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2010年07月11日

彰義隊本拠地の上野公園と徳川慶喜墓所探索

2010年7月4日の例会は、彰義隊本拠地の上野公園と徳川慶喜墓所探索を行いました。
この日は旧暦の慶応四年五月15日にあたり、豪雨の中早朝から激しい戦いが行われました。

まず、上野公園の紹介です。   
ここは江戸時代、東叡山寛永寺の境内地で、明治維新後官有地となり、大正13年宮内省を経て東京市に下賜され、明治6年の太政官布達によって、芝、浅草、深川、飛鳥山と共に日本で初めて公園に指定されました。
当初は寛永寺社殿と霊廟、東照宮それに境内のサクラを中心にした公園でしたが、その後、博物館や動物園、美術館などが建てられ、文化の香り高い公園へと衣替しました。

1. 西郷隆盛像
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西郷像は高村光雲の作、傍らの犬は後藤貞行作。除幕式は西郷の死後21年を経た明治31年12月18日に行われた。身長:370.1cm、胸囲:256.7cm、足:55.1cm。西郷には信頼性のある写真が一枚も残っておらず、光雲は肖像画や弟の西郷従道の風貌を参考にした。公開の際に招かれた西郷夫人糸子は「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ)」と腰を抜かし、また「浴衣姿で散歩なんてしなかった」といった意の言葉(薩摩弁)を漏らし周囲の人に窘められたという。上野の西郷像は糸子が批評しているような散歩している姿ではなく、愛犬をつれ、腰に藁の兎罠をはさんで兎狩りに出かける姿である。西郷の真面目は一切の名利を捨てて山に入って兎狩りをした飾りの無い本来の姿にこそあるとして発想したもの。連れているのはお気に入りの薩摩犬であった雌犬の「ツン」である。
高村 光雲(たかむら こううん、嘉永5年2月18日(1852年3月8日) - 1934年(昭和9年)10月10日)は仏師、彫刻家。幼名は光蔵。高村光太郎息子。
後藤 貞行(ごとう さだゆき、嘉永2年12月23日(1850年2月4日) - 明治36年(1903年)8月30日)は、彫刻家。馬の彫刻で知られ皇居前広場の楠木正成像の馬像が代表作。

2. 彰義隊の墓
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彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺の住職仏磨らによって当地で荼毘に付された。正面の小墓石は、明治2年(1869)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋葬したものだが、後に掘り出された。大墓石は、明治
14年(1881)12月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣
山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。

3. 清水観音堂(きよみずかんのんどう)
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日蓮宗、正東山。寛永寺を開創した天海が京都の清水寺を模して寛永8年(1631)に創建した。当初、現在地より100メートル程北の擂鉢山山上にあったが、元禄七年この地へ移築し現在に至っている。本尊は千手観音座像で京都清水寺より奉安したもの。毎年二月の初午の日だけ開扉され、多くの参詣者が訪れる。不忍池に面する正面の舞台造りは江戸時代より浮世絵に描かれるなど著名な景観である。
堂内に掲げてある絵馬や掲額も寛政、天明期の古いもので、平家物語にちなんだ「盛久危難の図」「千手観音」などがある。本尊千手観音の縁起を現わした寿香亭守一の寛政十二年(1800)奉納したという「盛久危難の図」は、『江戸名所園会』に、平家滅亡後、主馬盛久は逃れて京都の清水寺に千日祈願をするが、源氏の追跡で捕えられ、由比ケ浜で打首となる寸前、首を斬ろうとする刀杖が段々に折れて、清水観音の加護により命を助けられた話として伝えられている。それらから信仰に寄せて、庶民は、そのご利益、ご加護を授かろうとしたであろう。今なお清水観音堂には千羽鶴がところせましと奉納されて、祈願の跡は絶えないでいる。
   明治期の画家五姓田芳柳の描いた「上野戦争図」と、隣りにある砲弾は四斤砲の砲弾でリベットドライブ方式の尖頭形砲弾(椎実型の砲弾)である。

4. 不忍池弁天堂
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弁天堂は天海僧正が不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島辯才天を寛永初年に勧請して建てたお堂。本尊は八臂の辯才天で、特に芸能や福徳にご利益があるとされています。毎月初巳日(最初の巳の日)に縁日法要を営み、特に毎年九月の巳成金の大祭法要には多くの人で賑わいます。

5. カナリアの碑
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「うたをわすれたかなりやは ざうげのふねにぎんのかい つきよのうみにうか
べれば わすれたうたをおもいだす」と彫られている。西条八十さんの歌碑。
昭和35年(1960)に、サトウ・ハチローさんらによる西条八十会によって建
立されたもの。

6. 五條神社、花園神社、穴稲荷、
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五條神社は薬祖神としての信仰をあつめた神社で、室町時代中期に上野山に鎮座していることが明らかな古社である。
主神に大己貴命(おおなむじのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)二柱の薬祖神を、相殿に菅原道真をお祀りする。
縁起によると、今から1890年ほど前の第12代景行天皇の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐のため、上野忍が岡を通られた際、薬祖神二柱の大神に御加護を頂いたことを感謝されて、この地に両神をお祀りしたのが創祀だという。
菅原道真公が天神といわれる訳は、かつて怨霊として「雷神」と恐れられた過去を持つ、雲の上から、自分を左遷させた政敵に雷を落として暴れ回ったので天神様とよばれるようになったわけです。
五條天神社のすぐ横の花園稲荷神社は倉稲魂命(うがのみたまのみこと)を祭神としていますが、もとは弥左衛門狐を祀った「お穴さま=穴稲荷」がメインだったと思われ、忍岡(しのぶがおか)稲荷が正式名称で、今でも旧社殿に石窟が残っています。
これは上野山に寛永寺が建てられるとき、ここに棲む狐たちの住処が無くなるのを憐れみ、社を建てて祀ったのが始まりといわれています。

7. 時の鐘
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時の鐘は江戸時代、時を知らせるものであった。当時江戸市中には日本橋石町、浅草、上野、本所、横川町、市ヶ谷八幡、目黒不動、赤坂田町、四谷天竜寺など9カ所の時鐘があった。中でも浅草、上野の鐘は芭蕉の句 「花の雲 鐘は上野か 浅草か」で有名である。
現在韻松亭敷地内にある「時の鐘」は寛永6年(1666)、鐘の製作に当っては寛永寺の鐘撞人であった柏木大助が願主になって、鋳物師の藤原政次が鋳造。その後数回改鋳され、天明7年(1787)に谷中感応寺で鋳直されたものが現在に至っている。
韻松亭は明治8年に「時の鐘」の隣に茶屋と貸席をかねて創業し、不忍池を一望できるロケーションとして明治の文化人たちに愛されてきた。代が替わり、ここを気に入っていた横山大観がオーナーになるが、直ぐに手放してしまう。それ以降山本家が引き継いでいる。日本画家の山本道香氏(昭和47年死去)は、上野の時の鐘を守り続けて二十数年、現在は娘の山本直子氏によって守り継がれている。明け六つ(明け方)、正午、暮れ六つ(夕方)の三回撞かれ、不忍池に江戸の音風景を甦らせている。

江戸時代の時刻制度は現在のものよりはるかに複雑。夜明け前と夕暮れ時を基準にして、昼を6等分、夜を6等分します。この6等分されたものを「一つ(一とき)」といいます。夜明けや日暮れは季節によって変わります。現在は一時間は六十分で、正確に一定の時間ですが、江戸時代では、例えば夏の昼の「一つ(一とき)」は長く、夜は短く、冬は昼は短く、夜は長くなります。そのため、1年間を二十四節気にあわせて二十四分割し、時刻を変えていたのです。自然に合わせた生活だったわけです。これを不定時法といいます。このような時刻制度は現在の時計のある生活では奇妙に映りますが、時計のない昔の生活では、「明るい時は昼、暗い時は夜」というわかりやすい発想として受け入れられていたようです。

8. 上野大仏
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上野公園にある仏塔パゴダ(ミャンマー、ビルマ形式の仏塔)がある丘が大仏山 と呼ばれるのは、かつてこの場所に大仏があったから。
寛永8年(1631年)にできた粘土製の初代大仏は、正保4年(1647年)の地震で倒壊 してし、 その後、万治年間(1660頃)に青銅製の二代目大仏が建立され、元禄年間(1690 頃)には大仏を覆う立派な大仏殿も完成しました。
その後も地震や火事のたびに修復を繰り返して来ましたが、関東大震災でも 被災し頚部が崩れ、お身体からご尊頭が落ちてしまいました。 修復費用が思う様に集まらず、ご尊顔だけが長く寛永寺に保存されていました。残ったお身体は、戦時中に軍隊に供出されて、武器の原料になった。
ご尊顔が元の大仏山に戻ったのは、関東大震災50回忌となる昭和47年(1972年) の事。お身体のあった所にパゴダが建てられ、戻ったご尊顔は記念塔としてパゴダの隣に保存されています。何時の日に元の大仏様にお戻りになるのか・・・。

9.上野東照宮
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上野東照宮は、徳川家康を祀る神社で、寛永4年(1627)、伊賀上野藩主藤堂高虎がみずからの屋敷地に建立するが、家康を崇拝していた3代将軍家光の命により慶安4年に大改築、江戸の象徴、金色殿として現在に残っている。が、とうの家光はその完成の祝事のさなか、この神社を見ること無くこの世を去った。 この東照宮の建物はもちろんのこと、門や柱、塀、果ては灯篭にいたるまで、すべてが国の文化財に指定されている。表参道の大鳥居は1633年に現在の前橋城主が寄贈してもので、関東大震災の時ですら微動もせず建築界の脅威の的になったと言われており、その参道の左右を埋め尽くす280基の灯篭は全国の諸大名の寄贈で、名前を見ると錚々たる顔ぶれです。 社殿には家康の遺品も展示されている。日光の東照宮は見るからに素晴しく、威圧感さえありますが、この上野の東照宮はひっそりと歴史を感じさせてくれる。

10.上野動物園・寛永寺五重塔

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この塔が建てられたのは、寛永16年(1639)7月である。下総国(千葉県)佐倉城主土井利勝が東照宮造営にあたり寄進したものである。実はこの塔は土井利勝にとっては2度目の寄進で、最初のものは上野東照宮が大造営してから4年ほどたった寛永8年(1631)に建てている。しかしこのときの塔は同6年3月に火災によって焼失してしまったので、当時、幕府の大老職にあった土井利勝は即刻再建したのであった。高さは地上から宝珠(一番上の珠)まで、36.36m。一層の中央、心柱をかこんで、東西南北に四方四仏を安置している。薬師・阿弥陀・弥勒・釈迦の四仏。上野の五重塔と一般にはいわれているが、東照宮→寛永寺→東京都に寄付され、今では動物園内の施設として保存されている。重要文化財に指定。これを見るためには入園料を払って動物園に入る必要がある。

11.大噴水は根本中堂、国立博物館は本堂
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江戸時代、現在の上野公園には、寛永寺の堂塔伽藍が、整然と配置されていた。現在の噴水池周辺(竹の台)に、本尊薬師如来を奉安する根本中堂、その後方(現、東京国立博物館敷地内)に、本坊があり、寛永寺の場合、輪王寺宮法親王が居住していた。寛永寺本坊の規模は壮大なものであった。この大噴水のところは竹の台といい、両側に竹の台(うてな)があったことに由来。ここには、常行堂、法華堂などの主要な堂宇がありましたが、戊辰戦争で灰燼として消えた。本堂跡へ博物館が建設され、その前庭としての修景で緑と噴水が計画された。

12.旧寛永寺本坊表門(輪王殿)、両大師堂(慈(じ)眼(げん)大師・慈恵(じえ)大師)
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慶応4年(1866)5月、上野戦争のため、ことごとく焼失し、寛永寺本坊表門のみ戦火を免れた。
これがその焼け残った表門である。門には皇室の菊の御紋が印されている。明治11年、帝国博物館(現、東京国立博物館)が開館すると、表門として使われ、関東大震災後、現在の本館を改築するにともない、現在地に移建した。“慈眼大師"は天海その人で、 “慈恵大師"は比叡山延暦寺の中興の祖とされる良源。

13.寛永寺
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元和8年(1622)2代将軍徳川秀忠は上野忍ヶ岡の地を喜多院(現埼玉県川越市)の住持天海の願いにより寺地として与えた。これにより天海は往古最澄が平安京の鬼門である北東の比叡山延暦寺を創建したことにならい、江戸城北東の方角に同城と国家を鎮護する目的で一寺を創建。寛永2年に本坊円頓院が落成した。これが東叡山寛永寺の創始で、喜多院から移された山号東叡山は東の比叡山を意味する。また慶安年間(1642-52)には創建時の年号を取り寛永寺の勅号を与えられた。本坊の落成に引き続き寛永4年には常行堂・法華堂・輪蔵・東照宮・仁王門、同8年には五重塔・鐘楼・清水観音堂などが造営された。元禄10年には徳川綱吉の命により円頓院の南面竹の台に本堂(根本中堂)を建設する工事が着手され、翌11年8月竣工。9月6日には東山天皇の筆になる「瑠璃殿」の額が掲げられた。さらに宝永年中までには36の子院と直轄寺2院が建立されている。宝永6年まで寺域は拡大し、約30万坪となった。

14.徳川慶喜の墓
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徳川家の菩提寺は 日光東照宮 寛永寺 増上寺の三つがあり 15代将軍・慶喜を除く全ての将軍がいずれかに葬られています。 徳川慶喜のみ谷中霊園に葬られているのは 遺言により葬儀が神式で行われたことによる。
ここにたどり着いたとき ハプニングがあった。勝海舟と書かれた野球帽を被った中年男性が「説明しましょうか」と申し出られ、その方から慶喜の墓について解説がありました。この解説が見事で、今までの知っていて事を覆させられました。神式の墓の理由についても詳しく解説され、一同揃ってなるほどという最後の場面でした。改めて感じたのは現場、現地、現任の大事さです。
ご参加の方々に感謝申し上げます。             以上

投稿者 Master : 2010年07月11日 11:06

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