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2005年10月22日

高橋敏名誉教授「山岡鉄舟と清水次郎長」を語る(2)

第二回山岡鉄舟全国フォーラム2005 記録

3、鉄舟・次郎長・愚庵
天田愚庵は、安藤信正5万石の家臣甘田平太夫の子である。
戊辰戦争に加わり、官軍と戦うが、圧倒的な武力で負ける。天田愚庵は逃げるが、戻ったときには両親と妹が行方不明。親を探して東京に出てくるが、生活に窮した。
明治政府からみれば、賊軍ですから、世間は非常に冷たい。事実明治維新政府は会津を筆頭に賊軍だった人は登用しなかった。最初は神田のニコライ堂にロシア正教の寄宿舎に置いてもらった。ロシア正教に入信しなければならなかったが、愚庵は、儒学思想に凝り固まっているから、ニコライ堂から出る。明治は武士道が生きていた時代であり、小池詳敬という明治新政府に仕えている人の食客となる。そこで天田愚案は鉄舟に出会う。そのころの天田愚庵は明治新政府に反感を持っていて、きな臭い雰囲気を持った人物だった。社会も危険な状況が明治10年の西南戦争が終わるまで続く。そんな政情定かではない状況の中で、鉄舟は天田愚庵を心配して面倒を見る。鉄舟は何人も差別しない人で愚庵の話を聞いてやる。

清水次郎長も博徒であり、恐喝も人殺しもした、人前で褒め称えられる人ではない。その清水次郎長に対しても、鉄舟は実に温かい。鉄舟は人の長所に対して温かく評価して、悪いところは見ない。石坂周造には大変迷惑を蒙ったと思うが、苦楽をともにした腐れ縁なのだろうか、鉄舟は終生縁を切らず助けた。

4、書簡から見える鉄舟の人間性
鉄舟の温かみを書簡で説明したい。
―次郎長あての手紙はひらがな―
次郎長に宛てた手紙は、ほとんどひらがなで書かれている。次郎長はようやく読み書きが可能な程度で識字としてはたどたどしい。山岡鉄舟は配慮して、次郎長への手紙は文章も実に明快で、読みやすくしている。天田愚庵を呼びつけて、心配だから次郎長に愚庵を預かってくれと頼んでいる。

次郎長も鉄舟に迷惑をかける。鉄舟寺を建立するときに、伊豆の石を使い320円かかったが、支払えず、鉄舟の書600枚でお金の代わりにしている。
また、末広という旅館の落成祝いの記念に鉄舟の書を1008本扇子に書いてもらっている。鉄舟はこれを引き受けた。

鉄舟が次郎長を知ったきっかけの一つとして、9月18日の咸臨丸事件がある。咸臨丸が難破して清水港に入ったとき、官軍が降伏している乗組員を全部殺してしまった。収容しないため戦死者の死体が港内に浮いていたのを、次郎長が「死んでしまったら敵も味方もない、皆仏だ」と収容し、葬った。それを知って鉄舟が「お前はいい男だ!」と知り合ったという説と、3月9日、望嶽亭から駿府に入ったときに介在していたという説がある。

―石坂周造あての手紙は漢字―
石坂周造に宛てた手紙、清水次郎長に宛てた手紙とは違って漢字が多く、読みにくい。相手を区別して、手紙を書いて送っていた。石坂周造は、やることなすこと詐欺師的だったが、弁舌爽やかで人を本気にさせる才能は持っていた。石油開発にのめりこんで、資金を集めては破産してしまう。鉄舟は保証人になっていて、当時高給取りだったが、今で言う裁判所に財産を押さえられた。
鉄舟は金銭にわだかまりのない人で、信用した人は終生の友だったのでは?
博徒取り締まりで国家の施策として次郎長がつかまった。救援に当たった天田愚庵が『東海遊興伝』を出版したが、これはどうにもならなかった。次郎長の救援も、天田愚庵が次郎長の養子をやめて戻るときも鉄舟は関わっている。

鉄舟に対して残っている資料は点のようにしかないが、研究を進め、一点をつなげていくことにより、鉄舟の魅力は結実していくと思う。

【事務局の感想】
歴史の研究者からみても、鉄舟の記録がないということは研究の難しさがあるということがわかりました。鉄舟・21・サロンでは山本紀久雄氏という研究家がいるお蔭で、その難しい問題に正面から取り組んでいるサロンということで自信が持てます。
歴鉄舟の暖かい人柄ということを歴史研究家から発言していただくことには重みがあります。鉄舟の様々な業績の背景には、この鉄舟の人柄が大きく反映していることは間違いのないことでしょう。

投稿者 Master : 2005年10月22日 15:48

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