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2005年10月22日

山本紀久雄氏「山岡鉄舟を再認識する」を語る(2)

第二回山岡鉄舟全国フォーラム2005記録

1、駿府、松崎屋源兵衛宅での西郷との会見、その真の意味
レジュメの1番の西郷との会見というのは、資料だけで理解していいのかと疑問を感じる。慶喜が恭順の意を示して、自分の守る城である江戸城を出て降伏した。その降伏した意思に対して、薩長は許さず、品川まで攻めて来てしまった。交渉したが、ぜんぜんらちがあかない。鉄舟は慶喜から勅命を受けて駿府に行った。
薩長側からは5つの条件があった。1,江戸城を明け渡しなさい。2,江戸城にいる人間も 3,兵器も 4,軍艦も引き渡しなさい。5,慶喜を備前藩(岡山)に預けなさい。備前藩は官軍に寝返った藩であり、慶喜を敵方に渡したら、命をどうされるかわからないでしょう。5つ目の条件、慶喜だけは絶対に渡せないと鉄舟は必死に説得した。西郷に対して、説得最大の論理は、「あなたの藩主島津公にたとえてみてください。もし島津公だったら、差し出しますか?」と。

西郷を研究すると、当時の藩主は、島津忠義で、その父は久光。久光は3人兄弟の三男であり、一番上は名君誉れ高い斉彬。
斉彬は正室から生まれたが、久光は町家生まれのお由羅という側女から生まれた。父親が、甚だしく久光を可愛がったため、お由羅は、久光を殿様にできないかと、お家騒動が始まる。このことは『南国太平記』(直木三十五)に書かれている。斉彬の子供全部殺すため、調伏した。本当に斉彬の子供が死んでいってしまう。斉彬も突如おなかを壊して死ぬ直前に、久光には譲らない、お前の息子の忠義に譲る、といった。

西郷は、斉彬を暗殺したのは久光ではないか?という疑いを持っていたので、忠義の父である島津久光、この久光が実質の薩摩藩を仕切っていたのであるが、その久光とはお互い犬猿の中。西郷は2回島流しにあっている。
1回目、安政の大獄で身が危険になった清水寺・成就院の住職月照(薩摩と朝廷の橋渡しをしていた)と体を縛り上げて海に飛び込み自殺を図った。月照は亡くなって、西郷は罰として奄美大島に流された。
2回目は久光の命に従わなかったため沖永良部島に流された。最初、徳之島であったが、そこでは厳しくないという理由で沖永良部島になった。その沖永良部島で西郷が生活していた場所を見てきた。それは酷い環境だった。海岸淵にあり、屋根はあるが、壁がない。周りを仕切ってあるだけで、大型台風がきたら、体が持たない。見かねた村長の判断で島の中に移動させ、ようやく命が助かったという経緯がある。

人間というのは感情ですから、西郷と言えども、鉄舟の説得は理論的には分かっても、それだけでは「慶喜を助ける」というセリフは出ないでしょう。
鉄舟の論理だけではなく、何か別のところで西郷の心が動いたのだと思います。

西郷は、求道の精神を持っていたことを、奄美大島の生活態度から類推する。
島に流され、島の子供に教育した。「世の中で一番大事なことは何か?」と西郷は子供に尋ねる。「一番大事なことは物を欲しないこと。一つのお菓子があったとして、兄は妹、妹は親に譲る。欲しがらない気持ち、譲る気持ちが輪を作る」と説いた。そういう人物ですから、全てを捨てて自分に向かってくる人間に感動する。鉄舟の慶喜のことを論理立てて言う姿勢と同時に、体全体から出る「慶喜を助けたい!」という気持ちに打たれたと思う。

西郷は鉄舟をみた瞬間に自分と同じ捨て去る精神を持っていると感じた。
鉄舟は石坂周造が何回失敗しても助ける。西郷が理想としている人間像が鉄舟だった。鉄舟以外の人間が西郷に対面しなかったら、駿府の会合は成功しなかった。

2、駿府に鉄舟がたどりついた三つの道程
駿府の松崎屋源兵衛宅に鉄舟が尋ねた道程には3つの説がある。
①駿府まで益満休之助が一緒だった。
同行した益満休之助は薩摩人。薩摩言葉で、通行手形もあったので、たちどころに問題なく駿府についたというが、東海道に官軍が充満しており、駿府までの距離は長いのに、問題なくつくでしょうか?
②益満休之助は箱根で病気のため脱落し、駿府に行かず
益満休之助は鉄舟と会う3日前(12月25日〜3月3日まで)牢屋に居た。運動もしていないのに、鉄舟の早足で走らされて、病気して駿府に行かなかった。
③益満休之助が回復し駿府で再開した
益満休之助は途中で休んで、最終的には駿府で再開した。

いろんな説があるが、2と3かと思う。3の場合は、鉄舟が西郷と駿府で会合したときに益満がいたとは書いていないので疑問が残る。

海舟は「山岡鉄舟の武士道」の中で、松崎屋源兵衛宅で西郷と会見後、益満休之助も鉄舟と一緒に出発したと書いてある。海舟の言葉を信用すれば益満休之助は松崎屋源兵衛宅いたことになる。
しかし、海舟はいい加減なところがあり、頻繁に言葉が変わる。一番肝心要の3月13日江戸無血開城、最終決着の14日についても、13日は高輪の薩摩邸。14日同所にて、とある。実際は芝・田町の薩摩蔵屋敷として通説で認められている。日記でも書き違える。わざとの場合もあるが。正確に書けない場合もある。勝海舟のことを信用するしないではなく、駿府には益満休之助はこなかったと思う。

駿府には益満休之助は来ないとなると、鉄舟が一人で駿府まで行ったことになる。ここで、昔から言われていたが、一般的には公に認められていない説が急浮上する。

3、駿府に送り届けた人物が功績者 望嶽亭
『危機を救った、藤屋望嶽亭』という若杉さんがまとめた冊子がある。それを基に望嶽亭の女将、松永さだよさんにお会いし、お聞きし、望嶽亭の歴史を詳しく伺った。
望嶽亭は東海道の難所「薩?峠」の入り口にあり、慶応四年のときはかくさんが女将で、かくさんは33歳であり、そのときに官軍に追われて逃げてきた鉄舟を、かくさんが玄関戸を開けて助けた。そのお嫁さんが、けいさん・みきさん、けいさんは早くお亡くなりになりましたのでみきさんが後妻で、その子のお嫁さんがそのさんである。そのさんが18歳でお嫁にきましたが、そのとき73歳がお元気で直接にかくさんから鉄舟を助けた経緯を聞いている。
その、そのさんが55歳のときに、現在の女将のさだよさんが19歳で嫁にきた。さだよさんは、そのさんから望嶽亭の歴史を直接教えてもらった。137年前の話は古いようだけれど、鉄舟を助けたかくさんから、今のさだよさんまで、たった1人そのさんしか間に入っていない。
資料はないというが、資料というものはそもそも人間が作ったもの。人間を信用しないと、資料は成り立たない。さだよさんが話しているのは直近の話であり、この内容を信用すべきではないか。
鉄舟が江戸から駿府にいくプロセスで残っている資料は、望嶽亭のことしかないので、この資料で何か構築するしかないのではないでしょうか。間に一人しかいないので、大変重要な資料だと思う。

山岡鉄舟についてわからないことは沢山あるが、鉄舟の残した業績の真相をこれからも究明していけたらと思っている。

【事務局の感想】
今回も、幕末の時代になぜ外国船が来たかということで、「鯨油の時代」という新たな視点、発見を教えられました。また望嶽亭の松永さだよさんのお話も、時間を軸に検討してみるとそんなに時間が経っていないので、信憑性があるのではと、視点を変えればまだいろいろなことが発見できるという山本講師の話でしたので、これからも例会での研究発表が楽しみです。

投稿者 Master : 2005年10月22日 16:00

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