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2007年01月12日

第三回山岡鉄舟全国フォーラム 記録

■北海道大学文学部教授 井上勝生氏

「幕末・開国のころの江戸」


明治維新という近代化が、どういう底流で成し遂げられたか、それを私がどう考えているかについてお話ししたい。

ペリー来航時の日本の応対について、記録の解明が進んで以前とイメージが随分変わっている。第一回の外交記録の資料をご紹介しながら、最近の研究者がどう評価しているか、ペリー側と幕府の外交交渉がわかる第一次資料である「日本遠征記」中心にご説明したい。

ペリーの艦隊と幕府が外交交渉は、軍事力に格段の差がある中で外交が行われる。ペリー側の蒸気軍艦は2400トンに対し、日本の千石船は100トンクラスで、大砲の性能も格段に違う。

6月3日にペリーが日本に来航し、6月6日(月)ペリーは阻止線を突破して江戸湾の内海に入ってくる。

この軍事的脅威を浦賀奉行所は番船40隻くらいで、阻止しようとしていた。
その時の記録された画ではアメリカの測量船は銃剣を突き出し、護衛の川越藩は槍を出しており、いつ軍事衝突が起きてもおかしくない一触即発の状態。

日本側の外交代表になったのは中島三郎助、香山榮左衛門の2名。
対話書(幕府と外国との外交交渉の記録書)によると、中島三郎助はペリー側に、浦賀から内に勝手に乗り入れることは禁じているので速やかに元に戻るよう伝えている。香山榮左衛門もペリー側に、内海に乗り入れるのは法に反していると抗議をする。

三郎助に対してペリー側は、“江戸湾の中を運行するだけだ”と答え、香山に対しては“他に仔細はない、幕府が書簡を受け取らないときは、江戸湾内海に乗り入れてやりたいようにやり、海底の測量をする”という人をくった返答をする。
当時の社会ではどちらに正当性があったかというと、近代、国際法に照らしても中島三郎助、香山榮左衛門の発言が正当。では領海は、商船には通行権はあるが、軍艦には通行権はない。入り口の幅が6海里の湾は内水なので、江戸湾は領土と同じ扱い。国際法上領土であるところへ臨戦態勢で入っているのは全くの違法行為。しかもペリーは不法行為をしていることを知っている。

軍事力の格段の差をわかっていながら、幕府はペリー艦隊の違法行為を伝えている。外交の場面で言うべきことを言っており、ペリー側は引き返している。

この後、幕府は老中、若年寄り、3奉行が合議をし、アメリカの国書を受け取る。アヘン戦争(1840-42年)で中国が敗北しており国書を受け取らざるを得ない状況ではあったが、この時はアメリカの行動を出来る限り抑えることが方針だった。

中島三郎助と香山栄三郎は与力(百石クラス・中級と下級の境くらい)で、当時百石クラスの武士に優秀な人材が集まり、幕府の実務、現場の実務を担い、支えていた。交渉力で言ったら、非常に緊迫した中で言うべきことをいう能力を持っており、評価に値する。

後に中島三郎助は幕府の軍制改革の指導者になって、幕府の要職につく。幕府に忠義を尽くし、函館戦争で戦い、息子2人と戦死する。
香山榮左衛門は、控えめな紳士でヨーロッパの知識もあり勉強していた。維新後は50万坪の茶園を経営して成功する。輸出に従事したのではないか。

日本の開国は、軍事力の差により開国したと否定的なイメージが一般的なものとして植えつけられたが、軍事力だけで押し通していたペリー外交に対し、外交交渉で言うべきことを言った日本の外交のほうが評価できる。


日本の庶民はペリー側にどういう接し方をしたのか。従来出来上がったイメージでは、幕府は鎖国している閉じた社会であり、対外的な知識がないので恐れを感じ、庶民に発生する感情は恐怖と警戒、あるいは恐怖とコンプレックスというもの。

国書を受け取った翌日に起きた国際社会の出会いのベースともいえるべき一つの事件を紹介する。
西暦で7月15日にペリー側の水兵と庶民が突然出会う。外国人を見ようと大勢の人が集まり、歓迎の意を表して水や美味しい桃をくれる住民も居たという。そのうち互いに友情が芽生えて、お礼に拳銃を撃って見せたら驚き喜んだ。水兵たちは日本人の親切な気質や国土の美しさに有頂天になった。絵のように美しい景観と、社交的な日本人でファンタジーのような世界が議会に提出した公の記録である日本遠征記に書かれている。

ペリーらが当時の金沢八景に入ったことが記録からわかる。夕照(せきしょう)、夕映えなどで有名な場所。

日本人からもらったものの記録に「梨」と「桃」の違いが見られる。桃であれば、7月中旬なので美味しく見事な桃があったと思われる。現在の「青い梨」は「幸水」だが、幸水の収穫は9月。神奈川県の農業技術センターに7月中旬に青い梨があったのか問い合わせた。

幸水は昭和35年ごろに導入した新種で、長十郎が一番遡れるが明治30年頃。
江戸時代は300種類の梨があったが、明治に入ってから近代化で、市場化して売れる品種に品種は整理された。
江戸後期につくられていたのは、ぎんまつ、おくろく、まつお、わせろくという4品種で、現存していない。ペリー側の水兵がもらった梨は「わせろく」で、6月下旬から収穫できる青い梨とのこと。

ヨーロッパでは博物学が発達していた。日本の本草学とリンネの分類学は違う。本草学の分類は、分け方が人間臭いと思ってしまう。そんな分類項目がある。リンネの分類学は、おしべ・めしべなどから分類している。

杉田は当時梅干の生産地で、梅の林が江戸名所図会に描かれている。
江戸湾の西海岸は実に美しく、梅の林が広がっており、欧米人が感嘆している。
今は、重化学工業の基地、シーサイドライン、三菱重工業、金沢工業団地、米軍石油貯蔵所ができ、景観が激変し面影がなくなってしまった。

近代化して成功はしたが、大変に美しかった江戸湾がなくなってしまった。江戸は変化朝顔ができて200種類以上の朝顔があるガーデニングが盛んな時代。
現在その当時の朝顔を再現しようとしているができないものもある。
梨・朝顔も含め、豊富な地域差があった江戸日本は、明治に中央集権となった結果なくしたものも多く、この失くした一面も忘れてはいけないこと。

また日本は、美味しく見事な桃や梨もあり、美しい景色もあった。日本人はものすごく社交的で物怖じしなく、親切。
嫌悪と警戒は文明開化以後で、西洋に遅れている、追いつこう、というコンプレックスから生まれてきている。
もともとは国際社会の出会いは、警戒がベースではない。肌の色や言語の違いから恐怖と考えるか、同じ人種同士でも違いはあるもの同じ人間というのが原点なのか。同じ民族の中でも肌の色や言語の違いなど隔たりがある。国際的な違いを恐怖と捉えず、親和的な気持ちを持つことをベースに国際関係を考えたほうがいい。
最近の研究(比較文化・歴史学)に寄れば、ナショナリズムや民族は実は近代になって創られたものである、と言われている。

和船はよく漂流した。太平洋で遭難するとアメリカ西海岸、北で遭難するとシベリアに漂着し、南で遭難すると東南アジアに着く。若い者たちは、帰国せずその国に住んだものも多かった。

平凡社ライブラリー 『逝きし世の面影』 渡辺 京二(在野の研究者)
幕末、日本人と開国した欧米人との出会いが従来のイメージと異なることを書いている。
もともとの日本人が持っていた、江戸社会が大事にしていた夕暮れの雪を愛でるような美意識は我々がなくした。

秋におりてくる落雁、梅園、大田区の梅屋敷は、江戸名所図会にも登場し、名残は残っている。武士も庶民も花を愛でる時代だった。

江戸では300種類の梨があり、変化朝顔があった。再現しようと試みているが、再現不可能な品種がある。現代は江戸時代と比べ進歩しているわけではない。すみわけが成熟し、発展を遂げた社会が江戸時代。
成熟しているとはいえない今、人類史から学ぶべきであろう。

投稿者 staff : 2007年01月12日 11:14

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