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2009年03月28日

2009年3月例会報告 その2

山岡鉄舟研究会 例会報告 その二
2009年3月18日(水)
「清河の本質」
山岡鉄舟研究会会長/山岡鉄舟研究家・山本紀久雄氏

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日本経済新聞に、客員コラムニストの田勢康弘氏が、西郷隆盛の一節を例に出し、こう述べています。

「(今の政治に携わる人材を嘆き)『命もいらず名もいらず官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは艱難をともにして、国家の大業は成し得られぬなり』。西郷没して百三十年のいまも、この言葉は輝いている」(2009.3.9 日本経済新聞)
ご承知の通り、これは、西郷が江戸無血開城への会談後、愛宕山で勝に、鉄舟を指して語った言葉として知られています。田勢氏は2005年、小泉チルドレンを大量輩出した総選挙後、党員教育のセミナーでこの例を挙げたことがありました。
田勢氏は今の政治に求められる人材を、西郷をして言わしめた鉄舟の姿に準えて発言したのです。このことは、鉄舟のような人材が、今の時代に求められていることを意味しているのではないでしょうか。
山本氏はさらに語ります。
鉄舟は決して古い人間ではない。今の時代が求める最先端の人物なのだということを認識してほしい。そして、私たちはそんな鉄舟の生き方を学ぶことによって、今の自分たちの人生を見つめているのだ。
この研究会は、まさにこのことを目的とした会なのです。

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さて、清河八郎です。
今回は、清河研究の最終回と位置づけ、清河暗殺の本質に迫る研究が行われました。
清河の暗殺場面については様々な作家がその瞬間を描き出しています。
その中でも、表現が秀逸なのは司馬遼太郎であると、山本氏は絶賛しています。
参考:『奇妙なり八郎』(『幕末』収録、司馬遼太郎・文春文庫)

清河の暗殺は、横浜焼き討ち計画(4/15)の2日前、4月13日という絶妙のタイミングで行われました。
ところで、この計画実行日を、幕府はどうやって事前に知り得たのでしょうか。
2009年1月例会での山本氏の発表にありましたように、このことは幕臣・窪田治部右衛門により知らされました。
では、窪田はどうしてこの計画を知り得たのでしょうか。
横浜焼き討ちの計画については、極秘であったことが予測されます。それは、この計画が非常に実現困難な計画であったからです。当時、外国との貿易は始まっており、横浜はすでに外国人が多数居留する地域になっていました。また、横浜は関所を設け厳しい監視体制にありました。ここを焼き討ちするということは大変な困難が予想されます。
また、この計画を遂行するには、事前の準備が必要です。特に土地勘のない場所であれば、下見が必要でしょう。しかし、現地の監視体制は、下見も容易にできないほどの厳重さでした。

ここに、ひとりの人物が登場します。
窪田千太郎という人物です。
彼は、清河暗殺の首謀者、窪田治部右衛門の息子で、しかもこのとき、横浜奉行所の組頭だったのです。
この数奇な縁が、清河ら幹部の横浜視察を可能にしたのです。
おそらく、窪田治部右衛門を通じて息子の千太郎に働きかけ、関所の通過と現地の案内を行わせたのではないでしょうか。

視察は、清河暗殺の3日前、4月10日に行われました。
視察には、清河や鉄舟ら4名が同行しました。
そこで、鉄舟はある事件を起こしています。
ここが、清河暗殺のキーポイントとなるのです。

ひととおり視察を終えた一行は、窪田千太郎のもとに集まりました。
そこで千太郎は、西洋の珍しいものを出しもてなしました。
すると、鉄舟が突如怒りだし、テーブルをひっくり返したのです。

この鉄舟の行動は如何なる意味があるのか。
これには、鉄舟の立場を考えないといけません。
鉄舟は幕臣であり、徳川幕府代々の旗本の家柄であるのです。
清河とは、「攘夷」の思想のもとに行動とともにしていましたが、この頃から清河が攘夷を名目にした倒幕を画策し、あまつさえ自分は将軍にとって代わろうという構想まで抱いていることを察するに及び、自分は行動をともにすることが困難であると考えていたようです。
藤沢周平氏は、『回天の門』の中で、鉄舟と清河にこの会話をさせています。

「『長いつき合いに免じて、もう一度おれがやることに目をつぶってくれんか』
『やはり、横浜焼打ちは攘夷ではなく倒幕挙兵なのですな?』
『そう、倒幕だ』
 …(中略)…
『だとすると、おれは今度のくわだてには加われません』
『むろんだ』
 …(中略)…
『君と松岡君は脱けてくれ。いずれ、そう言うつもりだったのだ。このあと君は、われわれのやることを見とどけてくれるだけでよい』
(『回天の門』藤沢周平・文春文庫)

ともかく、鉄舟はこの時点で横浜焼き討ちの計画に、賛成の表明をしがたい心境に達していると見る方が自然ではないでしょうか。
そこで鉄舟は、テーブルの事件をわざと起こしたのではないかと、山本氏は語ります。
これは、鉄舟のサインではないだろうか。
直接、横浜焼き討ちをするから気をつけろよ、と言うことは、当然できません。何か相手が察し得る事件を起こして相手の注意を促すこと、これによって窪田千太郎は横浜を襲撃することを察し、父・治部右衛門に伝えたのではないだろうか…。
これが、清河暗殺の間接的なきっかけとなったのではないでしょうか。

かくして清河の画策による横浜焼き討ち計画は、幕府の周到な清河暗殺によって事なきを得たのでした。
しかし、まだ疑問が残ります。
それは、清河の暗殺当日の行動です。
上山藩・金子与三郎からの誘いの手紙で単身上山藩邸に行き、帰宅途中の麻布一の橋で暗殺されました。
彼はなぜ単身で金子の誘いに応じて外出をしたのでしょうか。
この日、清河には外出すべきでないありとあらゆる条件が揃っていました。
・清河は風邪を引いて寝込んでいた
・周りから金子に会うことを強く反対されていた
・鉄舟や泥舟からは家を一歩も出るなと厳命されていた
つまり、罠だとありありとわかっていたのです。
それなのに、なぜ彼は金子に会いに行ったのでしょうか。
また、清河の当日の行動も実に不可解です。
・風邪を引いているにもかかわらず、朝風呂に入った
・辞世ともいえる句を認めた
・あえて護衛をつけず出かけた
これでは、あえて斬られるために出かけたようなものです。

この部分はもはや想像するしかないのですが、山本氏は自分が清河の立場だったらと前置きをした上で、次のように語りました。

清河はとても聡明な男であった。攘夷がもはや遂行不可能でありことは自明の理であった。外国とはすでに国交を開いて通商が始まっている。外国人は日本に居留し、商取引が盛んに行われている。しかし、一方で自分が計画した攘夷のシナリオも、もはや取り消すことなどできない抜き差しならない状況にまで来てしまっている。浪士組の連中も納得すまい。
両者に折り合いをつける手段は、ひとつしかない。
それは、自らの存在を消すことである…。

幕府の策略にあえて乗ることにより、自らの命を絶つことにより始末をつける。そう決心した清河は、朝風呂に入り身を清め、句を認め上山藩邸に向かったのでした。
「魁(さき)がけて またさきがけん 死出の山 迷ひはせまじ すめろぎの道」
清河が詠んだ句です。(『回天の門』より)

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今回で清河八郎に関する研究は終了です。
次回からの山本氏の研究は、あらたな展開になることでしょう。
次回もお楽しみに。

なお、4月は特別例会『ジョン万次郎講演会』のため、山本氏の研究発表はお休みです。ジョン万次郎のご子孫による講演もお楽しみに。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 2009年03月28日 23:27

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