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2005年10月22日

高橋敏名誉教授「山岡鉄舟と清水次郎長」を語る(1)

9月11日開催 
第二回山岡鉄舟全国フォーラム2005 記録


■「山岡鉄舟全国フォーラム2005」
日時:2005年9月11日(月)13:00~16:00
講演:国立歴史民俗博物館名誉教授 高橋敏氏
元NHK放送博物館館員 小川福太郎氏
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄氏
場所:学士会館
参加者:63名

■国立歴史民俗博物館名誉教授 高橋敏氏
「山岡鉄舟と清水次郎長」
―高橋先生の歴史に対する考え方―
鉄舟の専門家ではないですが、30年くらい歴史学の研究者をやっている。
歴史学の研究は公的な学問であり、江戸時代だと支配、マルキシズムの影響を受けて社会経済学的な側面からみた堅い歴史が教科書になっている。
長年歴史に携わってきて、歴史は正史だけを扱えばいいのかと疑問を感じた。
正史、稗史 (正史に対して民間が語り伝えたもの)と2種類あるが、どちらかというと文献に残らない、排除されたものを拾っていくのが歴史の研究には必要なのではないかと考える。アウトローであった国定忠治や清水次郎長が、時代と社会の中を、どう生きてきたかに興味を持ち、国の博物館では異例の内容だったが、歴史学としてどのように扱えるかを研究し、展示した。

―鉄舟研究のきっかけ―
次郎長については浪曲から、映画、芝居など、1000とくだらない著作・作品がある。岩波書店から『清水の次郎長と幕末維新-『東海遊侠伝』の世界-』を出版したが、これは、天田愚庵が次郎長の話を聞いてまとめた『東海遊侠伝』を資料とした研究書である。種本をアカデミックに研究することは今まで誰もやらなかったことだが、今後次郎長に対して、研究するときに基準になるであろう本である。この次郎長の研究の際に山岡鉄舟を研究した。

次郎長の養子にもなった天田愚庵を次郎長に紹介したのが山岡鉄舟である。
鉄舟について書かれている本はあるが、アカデミズムの研究者が本格的に
扱っていない。理由は、山岡鉄舟が書き残した、もしくは周辺の人が書き残した第一次資料がないからである。

―鉄舟研究の難しさゆえに魅力があり、新事実の可能性がある―
国定忠治には伝記や、取り締まり側の代官が書いた資料があるからアカデミックな研究書も書ける。
鉄舟は自らの栄誉とか名誉について語っていない。幕末に活躍した人は勲章を貰って、偉くなったつもりで銅像や伝記を作らせた人もいるが、鉄舟は、そういうことをしなかった人でしょう。そのことが研究を難しくしているが、逆に謎だから魅力がある。鉄舟の資料は点のようにしか存在しない。
歴史というのは、これら線を面にし、立体化していかなければならない。鉄舟21サロンで「現代と山岡鉄舟を結びつけて」とおっしゃっているように、時代がどのように変わろうとも、鉄舟は、その時代時代の中で見直され、読み直されていくのではないか。鉄舟は描くのが難しいといわれている人だが、逆に謎だから魅力があり、研究により新しい事実が発見される可能性がある。


1.幕臣山岡鉄太郎の周辺
―江戸時代には旗本・御家人株が売買できた―
江戸時代の初めから、系譜、家譜、由緒といい、大名・旗本・御家人と制度的に決められていくが、江戸時代の幕末には、旗本・御家人株の相場があり、お金があれば買うことができた。

勝海舟の出自は本来の勝家とは血縁関係はない。
徳川幕府は18世紀ごろから変容していくが、身分の移動は幕府が潰れていく証拠じゃないかというとそうでもない。徳川幕府の人材登用の一つの政策だったのではないかと考える。
かつては百姓・町人、豪商が侍になろうと御家人株・旗本株を買って、旗本や御家人に納まった。養子になれば問題ない。
元はといえば、海舟・鉄舟の旗本・御家人は幕府の支配体制でいえば下の方だが、
幕末に躍り出てくるのは、彼らの持っている能力や人間性である。

―鉄舟は小野道風の子孫―
「寛政重修諸家譜」という幕府が公認した系譜がある。山岡鉄太郎、元は小野鉄太郎。小野家を調べると、小野家は600石の旗本。旗本では中クラスで、将軍に御目見えできる。嘘か本当か分からないが、小野道風の子孫であると書かれていた。鉄舟が書家なのは、隔世遺伝ではないか?といえば面白い。

―鉄舟の生い立ち―
鉄舟の父、朝右衛門は、寛政2年に600石の旗本を継いだ。御蔵奉行にもなり、将軍からいただいた俸禄の600石分の知行所を支配している。
朝右衛門の場合は知行所から上がる年貢分の600石と役料として200俵・飛騨郡代のときは400俵もらっていた。この年貢の分と役についている役料分が1年間の収入になる。この御蔵奉行にしても、飛騨郡代でも、実入りが良いのではないか。『江戸の訴訟』(岩波新書)にも書いたが、江戸時代は賄賂と贈答の世界。御蔵奉行、飛騨郡代としても、結構な職であって、見入りがあったのではないかと思う。郡代役所に加え、出張陣屋が2つあり、手付け・手代だけで24人いた。小説を紐解くと能力のない人といわれているが、それなりに出世した人ではないか。鉄太郎は、朝右衛門の後妻の子供。朝右衛門のあとは長男が継ぐことになっていたので、鉄太郎は、部屋住みであった。

母の磯は3番目の奥さん。おそらく朝右衛門の知行所は常陸にあり、その知行所を差配していた地方の役人、塚原岩見の娘。塚原は朝右衛門の知行所を切り盛りしていた。磯とは年が離れていたが、朝右衛門は一生面倒見るからと証文を書き、結婚した。嘉永4年、鉄太郎16歳のときに母親が、翌年父親が亡くなる。乳飲み子も含めて弟が5人おり、父親は枕元で鉄太郎を呼んで、後のことを託したという。

磯は、身分的には百姓・町人の娘だが、金銭面の管理もしっかりした人だった。
600石の小野の家は腹違いのお兄さんに持っていかれる。産んだ子6人をどうにかしなきゃいけない。鉄太郎も含めた兄弟たちが養子にいくための持参金として3500両を子供に残した。旗本が養子にいくには数百両の持参金が必要であり、持参金としては決して多い数字ではないが準備していた。

小野家の年収は、概算でおよそ502両である。7年くらい飛騨郡代をやったとすれば3500両くらいにはなる。年収すべてを貯めることはできないから、3500両を残すことはすごい数字ではあるが、磯の管理と贈り物などで、実際にこの金額があった可能性はある。

山岡鉄舟は自分の剣術の先生山岡静山の妹、英子と結婚し、山岡家を継ぐ。高橋泥舟の家は、もっと家についている年収は低いが、足し高の役料がある。

2)江戸切絵図
復元江戸情報地図で朝右衛門の家を調べたところ、
現在の千代田区九段の衆議院議員宿舎付近で、1000坪あるかないかのお屋敷。
山岡鉄舟・高橋泥舟の家は隣同士といわれており、現在の小石川4丁目付近。
鉄舟の屋敷地所は横に曲がっていて、やや広め。道場も作ったというし、清川八郎の首を鉄舟が一時庭に埋めたという話しもある。100坪以上あるので、清川八郎の首も庭に埋めることができたでしょう。

2、幕臣の明治維新
今日お話しする、鉄舟・清水次郎長・天田愚庵、この人物は魅力的。明治維新で幕府は倒れ、明治新政府により、明治が始まった。
フランス革命のように非常にドラマチックなことは起きなかったが、一大変化が起きた。徳川家も生き延び、血を流すとか、悲劇的なことは避けた革命であった。明治維新の変革は日本型の改革として評価してよいと思う。

3人を結びつけるのは、明治維新に対して旧幕の負い目を感じている点。
幕臣でありながら明治新政府に出仕した勝海舟なども負い目を感じていたのではないか。

鉄舟を有名にしている明治元年3月9日、駿府に徳川慶喜の密使として、江戸を戦乱の大火から守った。幕臣でありながら、自らが徳川幕府にピリオドを打たせたキッカケを作った。そのことが鉄舟という人物に対して、大変暖かい人間性をつくったような気がする。鉄舟の周囲には天田愚庵、石坂周造、村上俊五郎など、鉄舟なくては生きられない人が食客としている。

しかし鉄舟は、当初尊皇攘夷運動に賭けていった清川八郎と一番近かった。
清川は自分の村の名で本当の姓は斉藤で、ゆたかな家の資金を投じて、尊王攘夷を組織していく。危険人物である清川八郎と繋がっていたが、鉄舟は旗本で屋敷を構えているので、江戸の治安を守る町奉行は手を出せない。鉄舟を捕らえるには、目付の許可が要る。旗本であったことで、幕府を否定する側の清川と組んでいても危なくなかった。

投稿者 Master : 2005年10月22日 15:40

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