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2005年10月22日

山本紀久雄氏「山岡鉄舟を再認識する」を語る(1)

第二回山岡鉄舟全国フォーラム2005 記録

―はじめに―
毎月第3水曜日18時30分に文化会館で例会をしております。毎回30分鉄舟の研究内容をお話している。『ベルダ』という雑誌に鉄舟の研究内容を掲載している。小川さんから写真のお話をいただきましたが、現物の大きい写真は、江戸東京博物館に展示してある。高橋先生から大変含蓄のある話をお伺いした。資料がない中から何とか調べ、点から立体にすべきだというお話。これからも鉄舟の魅力を研究していきたい。

何で、尊王攘夷の過激派の保守派だった鉄舟が海舟と一緒になって、江戸無血開城をやったか?人間ですから、何か時代・社会を受けて本人が変わる理由があった、それを解明しないと役に立たない。鉄舟を勉強するということは、現代に役立てることが大切。鉄舟は、日本生命保険の加入第一号者。明治時代に生命保険の制度ができ、現在の安田生命、共済五百名社、頼母子講みたいなものから始まり、今のように保険を広めた。鉄舟は現代の保険の制度と結びついていると考えると鉄舟が身近な存在になりませんか。

4、歴史とは今を学ぶこと・・・時代のあり方
レジュメの4番、鎖国していた江戸時代1853年に、ペリーが浦賀に4隻の船で日本へ来たことがきっかけとなり、日本が世界に開いていった。ペリーが来たことによって日本は大騒ぎになったというが、幕府はペリーが来ることが1年前にわかっていた。一年前から回答の予行演習を長崎出島でオランダ人に対して行っていた。徳川宗家18代当主の徳川恒孝さんがそのようにおっしゃっていた。「日本は人口3000万人で自給バランスは取れている。外国と貿易したら、自給バランスが壊れてしまう。ただ諸外国の船の水や薪が不足したら、何とかしましょう。」という内容で回答するはずだった。幕府からみたら、交易しなくてもやっていける、というのは筋が通っている。しかし、世界から見れば問題である。ハリスの通訳で暗殺されたヒュースケンは、「もし、日本の高い山に登ったら、たくさんの船がアメリカの旗を翻し、何千マイルも越えて、日本の岸まで鯨を取りに来ているのが見えるだろう。勇気があり、活動力にも欠けていない日本人が、なぜアメリカの岸まで行って、日本の旗を掲げようとしないのか。」

―鯨油の時代―
どうして当時、捕鯨船が日本近海にきたかというと、今は石油文明ですが、当時は、鯨の油の文明だった。欧米では本を読むときの灯りは鯨油。本の出版印刷にも、石鹸の製造にも鯨油は欠かせなかった。石鹸をつくるときに使うグリセリンにニトロを混ぜると、ニトログリセリン、爆薬ができる。ノーベルが巨万の富を気づいたのは鯨油文明だった。鯨を乱獲しており、北欧から、ノルウェー・スエーデンからも鯨を捕り尽くして、日本近海に来た。『風とともに去りぬ』にも登場するコルセットも鯨のひげで作った。
世界は鯨文明だったので、鯨を求めて欧米は遥々日本海に来るが、途中野菜も水も不足するが、日本の港に行けば、鎖国ですから、寄航した船は捕縛してしまう。今の時代、他国の人でも遭難したら助けるのは当たり前でしょう。
グローバルスタンダードに参画しなさいとペリーは言いに来た。

―歴史を学んでいまの日本を学んで行きたい―
明治維新の始まりは鳥羽伏見の戦いなんですね。大阪近辺に、幕府軍は1万5000人くらいいた。薩長は10分の1の1000~2000人の兵しかいなかった。
数で言ったら、幕府軍が多いのに、どうして幕府軍が負けたかというと幕府軍は時代の風に当たっていなかった。幕府軍は時代と社会に負けた。薩摩は当時最先端の強国イギリスと戦い結果は五分五分だった。勝ち負けよりも、欧米の軍事力を認め、学び、取り入れた。
長州は1864年、アメリカ・イギリス・フランス・オランダに攻められて、降伏した。長州の精神的な武力じゃだめだ!と切り替えて、欧米の科学技術を取り入れた。薩長は世界最先端の軍事力に触れていた。幕府は外交交渉ばかりで、知識としては欧米のことは知っていたが、実践経験はなかった。世界の流れを知らない軍隊と、実践ある軍隊とでは、後者が勝つのが事実。現代でもわれわれは時代を知っているようであるけれど、時代を肌で感じる体験が、時代の流れを体系的に知っておくことが、大切だと思う。

投稿者 Master : 2005年10月22日 15:55

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