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2007年11月03日

「鉄舟を世に躍らせた運と縁」2/2 第4回全国フォーラム記録

3.南アフリカ・インドに見る海からの植民地化
  ① トリデシリャス条約 大西洋の真ん中を通る子午線で地球を二分
  ② インドのイギリス支配
  ③ 南アフリカのイギリス支配
薩長軍にイギリス、幕府軍にフランスがついた。フランス軍は幕府軍を教育して、函館まで行った。
明治4年、岩倉具視を団長として50名で外国を回った。プロシャでビスマルクに会った。強国・弱国がしのぎあい、相手の隙をうかがう状態で万国公法(世界の法律)、
欧州諸国との交わりは信用できるものではないということを知る。
慶喜がいち早く恭順の意思を示さなかったら日本は植民地か植民地の歴史を持った国になっていた。

3500年の歴史を持っているインドはイギリスから独立してたった60年です。ムガール帝国は大国だったが、国内だけみて政治をしており、海から侵略者が来ることを想像していなかった。インドは国が一つになっていなかった。上陸して民族同士、仲が悪いところに入り込み、武器を渡して内部対立させていくことが侵略の常套手段だった。

インドは独立するためにイギリス軍に抵抗する。日本は英米と戦争した。日本は、インドをイギリスの支配から救ってくれる存在じゃないかと、独立運動家のチャンドラ・ボースは日本を頼り、亡命してきた。
昨年の4月にカルカッタ(現在のコルカタ)に記念館チャンドラ・ボースの記念館が出来、“貴国はインド独立のために貢献してくれたことを感謝している”と日本に賞状が届いた。宛先は誰か。何と東条英機首相当てです。驚きますね。戦後62年、インドは日本に感謝しているのです。親日国です。
インドに行って、国立図書館にアポイントを取ったところ、館長にお会いでき、2時間くらい館長自ら館内を案内してくれた。日本の国会図書館に行って館長にアポイントを簡単に取れないでしょう。そのくらいインドは親日派です。

南アフリカにも行きました。アフリカもずっと長く欧米に占領されている。アフリカは暗黒の大陸と言い、文化文明がなかったようなことをいう。しかし人間の誕生はアフリカからです。アフリカには大変な文明がいっぱいありました。占領した人が消していって歴史を作った。
アフリカ・ジンバブエにビクトリアフォールズという名の滝がある。ナイアガラの滝、イグアスの滝と並ぶ三大瀑布です。ビクトリア女王の時代にリヴィングストンが発見したからビクトリアフォールズという名前がつけられた。そこには昔から人が住んでいて、滝は「雷鳴の轟く水煙」という意味の「モシ・オア・トウンヤ」という名前がもともとある。見にいくとその名の通り水煙の立ち上る滝である。
このように昔からある名前を消してイギリスの名前をつけている。部族同士の争いに乗じて入り込んで歴史を変えている。
いかに明治維新がうまくいったか、このことは高く評価しなければならない。

4.鉄舟の思想体系
優先順位を決めた宇宙と人間(安政5年・1858 23歳)

無名の下級武士だった鉄舟が、官軍の事実上の司令官であった西郷隆盛をなぜ説得できたのか、またなぜ鉄舟が交渉役に選ばれたのかを考えなくてはならない。
他にも剣の強い人は沢山居た。男谷精一郎、榊原鍵吉、千葉周作。
高橋泥舟が鉄舟を選んだのは、鉄舟の思想的な何かがあった。一国を救うための政治交渉に行ったのは、鉄舟の持っている何かです。

(クリックして拡大)

「宇宙と人間」の図は、鉄舟23歳のときに書いたもので、ペリー来航5年後、明治維新の10年前に書いている。鉄舟は外国に行っていない。勝海舟が咸臨丸でアメリカに行ったのは、この「宇宙と人間」の図が書かれた何年も後のこと。
書かれた当時は江戸幕府が日本を支配していた。鉄舟は旗本だから江戸幕府の部下である。それなのにこの図では江戸幕府を消している。民主主義です。
これをなぜ23歳の若者が書けたのか。鉄舟は肝心要のところで鋭いところを残している。鉄舟は書いた経緯や理由を記録に残していないから、私はこれを研究して皆さんに納得してもらうように説明しなければならない。

武士道という言葉があります。新渡戸稲造が1900年(明治33年)に『武士道』(BUSHIDO THE SOUL OF JAPAN)を出版。これから「武士道」が始まったという人がいるが、「武士道」は山岡鉄舟が言った。
1860年鉄舟25歳のときに『武士道』を残している。
「神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て其著しきを見る。鉄太郎(鉄舟)これを名付けて武士道と云ふ」
武・書、その裏に常に物を考える習慣を鉄舟は作っていた。

鉄舟は何も食べない日が月の半分あるくらい貧乏だった。下駄は片方しかない。着るものはボロボロだった。最初に生まれた子は栄養不良で亡くなってしまった。100俵二人扶持で1年間食べられない。泥舟も静山も江戸城に上がっていたから、役職禄米があったが鉄舟にはない。
そこで、鉄舟家族は何を食べていたかというと、家の周りを家庭菜園していた。絵図を見ると高橋家より1.5倍くらい敷地面積が広い。高橋家は140坪らしい。それの1.5台だと210坪。近くに住む与力の図面は250~320坪、禄高からいうと妥当な石高。
家庭菜園して作って食べたが足りないから周囲の草花を取り尽くした。鉄舟の家の近くに伝明寺、別名藤寺があった。家光が鷹狩りの帰り。藤があったので藤寺と言った。鉄舟の家は小石川5丁目で地下鉄茗荷谷駅からすぐ、名前の通り茗荷畑だった。豊かな自然が残っており、採り立てを食べていた。今私たちは採れたれ、焼きたて、無農薬を求めている。江戸時代は冷蔵庫がなかった。健康食品も使わない。豊かな食生活だった。

鉄舟は貧乏の中で、「宇宙と人間」を書いた。鉄舟は書家であり剣も立つ、書道教室、剣を教えることもできたはず、なのになぜ働かなかったのか。
「宇宙と人間」の図を見ると、天皇に仕えることを本気で考え、そのために行動しなければならない、自分自身を徹底的に磨かなくてはならない、と考えていたと思われる。貧乏だけれどアルバイト的なことはできない。普通ではなかった。優先順位が違った。

5.人間は才能と努力と運

人間は、縁だと思います。仮に英子さんが鉄舟に惚れなかったらどうなったでしょう。鉄舟が山岡家に入らなければ、600石の家柄・小野を捨てて100俵二人扶持の山岡家に入らなければ高橋泥舟と兄弟にならなかった。山岡家に入らなければ剣道家として名を残したかもしれない。しかし山岡家に入ったから高橋泥舟が慶喜に推薦し、鉄舟は駿府に行った。最初の縁は英子さんが鉄舟に惚れたからです。運です。
いくら才能のある人間でも、才能を磨いても、努力しても、報われるような運に出会わなければ認められません。しかし今度いつ運が来るか判らない。しかし運が来る、来たときに繋がるために磨かなくてはならない。
鉄舟は貧乏になっても思想や態度を見つめていた。結果、日本は植民地化されなかった。世界史的に見てもすごいこと。
これからも現代との関係において山岡鉄舟を研究していきたいと思っております。
以上

投稿者 staff : 2007年11月03日 11:12

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