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2013年08月26日

2013年7月開催結果

2013年7月例会は、以下のように発表がなされました。

①永島豪郎氏 「鉄舟は王羲之の書からいかに学んだか?」

鉄舟の書法は「書法に就て」(鉄舟随感録)で自ら述べているように、
●十一歳時に高山で岩佐一亭から学び
●江戸に戻って王羲之を真似ること凡十余年
●護国寺で弘法大師の書に接し、以後大師の手蹟から学び
●結果として「書か画か判然すべからず」という鉄舟流を確立した
では、この鉄舟流とは、どのような書法から影響を受けているのか。?

それを永島氏は、具体的に鉄舟書「北別極延覧閑吟暢幽情」(ほくべつえんらんをきわみ かんぎんゆうじょうをのぶ)を事例に緻密に分析・紐解かれ、その結果、以下の如く一字一字が異なる書家の書体からそれぞれ影響を受けていると判断されました。

 
この永島氏の鉄舟書に対する検討・分析アプローチ方法、従来の鉄舟書研究分野では見られなかった新鮮なもので、鉄舟研究に大きな一石を投じるものであります。永島氏のご努力に深謝し、ご賢察に感謝申し上げます。

①木下雄次郎氏

木下氏からは、上記鉄舟書「北別極延覧閑吟暢幽情」一幅をご持参いただき、解読され、書かれた意図を次のように解説されました。

「北へ別れ行くを遥かまで見送りながら、静かに詩吟を口ずさめば心の奥深く沁み込んでくる。ポイントは延です。身をひく、引き下がるの意味があります。覧は古覧と書いて、往時を偲ぶといいます。往時を偲んで身を引くを、遥か彼方まで、静かな気持ちで送りだしたのは、誰か。江戸から見て北。水戸へ慶喜候を送ったように推測します。

なお、北には別の意味があるとのご意見もありましたので、調べてみますと、逃げる、背くの意味がありますので、当初、榎本武揚、もしくは幕府の落武者を送ったと思ったのですが、混乱の中、静かに送れないので、静かに心にしみるから、やはり慶喜候の送りのような気がします。

最期の最期まで、忠義をつくす気持ちがあらわれています。ここまでの忠義をつくした家臣はみあたりません。そんな鉄舟の心の奥底を示す書です。

藤原印がありますので、明治天皇侍従となった以降に書いたとすれば、誰かに裏切り者と言われた人へ、自分の忠義を語るために書いたようにも思われ、反論することなく、一筆で応えた鉄舟らしい書と眺め感じ入っています」

このように今回も見事な解説で、いつもながら感服するばかりでした。

②山本紀久雄

「東海遊侠伝」に描かれた幕末時の清水次郎長、道楽で身をもちくずし、喧嘩の果てに博徒家業になり、斬った張ったの無宿者、子分も少なく、縄張りも僅かで、インチキ博打を打つ、当然ながら世間からの評判はよくなかった。

また、時は幕末、ペリー来航もあって幕府崩壊へ向かう政情混乱期、支配秩序の隙間を縫って無宿者の博徒が堂々と世に躍り出た時代、次郎長と並び称されるか、次郎長を超えていた実力派の博徒が多く輩出した。

飯岡助五郎、笹川繁蔵、国定忠治、津向文吉、竹居安五郎、勢力富五郎、黒駒勝蔵等であるが、これら有力実力派の大親分博徒を抑え、次郎長が明治維新以後「海道一の親分」と称されるまでに大変化したわけです。

その大変化要因は、一にも二にも鉄舟の知遇を得たことであるが、明治天皇侍従で、当代一流の人物である鉄舟が、何故にこのように次郎長を贔屓にしたのか。

その第一回目の分析を時代背景と絡めて発表いたしました。

投稿者 Master : 2013年08月26日 09:45

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