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2009年11月18日

2009年11月例会ご報告

2009年11月14日(土)
『生麦事件歴史散策研究会』報告

11月特別例会が行われましたのでご報告します。

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前日からの雨模様にやきもきしながら迎えた当日、どんより曇り空ながら雨は落ちていないことに安堵しつつ、集合場所であるJR鶴見線「国道」駅に向かいました。

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国道駅は鉄道の高架下につくられた古めかしい駅です。
参加者のおひとりが、社会人駆け出しのン十年前、よくこの路線を使っておられたそうですが、その頃と少しも変わらないと感慨にふけっておられました。それもそのはず、国道駅はもともと大正15年(1926)に貨物線として開業した鶴見臨港鉄道に、昭和5年(1930)旅客営業開始とともにつくられ、以後そのままの姿を残しているのだそうです。ちょっと薄暗くて恐ろしげですが、レトロな佇まいに最新のSuica精算機が鎮座している姿は、時を超えどなお現役であり続ける健気さを物語っているようでした。
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全員集合し、さっそく生麦界隈の散策に出発しました。
駅の高架下を抜けると、生麦の商店街「魚河岸通り」に出ます。ここは旧東海道の街道筋です。ここに今でもわずかに残る魚屋さんの軒を覗きながら闊歩しました。
生麦事件が起こった幕末期、生麦村の街道筋はほとんどが漁師の家で、道の両側には魚屋が軒を連ねて並んでいたそうです。現在は「魚河岸通り」という通りの名が往時を偲ばせていますが、今ここを歩いてみますと、何でもない地方の商店街に魚屋が通常よりもたくさん並んでいる、といった印象です。漁業で賑わう町、例えば新潟県・寺泊などは「近海で獲れた新鮮な魚を持ってきて売っている」イメージがありますが、生麦の通りはそのような感慨は湧きません。
江戸時代、東海道の生麦近辺は海沿いに通っていました。江戸の絵地図や錦絵などを見ても、通りのすぐ南側は海になっています。当時は江戸前の魚介類が生麦村のすぐ脇の鶴見川の河口から水揚げされていたのです。
生麦の海側一帯は現在、埋め立てられています。鶴見川を挟んで対岸は京浜工業地帯です。また、生麦の南側一帯はキリンビールの大きな工場が横たわっています。この光景が、生麦は海辺の漁師町であることをすっかりかき消しているのです。
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魚河岸通りを抜け、旧東海道に沿って横浜方面に歩きます。やがて「生麦事件発生現場」に到着。
発生現場は、民家の軒先にちょこんと掛けられている看板で知ることができます。うっかりすると見落とします。
ここから今回の主見学地「生麦事件の碑」までは、街道沿いに700mあまり先にあります。実は生麦事件の碑が建てられているのは、イギリス人リチャードソンが絶命した場所なのです。リチャードソンは発生現場で斬りつけられ、馬で700mあまり逃走の後、落馬して絶命したのです。馬ならあっという間だったのでしょうが、歩くと結構な距離がありました。
その逃走距離をゆっくり散策しながら、「生麦事件の碑」に到着しました。
生麦事件の碑は、旧東海道と国道15号線が合流する地点にひっそりと建っています。小高くなった敷地の上に小さな社が建ち、碑が奉られています。どなたかが手入れをされているのでしょうか、きれいに保たれています。
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旧東海道を散策した一行は、「生麦事件参考館」へと向かいました。
館長の淺海武生様がお出迎えくださり、さっそく中へ。
館内は生麦事件関連の史料に始まり、事件に関係した薩摩の史料や当時横浜の外人居留地内で発行されていた新聞など、とても貴重なものばかりです。展示されていないものも含めますと1,000点を超す史料があるそうで、生麦事件の全容を解明するためのご努力にはただただ感服するばかりでした。
淺海館長の、この並々ならぬ情熱の背景にはどんな思いが込められているのでしょうか。
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淺海館長は、もともと地元で代々酒屋を営んでおられます。
酒屋をきりもりされていた当時は館長ご自身も、生麦事件については教科書に載っている有名な事件という認識しかなかったそうです。しかし、この生麦事件こそ、日本が近代国家樹立に向けて開国へと舵を切った重要なきっかけになる事件であったことを知り、なぜそのような重大な出来事を語る場所も人もいないのかと行政などに問いかけたところ、この事件は当時秘匿されるべき性質のものであったため、史料がほとんど残っていない、また、生麦はあくまで事件現場であって当事者は薩摩とイギリスであるのでなおさら史料に乏しい、資料館など作るなら民間で行ってほしいとの素気ない回答だったそうです。これに一念発起した淺海館長は、自ら私財をなげうって史料の収集を始められたのです。
生麦事件を研究するにあたって館長は、幕末〜近代史の流れをあらためて勉強する必要があると考え、60代にして大学に入学し、近代史を学び直されたそうです。そして、薩摩など各地に散在する史料を尋ね歩き、海外にまで史料を求めるなど並々ならぬ努力を重ねられました。一方、地元の名主さんや代々の家に残る史料なども丹念に調査し、生麦事件の全容解明に尽力されたのでした。
吉村昭氏が『生麦事件』(1998・新潮社)を著しておられますが、原稿執筆の際、吉村氏は参考館に何度も通い詰め教えを請うたそうです。生麦事件に関しては、淺海館長は第一人者といえるでしょう。2000年には、生麦事件に関する知識の啓発普及に努めたとして中曽根文部大臣(当時)より感謝状を受けておられます。
現在、淺海館長は講演活動を行い、参考館の維持に努めておられます。参考館は無料で開放されています。講演は、全国の学校や民間から依頼が殺到し、一年後までスケジュールがいっぱいだそうです。

淺海館長から学ばねばならないこと。
それは、現在淺海館長があちこちから講演の依頼が引く手あまたであることの結果から考えねばならないと思います。
淺海館長は地元・生麦の人間として、歴史上大変重要なこの事件を解明することをご自身の目標とし、調査と研究を一つひとつ着実に実行してこられました。その結果として、有名作家が館長の教えを請うため訪れるなど、生麦事件について館長の右に出るものはいないほどの評価を得ることになったのです。その結果が、各地から講演依頼が殺到するという事実だと考えます。
このことは、人生目標を定め、ぶれることなく行動した鉄舟の生き方に相通じるものがあるように思います。淺海館長の生き方は、鉄舟が自身の生き方を通して教えてくれている指針を体現されているのではないでしょうか。そしてそれは、時を超えど変わらないセオリーがあることを証明しているのです。
淺海館長の成された偉業に、あらためて敬意を表します。

淺海館長、お忙しいところご無理を言って押しかけたにもかかわらず、懇切なるご対応を賜り、誠にありがとうございました。深謝申し上げます。

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生麦事件参考館を後にした一行は、キリンビール横浜ビアビレッジへ移動しました。
ここで、ビール工場の見学と懇親会を行いました。
懇親会はビアビレッジ内のレストラン「スプリングバレー」にて行いました。ここではビール工場ならではのできたての地ビールを堪能しました。美味しかった。
ほろ酔いの一行は、散策と勉強、工場見学と懇親というハードスケジュールをこなし、帰途についたのでした。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 2009年11月18日 19:05

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