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2012年05月01日
2012年4月開催結果
4月開催結果と2012年5月開催についてご案内申し上げます。
1.2012年4月開催結果
最初に現在、東京都写真美術館で開催されている「フェリーチェ・ベアトの東洋」展の紹介と、この会場に清河八郎暗殺犯の一人「窪田泉太郎」の写真が展示されていますので、窪田と鉄舟の因縁関係について解説いたしました。
上の写真は長崎大学付属図書館の収蔵写真ですが、タイトルは「「甲冑を着けた武士」となっています。ところが、今回のベアト展では「窪田泉太郎」と個人名で表示・明確化しました。
「窪田泉太郎」となれば鉄舟と関係があります。泉太郎の父は窪田冶部右衛門であって、清河・鉄舟の「虎尾の会」の盟約者。その息子の泉太郎は清河が横浜焼き打ち計画をつくり、横浜へ下見に行った時の神奈川奉行所組頭。
そこで、清河は冶部右衛門を通じ泉太郎に紹介状を書いてもらい、鉄舟と斎藤熊三郎(清河の弟)、西恭介の四人で横浜に出かけております。
しかし、何故にこの泉太郎が清河暗殺団の一員に加わったのか、それについては山岡鉄舟会ホームページ2010年4月「鉄舟研究・清河暗殺・・・其の三」をご覧いただきたいと思います。
http://www.tessyuu.jp/archives/2010/04/post_297.html
なお、写真タイトルの変更経緯につきまして、東京都写真美術館に詳しい内容をお聞きしましたので、5月例会でお伝えいたします。
次に、3月特別合宿例会で、川上貞雄氏から紹介された佐久間象山の直筆長文書翰、これは吉田松陰の海外渡航事件と、ジョン万次郎にも関わる考察を入れて、安政元年(1854)に幕府要人に差し出したものですが、この書翰は思想家としての象山が辿った思索の足跡を示す重要なものです。
つまり「象山があるときは鎖国を主張し、あるときは和親に転じ、あるときは開国に転じたように、情勢の急激な展開にともなって、さまざまな思想変化を示す切っ掛けとなった」もので、ドナルド・キーン氏が「晩年の明治天皇が示した態度を分析すると、幕末時代に佐久間象山が唱えた『東洋の道徳と西洋の科学の結合』が特徴づけられる」と判じていることへつながっている経緯についても解説いたしました。
投稿者 Master : 2012年05月01日 11:29