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2007年11月03日

「人の出会い~次郎長と鉄舟の幕末と明治維新~」4/4 第4回全国フォーラム記録

東海遊侠伝
次郎長をなんとかするためのキッカケになったのが、明治12年に出た東海遊侠伝の元になる『次郎長一代記』という本。これを鉄舟に見せると、評判になり、多くの人が借りて読んだ。これを出版しようと大岡育造に頼んだが出版する会社は見つからなかったので、彼の手文庫に眠っていた。
次郎長の釈放のために鉄舟はこの本の出版を考えた。出版して政府や剣の出来る人に配って、次郎長はそんな変人ではないことを知ってもらおうとした。立派な人間でること、大岡が序文を書き、成島柳北(朝野新聞の局長で、彼も家茂の教育を担当、その後野に下った。次郎の生き方に同情を禁じえなかった)に校閲を頼み、自分と海舟が挿絵の一部を描いて、輿論社(大岡が社長)から出版。次郎長は有名になり、釈放された。


東海遊侠伝(クリックして拡大)

最後
天田愚庵は結核でなくなり、鉄舟は坐脱をしている。
次郎長の辞世の歌を内村鑑三が高く評価している。「私は近ごろ東海道の侠客、次郎長の辞世の歌が目に触れました。博徒の長の作ったものでありますから、歌人の目から見ましたならば何の価値もないものでありましょうが、しかし、もしワーズワースのような大詩人にこれを見せましたならば、実に天真ありのままの歌である、と言って大いに賞賛するであろうと思います。
「六(ろく)でなき四五(しご)とも今はあきはてて さきだつさい(妻)に逢うぞうれしき」
多くの貴顕方の辞世の歌でも、文字こそ立派であれ、その希望にあふれたる思想に至っては、とてもこの博徒の述懐に及ばないと思います。彼、次郎長は侠客の名に恥じません。彼はこの世にありて多少の善事をなした報いとして、死に臨んで、このうるわしき死後の希望をいだくことができたと見えます」と記載している。

明治の作家、樋口一葉が書いた日記『一葉日記』は、文学的価値の高いと評価されており、その「一葉日記」には、次郎長の葬儀の日のことが書かれている。
「侠客駿河の次郎長死去。本日葬儀。会するもの千余名。上武甲の三州より博徒の頭だちたるもの会する五百人と聞こえたり」と書き残している。時の文芸評論家は、樋口一葉は次郎長に「畏敬の念をもっていた」と記している。

鉄舟、近世の禅僧の墨蹟

(墨蹟観賞)
※墨蹟は下記エントリーにてご紹介します。
→第4回全国フォーラム 高田先生講演の墨蹟紹介

鉄舟は、非常に努力の人で個人的に現在鉄舟の書は、書としては泥舟とか海舟よりも劣るといわれているが、書は心を表しているから、これが鉄舟の書であるということに非常に意味がある。鉄舟の書を大切にしております。
良寛が嫌いなものとして、書家の書、歌詠みの詩という。
上手い字は意味がないと思う。鉄舟については、技巧の良し悪しを超えた優れたところがあるのではないかと思います。
頭山満も指摘しているが、鉄舟の情・愛情の深さ、同じ幕臣が食うや食わずのため、随分お金を上げている。鉄舟はそういうなかで、剣・禅・書に本当に命をかけたのは、その思いの中の葛藤ではないか。明治20年咸臨丸の死んだ人たちの記念碑が出来、その裏側に榎本武揚が文章を書いている。職のあるものは、その職に死す。一度誰かに仕えて、職を得た人は、そのことを一生忘れてはいけない、と書いている。福沢諭吉はそれをみて怒ったという。勝海舟と榎本武揚のことを言っている。
鉄舟も明治天皇の侍従になったことが嫌だと思ったわけではないですが、多くの旧幕臣が食うや食わずの中で日々を送っている中で非常に苦しい思いをしていたんではないかと思います。
天田愚庵が自分の妹ではないかと思う人と会ったときのことを書いている。次郎長の協力を得て東海道中は思いのままに探し回った。日本全国歩きまわり本当に苦労している。

今日、いろんな問題起こっているけれども、お互い人間関係を大切にするという気持ちを大切にしないと社会問題は解決できないことを考えないと、幕末から明治に到る人たちの勝ち負けを越えた関係をもう一度見直す必要があるのではないか。

ご清聴どうもありがとうございました。

投稿者 staff : 2007年11月03日 13:29

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