそこで丈六尺二寸の壮漢、講武所にも師範して元気のはち切れそうな剣客だった。この門人の上田右馬之允(うえだうまのすけ)というものがこの松田(注:料理屋)へ、よその子供をつれてある時御飯をたべに行った。何しろ一ぱいのお客、子供がうっかりして四人づれの武士の刀をちょっと蹴りつけた。飯を食って戻ろうとした四人づれが右馬之允の羽織の襟をつかんで「真剣勝負をしろ」といってきかない。先ほどからわび抜いていたところなので、右馬之允は相手にもせず、子供の手を引いて笑いながら大きなはしご段を下りて一足かけると「ヤッ!」といって四人一斉に鋭く斬り下ろした。ところが、右馬之允はよほど出来ていたと見えて、「ウム!」といって足を段にかけたまま斜めに振り返ると真先の一人を居合で払った。その武士は深胴をやられて梯子段をころがり落ちて死に、上田は血しぶきで真紅になった。
 残る三人は、子供をかばいながらまたたく間に斬り伏せてしまったが、息一つはずませてはいなかったということで、この人の帰る時は、松田の前は山のような人だかりであった。この斬り合いの様子をきいて、山岡鉄太郎なども門人を集めて、からだを斜めにして不利な立場にあり、斬り下ろされる瞬間にこれを払う型を教えたりして感心した(鉄舟長女、山岡松子刀自談)。同じく左右八郎の門弟だった小野清翁はこの「上田」を「細川」と記憶しているといっている」

つまり、小野清は鉄舟と同じく、小野派一刀流の門人だったということです。同じ道場に通っていた剣の仲間だったということでしょう。

これらのことから、慶喜は鉄舟とすでに面識があり、西郷との談判に鉄舟が推薦されたとき、慶喜の頭の中に鉄舟が具体的に思い描かれたため、素直に受け容れたのではないでしょうか。
史料の裏付けも含め、山本氏の今後の研究が楽しみです。

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次回は、10月21日(水)18:00〜 東京文化会館・中会議室1にて行います。
たくさんのご参加、お待ちしています。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 2009年09月20日 15:22

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