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2005年10月22日

小川福太郎氏ベアトの写真の秘密を語る

第二回山岡鉄舟全国フォーラム2005記録

ベアトの写真の秘密を見て気がついたことをお話いたします。
愛宕山は、大正14年3月22日に初めてラジオ放送が始まった日本の放送が生まれた場所。NHK放送博物館は、それまで展示していただけだったが、来館者に説明を行うことになり、私は平成8年からボランティアとして放送博物館にて来館者説明していた。
―1866年と今の景観が大きく変わらないのではないか―
配布したのはベアトの撮った写真で、この写真がNHK放送博物館に展示してあり、いつも眺めていた。勝海舟、西郷隆盛がご覧になったのはこの写真を撮った1868年より2年前ではないか。道路やお寺は変わっていない。眺めているうちに、そう景観は変わらないであろうと気がついた。右の森には専修寺、道を隔てた森の前辺りが慈恵医大、左側の道路は愛宕下通り、真ん中の写真の上が江戸湾(東京湾)、近くに見える森は浜離宮、左側、大きなお寺風の屋根は築地本願寺。

真ん中に大きな木があるが、関東大震災まであった新橋のおばけ銀杏。国道一号線のところに浅野内匠守終焉の地、自刃の碑があり、中村碁盤店にこの木が立っていた。もう一つの資料の住宅地図は凡例図、お寺は黒塗りになっている。
―牧野備前守の屋敷―
中央手前に写っている白と黒の壁は108メートルくらいある。建物の後ろの方にある牧野備前守の屋敷は敷地3500坪あったのでは?
手前のところの一見平屋のように見えるが、2階屋。真ん中の写真。左から右のほうに見ていくと、屋根の下に屋根がある。これを見ますと、江戸上屋敷・下屋敷というが、全部塀で囲ってあり、塀の中には下級武士(一般社員)が入っている。上屋敷は上司・奥方が住んでおり、その周りには下級の職の方が住んでいたのでしょう。それぞれにご覧にいただくと、櫓あります。自分の家に火を出さない火の用心・盗難防止を含めて、火の見やぐらの意味も持つ。
よくご覧になると真ん中の写真の左のほうに屋根の下に屋根がある。これは、屋根があって、その下の小さな屋根はスライドの屋根になって、煙だしの口。
ということは、そこは勝手口。現在の換気扇という生活状態だったろうと思う

―人が写っていない―、―しかし良く見ると―
写真には夜でもないのに、人が一人も写っていない。これは、当時は写真の露出時間が長いからです。シャッターを切って、映像が感じるまでの時間が長いので、動くものは写らない。
しかし、写真をよく見ると、4・5人移っている。たとえば写真の一番下。欄外に「幕末写真帖(愛宕山から見た江戸のパノラマ)」の「見」の字の3cmくらい上、お寺の庇の下の所に屋根を見上げている人の頭が写っています。愛宕下の真福寺のお坊さんでしょう。何を見ているかというと、真福寺の屋根の一番端の瓦が壊れている。真ん中の一番上の方に梯子が掛かっていて、屋根瓦を直している。その右の上に松の木が見えて、2つ森が見えて、その下あたりもそうだが、3人の人が見える。あらゆるところの屋根瓦が傷んでいるので、9月ごろの台風の後であろうと推測する。

住宅地図は、すべて名前の向きが違っている。写真の一番下中央より右側に道路があり、に反対側に松平正三郎と名がある。すべてこの住宅地図は正面玄関の方を向いて、名前が書かれているということも勉強になった。

住宅地図の真ん中の上にある「虎ノ御門」は、現在の虎ノ門です。
明治の跡、すべて壊して、京浜東北線になった。右のほうの黒くなっている。

新橋の駅の近く、お堀、地下が銀座線。ずいぶん様相が変わっているが、道路はあまり変わっていない。西郷と勝海舟がおのぼりになったあと、愛宕神社の45度の急な階段86段を上っていた。ここから、このような状況でこの雰囲気で、西郷・勝は、鉄舟の計らいでお会いになって、官軍で火を放つことはなかった。
写真を見て気がついたということで、ご披露させていただきました

【事務局の感想】
NHK放送博物館には、一度お邪魔して小川さんに解説をしていただいたことがありました。珍しいものが残されています。その中の一つが、今回解説していただいた
写真です。この発見も毎日見ている人でないと気が付かない事柄でしょう。
皆様もぜひ一度NHK放送博物館に足を運んでみられてはいかがでしょうか。

投稿者 Master : 2005年10月22日 15:52

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