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2010年09月24日

9月例会開催結果報告

9月15日の例会は、まず、池田高志氏から「幕末の水戸藩」について発表いただきました。

「明治維新を支えた『尊王攘夷』のイデオロギーは、徳川光圀から続く大日本史編纂の過程で生まれた水戸学に端を発します。尊王攘夷の旗印を掲げて幕末動乱の先駆けを務めたにもかかわらず、明治維新を迎えた時点ではすっかり疲弊して、有為な人材を失っていたという水戸藩。その水戸藩の開藩から幕末動乱までの歴史をたどりつつ、現代にいたるまで脈々と水戸(そして日本)の底流に流れる狂信的なイデオロギーを通して、歴史の皮肉に思いを馳せてみたいと考えています」

と展開いただきましたが、水戸藩の複雑な実態解説は一回だけでは無理で、時間切れとなり、次回(来年2月16日)へ持ち越しとなりました。

 鉄舟が県知事として赴任した水戸藩です。引き続き次回を大いに期待したいと思います。

山本紀久雄からは静岡方面での調査結果、海舟と鉄舟は慶応四年以前に知りあっていた記録、それは「関口隆吉の生涯・八木繁樹著」ですが、世に定説となっている事への疑問点を指摘しました。

また、徳川藩の静岡移転に伴い、徳川家臣は第一に脱走して反政府活動に走った者、第二は朝廷・新政府に仕える者、第三は暇乞いして農工商になる者、第四は藩臣として無禄でも徳川家に残る者。
この身の振り方から指摘できるのは藩側からの「リストラ」が行われなかったことで、現在の日本、企業経営が厳しくなると社員の首切りリストラが、まず、最初に行われることが多くなっている。しかし、徳川藩は70万石に合わせるような家臣の首切りは行わなかった。駿府に来る者は全員受け入れている。

これは関ヶ原の合戦後、西軍だった上杉家が会津から米沢への四分の一に減封され、その際「リストラ」は一切しなかったこと、それが平成22年のNHK大河ドラマ「天地人」主人公直江兼続によって語られたことは記憶に新しいが、これより過酷な実質四百万石から七十万石へと八割以上の減封であった徳川藩が、家臣の「リストラ」を実施しなかったことを高く評価したい。

徳川藩は武士道経営を貫いたと理解し、このような政策を決定し実行した藩経営に鉄舟が参画していたことを再認識したい。鉄舟は慶応四年・明治元年に幹事役として海舟と二人で名前を並べ、同年九月には権大参事の藩政補翼となり、徳川から静岡藩となった政治に重要な役割を負う立場に栄進している。
このような解説をいたしました。

投稿者 Master : 2010年09月24日 14:32

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