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2009年01月17日

2009年1月例会報告

山岡鉄舟研究会
2009年1月14日例会報告

2009年最初の例会が行われましたのでご報告いたします。

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本年も山本紀久雄氏の鉄舟研究は続きます。
今月は、清河八郎暗殺に関する衝撃の発見がありました。

*****

清河は、幕府が差し向けた刺客の手により暗殺されました。
文久3年4月13日、佐々木只三郎によって麻布・一ノ橋で殺されたといわれています。

この暗殺劇の裏に、鉄舟や高橋泥舟が関与しているのではないかと思わせる記述があります。
『山岡鉄舟』(小島英煕著・日本経済新聞社・2002/11)
この本には、「一つ疑惑の史料がある」との書き出しで、野口武彦・元神戸大学教授からの引用が紹介されています。
要約すると、清河暗殺は、その周りのリーダー格の人物のうち、清河を恐れない人物に秘密裏に命じることになり、その人物の門人から5人を選抜して実行した、ということが、慶喜の小姓役であった村山久五郎の『村摂記』に書いてあるというのです。
小島氏の考察は以下に続きます。
『さらに「左の人名は本文に掲ぐべからず」と特記して、老中は小笠原壱岐守、頭は高橋精一(泥舟)、山岡鉄太郎(鉄舟)だったという。にわかには信じがたい話で、真実は闇の中だが、もし関与したとすれば、高橋だろうか』
清河暗殺を命じられた頭目のひとりに、鉄舟も入っていたということなのです。

本当か?

この点に山本氏は疑問を持たれました。
清河に心酔していた鉄舟が暗殺計画のメンバーに入っていたというのはおかしいのではないか…。
山本氏の飽くなき探求心は、野口教授が言及したとされる原典にあたるところから始まります。

山本氏は、小島氏が引用した野口氏の著作『幕末パノラマ館』(野口武彦・新人物往来社 ・2000/03)の出版元である新人物往来社に問い合わせするなどを経て、『村摂記』を手に入れられました。

それによると、問題の文章は途中を抜き出して転記してあることが判明したのです。

少々長いですが、その部分を抜き出します。

『…これを頭に命令して所置することは出来ぬ、なぜなら頭が先生と尊称してゐる位の人だからつまり清川の門人の手下の如くだから、時の御老中もなんとも手のつけかたがないから、頭のうちに清川にも恐れず、可なり議論もある者一人に秘密に命じて、清川を打果せしむることになつた、其頭の門人に剣術体術ともにすぐれた人を五人選抜して、清川八郎の有馬の藩邸へ行くところを、麻布一の橋の前で切殺した、五人のうち手を下したのは、佐々木只三郎と云ふ元会津藩であつた人だ、「戊辰の役、淀にて討死」其外の四名の人の名も知つてゐるし、頭の名も知つてゐるが用のなきことだからはなしません、
 左の名は本文に掲ぐべからず、
  御老中は、小笠原壱岐守、当時図書守と云ふ、
  頭は、 松平上野介、前主税之助と云ふ、
      高橋伊予守、精一郎と云ふ、
      山岡鉄太郎、
  内命を受けたる頭は、窪田治部右衛門、
  刺客は、佐々木只三郎、永峰良三郎(後ち弥吉)
  高久佐次馬等にてあと二人は記憶せず、
…』
『村摂記』のコピー資料ダウンロード

すなわち、野口氏が『村摂記』から引用したのは、「山岡鉄太郎」までの部分なのです。
重要なのはその後の行で、「内命を受けたる頭=窪田治部右衛門」とハッキリ書いてあるのです。すなわち、泥舟や鉄舟などは、引用の冒頭にある「先生と尊称している頭」たちだったのです。清河の暗殺メンバーどころか、命令しても言うことを聞かないだろうと目された者たちだったのです。
それが、引用部分の切り具合によって暗殺メンバーと誤解させるような表現を用いてしまっていることは、大いなる問題ではないでしょうか。

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ともあれ、清河暗殺の実行手配者は、窪田治部右衛門という人物でした。

*****

清河の暗殺後、浪士組幹部は以下の処分を受けました。
・高橋泥舟…御役御免の上蟄居
・山岡鉄舟…御役御免の上蟄居
・窪田治部右衛門…御役御免の上差控
窪田だけが破格に軽い処分でした。
この後、窪田はわずか2カ月後に函館奉行に任命されるなど出世していき、鉄舟と泥舟はこの後3〜4年間、歴史の舞台から姿を消すのでした。

*****

清河の暗殺に際して、窪田治部右衛門の息子、泉太郎と鉄舟が何やら関係していたようです。
どんなことか?
それは次回のお楽しみで…。

(田中達也・記)

投稿者 lefthand : 2009年01月17日 22:18

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