« 明治天皇の侍従としての鉄舟・・・其の九 | メイン | 2013年10月例会のご案内 »

2013年09月25日

2013年9月開催結果

2013年9月例会は、以下のように報告・発表がなされました。

①高橋育郎氏から著書「実録新制中学『我等の木崎』」が産経新聞「芸術と地球」コーナーで推薦図書として紹介されたとの報告がなされました。

②永冨明郎氏から著書「遥かなり三宅島・吉田松陰『留魂録』外伝」が第16回日本自費出版文化賞の小説の部「部門賞」に選ばれたとの報告がなされました。

③山本紀久雄より「東海遊侠伝」その二を発表いたしました。
1.清水次郎長の評判は北原白秋作詞の「ちやっきりぶし」で「唄はちやっきりぶし、 男は次郎長」と謳われているように高い。

2.広沢虎造の浪曲「石松三十石船」の「寿司を食いねえ」「馬鹿は死ななきゃなおらない」などのフレーズで次郎長ブームがつくられた。

3.しかし実際は諸田玲子氏による日経新聞朝刊連載「波止場浪漫2013.8.27」に「次郎長は若いころ家をすてて渡世人になった。無宿者から堅気にもどり、清水へ落ちついたのはご維新の直前。明治19年に『東海遊侠伝』が世に出てからは子分の人気も高まった」と書かれているように、明治中期になってから人気が出た。

4.次郎長一家の江戸時代は、旅から旅への武闘派博徒集団で、最大の庇護者は三河寺津の間之助親分。今回、寺津を訪ね、間之助から四代目の
藤村真之介氏の自宅に伺い、いろいろお話を聞いた。前後五回次郎長は寺津に来ており、間之助親分の自宅裏の開墾地に隠れ部屋あったほど。

5.江戸時代の博徒は、幕府直轄・大名・旗本・寺社領などが入り組み取り締まりが緩い地域で自在に活動していた。

6.取り締まり網が一貫していた江戸には博徒の大親分は発生していない。火消しの新門辰五郎がいたのではないかという見解もあるが、新門辰五郎は「親方」と呼ばれ、博徒の「親分」とは異なる。

7.次郎長が鉄舟によって堅気となり「男は次郎長」と称されるほどに変身したのであるが、では何故に鉄舟は次郎長にそれほど肩入れしたのか。その解明がこれからのテーマとなる。

投稿者 Master : 2013年09月25日 06:52

コメント

コメントしてください




保存しますか?